Namibia: Live stream in the Namib Desert
ナミビアのナミブ砂漠にある人工池のライブカメラ。遅ればせながら最近知ったのですけど、これ、楽しいですね
野生動物好きにはたまらん。
何を隠そう(別に隠してないが)、私は子供の頃から野生動物の番組を見るのが大好きで、アラスカに行ったのも第一の目的は星野さん、第二の目的はデナリ国立公園でオオカミを見ることだったのだ。アフリカのサバンナや砂漠は長年行きたいと思いつつ、いまだに行けていない。
FAQによると、この人工池はthe Gondwana Namib Parkというthe Namib Naukluft Parkに隣接する私有地の中にあるそうで、ここから8kmのところにはThe Namib Desert Lodgeというロッジがあり、宿泊客は電動自転車でこの辺りを散策できるそうな。うーむ、野生動物と人間の距離があまり近くなりすぎるのはお互いの為に良くないと思うがなあ…。共存とは親密になることではなく、それぞれの世界を尊重して生きることでしょうに。
さて。
今日の昼頃(ナミビアは夜明け前)に覗いてみると、一匹のイヌのような動物が水を飲みに来ている
近くに仲間の姿はありません。
こちら↓が、そのスクショ。現地時間の午前4時過ぎ。
調べたところ、耳の形や毛の色合いからBlack backed jackal(セグロジャッカル)のようです。
アラスカで見たオオカミや他の動物達もそうだったけど、野生動物って動物園の動物とは動きや空気が違いますよね。生き生きしているけど、常に神経を周囲に張り巡らしているような。美しいんだよねえ。
しばらくすると、夜が明けてきました。
美しいねえ、砂漠の夜明け。。。。。
14時頃(現地時間)には、ダチョウのファミリー↓がいました。
水浴びをしているのがお母さん、手前の色の濃いのがお父さん、右手のちっこい三羽が子供達です。子供達、ずっとお父さんの後をくっついて歩いていて、可愛かった
そのちょっと後に来たオリックス↓。
このライブカメラで一番よく見る動物です。
19時頃、再び姿を見せたセグロジャッカル↓。
主に夜行性で昼間は巣穴で休むそうなので、これからが彼らの時間ですね。
夜中に砂漠の中を一匹で歩いているジャッカルを見ながら、サン=テグジュペリを思い出していました。
『星の王子さま』のキツネよりも、『人間の大地』のフェネックの方を(まあキツネのモデルがフェネックなんですが)。
フェネックは、北アフリカのサハラ砂漠などに生息するイヌ科の動物で、世界最小のキツネの仲間。
サン=テグジュペリはキャップジュビーで飛行場長をしていた時にこのフェネックを育てていたことを家族への手紙に書いていますが、『人間の大地』の中ではリビア砂漠に不時着をしたときの描写にこの動物が登場します。水も食糧もなく、夜明けの砂漠を人影を求めて彷徨うサン=テグジュペリ。そこで彼は、一匹のフェネックの足跡に出会います。
ここにあるのは生命のサインだ。それが僕には心地よい。喉の渇きもしばし忘れる。(中略)僕はフェネックの足跡を辿って、結局、巣穴に戻ってくる。おそらく巣穴の中ではフェネックが僕の足音に怯えながら、じっと聞き耳を立てているだろう。僕はフェネックに話しかける。「僕のかわいいキツネさん、僕はもうだめだよ。だけど、妙なものだな。もうだめだっていうのに、君のご機嫌が気になるんだからな」
僕はそこに立ちどまって、夢想に耽る。どうやら人間というのはどんな状況にでも順応してしまうものらしい。三十年後に死ぬかもしれないという考えは、そう考える人の今この瞬間の喜びを損ないはしない。そして、三十年後だろうが、三日後だろうが……つまるところ、遠近法の問題だ。
ただ、そう言い切ってしまえるためには、いくつかの面影を忘れ去らなければならないが……。
(光文社古典新訳文庫『人間の大地』「VII 砂漠の中心で」より)
彼は自分自身のためではなく、その”面影”のために生きるのを諦めてはならないのだと感じます。
もちろん、僕は一つの明白な事実をすでに知っていた。この世に耐えられないことなど何一つない、という明白な事実を。明日も、明後日も、僕はやはり耐えられないことなど何一つないのだと身をもって知ることになるだろう。拷問の苦しみにしても、僕は本気でそれが耐え難いものだとは思っていない。(中略)それでもなおこの世に耐えられないことがあるとすれば、それはこれだ。僕は僕を待っている人の目を思い出す。すると、そのたびに焼きつくような痛みを感じる。突然立ち上がって、走り出したくなる。あそこで誰かが助けを求めている!
(同上)
砂漠が美しいのはなぜか。それは、どこかに井戸を隠しているから——。
一見したところ砂漠は沈黙と空虚以外の何物でもないが、それは砂漠が行きずりの男に体を許したりはしないからだ。何の変哲もないフランスの村でも、生きずりの男に体を許したりはしない。僕らがその村のために残りの世界のすべてを放棄し、村の伝統と習慣に帰依しない限り、そして村の敵を僕ら自身の敵としない限り、なぜその村がある人々にとって心の祖国たり得ているのかは謎に留まる。あるいはこう言った方がいいだろうか。僕らのすぐそばに、自らの僧房に閉じこもり、僕らの知らないルールに従って生きている男がいるとしたら、その男は本当はチベットの僻地、どんな飛行機でも辿りつけない遠隔の地をさすらっているのだ、と。男の部屋を訪ねたところで何になろう。部屋はからっぽだ。というのも、人間の王国は心の中にあるからだ。人間の王国としての砂漠を構成するのは砂でもトゥアレグ人でもムーア人でもない。たとえそのムーア人が銃を持っているとしても、だ。
とはいえ、今では僕らも渇きを知っている。今なら、かつて目にしたあの井戸が、じつは広大な空間に光を投げかけているのだということもよく分かる。姿の見えない一人の女性の存在が、家全体に愛の魔法をかけるようなものだ。井戸の放つ光も、愛の力も、どちらもはるかかなたにまで及ぶのだ。
(同上「VI 砂漠にて」より)
紅の豚まで話がいく前に長くなってしまったので、続きは次回に。
ところで、東京の井の頭自然文化園ではフェネックを見られるのだそうです。わ〜見たい!
って、コロナで閉園中か・・・