なんのかんの楽しんだ北京五輪も終わってしまった。
フィギュア、美しかったなあ。一度生で観てみたい(と言いつつ十ン年…)。
ロシアのドーピング云々については、真相が解明されていないのでとりあえず置いておくとして。
フィギュアの演技そのものの美しさはもちろんだけど、五輪はああいう緊張感の中で一人で演技をする選手達の精神力の強さにも毎回感動してしまう。私自身は豆腐のような精神力なので。
一方でクラシック音楽を聴くようになって、制限時間内に収めるための抜粋や編曲が意外と強引なことが気になるようにもなってしまったり。「え、そこでもうフィナーレ…!?」とか。音質がもう少し貧相じゃなければ演技の美しさが一層際立つだろうにとも。
ていうかそもそも、、、
フィギュアスケートってスポーツなの?芸術なの?
もちろん五輪の種目になっているしスポーツに他ならないのだろうけど、この疑問は見るたびに感じる。
スポーツなのに「演技」が重要というのも奇妙だし、「芸術点」(演技構成点)って何よ??とググってみると、「スケート技術(Skating Skills)」「技と技のつなぎ(Transitions)」「演技表現(Performance)」「振付け・構成(Composition)」「音楽との調和(Interpretation / Timing)」の5項目を10点満点で採点するとのこと。
最初の2つはいいとしても、「演技表現」「振付け・構成」「音楽との調和」の良し悪しって多分に主観的なものよね…。「演技表現」はわかりやすい表現を素晴らしいと感じる人もいれば、控えめな表現を上品でいいと感じる人もいるでしょうし、「音楽との調和」も一見客観的なようだけど、音楽とピタリと合った滑りを良しとする人もいれば、細かな部分では多少ずれていても全体の自然な流れを重視する人もいるでしょうし。「振付け・構成」は言わずもがな。これはもはや選手の実力以外の部分だし。
別に芸術に点数をつけることを×と言っているわけではないのです(賛成はしないけど)。ピアノや絵画にもコンクールはあるし。でもそれらはあくまで「芸術とは本来点数をつけられないものである」という共通認識の上に成り立っているのであって、審査員が個人の芸術的主観を基準に審査していることを参加者も了解していて、審査結果の意味合いもスッキリしているといえばスッキリしている。
一方でフィギュアスケートは本来なら客観的に技術的観点から採点されるべき「スポーツ」であるにもかかわらず、主観的にしか判断しようのない芸術的観点までが採点基準に含まれているものだから、おかしなことになる。結果として、いつもスッキリしない後味が残る競技であることは事実よね。アイスショーなら「芸術」や「エンターテインメント」とハッキリ言えるだろうけれど。私がいつも拝読しているオペラやバレエの芸術ブログの方は「競技のフィギュアスケートには興味がない。アイスショーなら見てみたい」と仰っていて、その気持ちもわかる気がするんですよね。もちろん「勝敗を競う競技だから面白いんじゃないか」という意見もわからなくないけれど。
しかし考えてみたらアイスショーでも音楽はやっぱり短縮されちゃっているのではなかろうか。行ったことがないのでわからないけど、スケーターの体力的にクラシック音楽を一曲丸ごととか無理よね。ロックやポップスならできるだろうけど。やはり音楽も楽しみたいならバレエか
それはそれとして、エキシビション後の羽生さんのインタビューが印象的だった。
-「春よ、来い」に込めた思いとは。
「いろいろ詰め込みすぎて、何がとは僕の口から言い切れないけど、本当に皆さんにこうして見ていただけるからこそ、こうやって滑ってこられたと思う。見ていただけるからこそ、僕の演技に何かしらの意味が生まれると思うので、皆さんに感謝したい」
-競技後の練習で過去のプログラムを滑った。どんな思いか。
「とにかく自分がやりたいことを、こうして見ていただける今だからこそできるすべてを、この五輪の地でやりたい気持ちが強くあった。本当に幸せな時間だったと思う」
-北京五輪はどんな大会になったか。
「いろんなことを深く考えさせられた。今まで、努力してもどうしようもない時期はたくさんあった。皆さんの記憶の中にある羽生結弦はソチ五輪、平昌五輪と成功している自分が多いかもしれないけど、僕はここまで競技を続けて、自分の中のどん底を何回も見てきた。そういう意味で今回、大人になって、人生って報われることがすべてじゃないんだなと。ただ、報われなかった今は、報われなかった今で幸せだなって。不条理なことはたくさんあるけど、少しでも前を向いて歩いて行きたい」
(デイリー)
最後の一答、重い実感を伴った、でも自然な良い答えですね。
そもそも何をもって「報われる」とするのかも、一概には言えませんよね。ある面では報われていなくても、別の面では報われていることもある。90%は報われなくても、10%は報われることもある。黒か白か、0か100かではなく、色々な色がいっぱい混ざっているのが人間であり人生なのだと思うし、そこに幸福を感じるための鍵もあるのだと思う。
でも「報われなかった今は、報われなかった今で幸せだなって。不条理なことはたくさんあるけど、少しでも前を向いて歩いて行きたい」とはっきりと言えるのは、それだけの努力を積み重ねてきた結果の場所にいま彼がいるからなんですよね。
やるべき努力をやってこれていなかったら、報われなかった今も幸せと感じたり、不条理を受け入れて前を向こうと思ったりはできないだろうと思う。
結局未来の自分の幸せの鍵は現在の自分の時間の中にあるのだな、と27歳の彼に改めて教えてもらえた北京五輪でありました。
そして北京五輪が終わったことでいよいよシャンシャン🐼の中国返還の現実味が増し、私の豆腐のような神経はグチャグチャなのである
自然がいっぱいの臥龍にいた方がきっと本人(本パンダ)も幸せだろうという気持ちと、あちらでもちゃんとケアして愛してもらえるのだろうか?という心配と。そもそも日本から臥龍に帰ったパンダ🐼って過去にいないのではなかろうか。白浜🐼はみんな成都よね…。臥龍って野生に帰すための基地よね…。まさか温室育ちのシャンシャン🐼を野生に帰すなんて無謀なことはしないと信じたいが、アメリカ🐼の前例があるし…。とにかく幸せでいてくれさえすればいいです。私達人間にこんなに沢山の幸せをくれたのだから、幸せでいてくれないとダメだよ。