※ネタバレあり
映画の方はむか~し(20代の頃)一度だけ観たことがあって、でもストーリーはラスト以外は覚えてなくて。
あのラスト、人間の人生の幕が予期せぬ一瞬に無情にストンとおろされる感じが、すごくリアルで。
なんとなくフランス映画のように記憶していたけど、今調べたら、アメリカ映画だった。言語も英語。
当時映画を観たときに、「存在の耐えられない軽さ」というのは、人生や人の命の儚さのことを言っているのだろうな、となんとなく思ったのを覚えている。
でも先日クンデラが亡くなったニュースを知って原作を読んでみようと思い立ち(今このきっかけで読まないと一生読まない気がした)、読んでみたら、「存在の耐えられない軽さ」とはそんな意味では全くなかったのだった。
プラハの春以降のチェコの状況が思いのほか深くストーリーに関わっていることも知ったけれど、それはストーリーの再重要部分ではない。
一生の時々の中で私達は何らかの人生の選択をしなければならなくて、それが正しいか否かは誰にもわからない。なぜなら人生は一回きりしか経験できないから。
小説の冒頭で作者は、ニーチェの「人生は永遠に繰り返される、だから一つ一つの選択はとてつもなく重くなる」という永劫回帰の思想を紹介する。続いてパルメデスの「軽いものはポジティブであり、重いものはネガティブである」という思想を紹介し、果たして本当にそうなのであろうか?という疑問を提起する。
そして読者は4人の男女が繰り広げる人生の物語を作者とともに眺めながら、この疑問について考えてみることになる。
この疑問に対してクンデラは明確な結論を出しているわけではないけれど、それでも、人生の目的が「個人として幸福であること」であるとするなら、作者は「重さ」の方に、トマーシュとテレザの生き方の方に共感を覚えている、という風に感じられる。
池澤夏樹さんは本に付帯されたコラムの中で「ぼくはサビナが好きだ」と書かれていて、それは私も同感だし、私は明らかにサビナのようなタイプだけれど、それでも池澤さんが「作者は格別の愛を彼女に注いでいるし、そういう我儘な生きかたが彼女を不幸にしないように配慮している。明らかな贔屓」と書いているようには、私は感じられなかった。
「個人としての幸福」を人生の最期に感じているのは、サビナではなく、もちろんフランツでもなく、トマーシュとテレザであるように作者は書いている。
社会的義務から切り離された自由を含め、彼らは結局は自らそれを選択しているし、偶然の積み重ねの上にあるたった一度きりの綿毛のような「軽い」人生の中で、愛する人の人生の「重さ」を引き受けることによって得られる、それでしか得られない幸福を感じている。何より、彼らは相手を心から愛している(たとえトマーシュが肉体的に幾多の浮気をしたとしても、テレザへの感情が愛でなければ何だというのだ?)。相手の人生を責任とともに引き受けたことで相手への愛情が増している一面もあるかもしれないけれど、それでも根本には最初から最後まで、唯一の相手への愛情がある。その点で、サビナがフランツに対して持っていた愛情とは少し種類が異なるように私は感じるのだけど、どうなのだろう。
それともトマーシュとテレザの間の愛情も、「偶然」の結果にすぎないのか。もし偶然違う相手と出会っていたら、その相手と恋に落ちたのだろうか。それならテレザはともかくトマーシュはとっくに別の誰かと本気の恋に落ちていてもいいはずでは?と思ってしまう。やはり相手がテレザだったから、という理由は大きいと思うのだけどな(彼がテレザに感じた「同情」は、他の女性には感じていなかったものだ)。たとえその出会いは偶然の結果だったとしても。その「偶然」にしても全てが真の偶然ではなく、テレザは自身の望む運命を作り出すために、「偶然」という状況を敢えて作り出してさえいる(ホテルの6という部屋番号と自身の退勤時間の6時を敢えてかけたり、その時に流れていたベートーヴェンの音楽に意味を与えたり)。
結局我々の人生は一度きりしかなく、未来は誰にもわからないのだから、「いまここ」に生きている自身が全てで、そのような自分が、制限された選択肢の中でそれでも懸命に考えて自分にとってベストと思う選択をする以外になく、良し悪しの結果は(自分の力の及ばないところで)後からついてくるものにすぎない。その結果が丁と出ようと半と出ようと、人はそれを受け入れるだけ。その場所でまた次の選択をしながら、その結果を受け入れながら、生きていくだけ。
とまあ色々書いたけれど、正直とてもわかりにくい小説で、ちゃんと理解できているとは全く言えないのだけど。
私は最近すこし本の読み方が変わってきていて。
本当に自分にとって読む価値さえなかった本というのは確かに存在するから、それは別として。
「好き」「嫌い」「面白い」「面白くない」だけではなく、中には「決して全面的に共感するわけではないけれど、妙に心に引っかき傷のようなものを残す本」というのがあって。
その引っかき傷は、私の中に何らかの理由があるからで。
その本を読むことで自分の中のそういう部分に気付かせてもらえること、向き合うきっかけをもらえること、というのは実はとても貴重なことなのでは、と最近思うようになった。
ただ日常を生きているだけではなかなか向き合えないこと、そのきっかけも勇気も余裕も持てないこと。
そういうものを、本はサラッと見せてくれたりする。
突然向き合わせられるから、ドキッとするし、決して快適な感情だけではないけれど。
そのまま流してしまわずにその引っかき傷に向き合ってみることは、実は一冊の本と出会う意味として、とても価値あることではないか、と思うようになった。
この本も、そんな本の一つ。
しかし本との出会いというのは面白いもので、人との出会いと似ているな、と思う。
この本だって出会おうと思って出会ったわけではなく、クンデラの死のニュースから気まぐれに読んでみようかなと思っただけで、「偶然」に過ぎない。
でも、そこから新しい自分と新しい世界が広がっていく。
出会いを生かすも殺すも自分次第であるところも、似ている。
※追記:
映画の方も再び見てみました。主役三人、ピッタリですね!そして音楽がとても美しい。ソ連の衛星国であるチェコの場面は、映像で観るとより現実味をもって感じられました…。
p8
もし永遠の回帰がこのうえなく重い荷物であるなら、それを背景として、私たちの人生はそっくり素晴らしい軽さを帯びて立ちあらわれてくるかもしれない。
だが、本当に重さは恐ろしく、軽さは美しいのだろうか?
このうえなく重い荷物は私たちを圧倒し、屈服させて、地面に押しつける。だが、あらゆる世紀の恋愛詩では、女性は男性の身体という重荷を受けいれたいと欲するのだ。だから、このうえなく重い荷物はまた、このうえなく強烈な生の成就のイメージにもなる。荷物が重ければ重いほど、それだけ私たちの人生は大地に近くなり、ますます現実に、そして真実になるのである。
逆に、重荷がすっかりなくなってしまうと、人間は空気よりも軽くなり、飛び立って大地から、地上の存在から遠ざかり、もうなかば現実のものではなくなって、その動きは自由であればあるほど無意味になってしまう。
では、なにを選ぶべきなのか? 重さか、それとも軽さか?
p12
彼はさんざん自責の念に駆られていたのだが、やがてついに、自分がなにをしたいのかわからないというのは、とどのつまりごく正常なことではないかと思うようになった。
人間はなにを望むべきかをけっして知りえない。というのも、人間にはただひとつの人生しかないので、その人生を以前の様々な人生と比較することも、以降の様々な人生のなかで修正することもできないのだから。
おれはテレザと一緒に暮らしたほうがいいのか、それともずっとひとりでいたほうがいいのか?
どんな決心が最良なのかを確かめるどんな手立てもない。というのも、いかなる比較もないのだから。すべてはただちに、準備もなく初めて経験される。まるで、役者が一度もリハーサルをせずに舞台に登場するみたいにだ。だが、人生の最初のリハーサルがすでに人生そのものだとしたら、そもそもこの人生にどんな価値があるというのか?だからこそ人生は素描に似ているのだ。いや、「素描」でさえ正しい言葉だとは言えない。というのも、素描がつねになにかの端緒、絵画の下絵であるのに反して、おれたちの人生という素描はなんの端緒でもなく、絵画のない下絵なのだから。
p117
ボヘミアを離れて一、二年したロシア侵攻の周年日に、彼女はたまたまパリにいた。その日、抗議デモがあったので、彼女も参加せざるを得なかった。若いフランス人たちが拳を振りあげ、ソビエト帝国に反対する合い言葉をわめいていた。その合い言葉は気に入ったが、しかし彼女は自分がその他人たちと一緒になって叫ぶことができないのを知って驚いた。彼女はほんの数分しか行列にとどまることができなかった。
彼女はその経験をフランスの友人たちに話した。彼らはびっくりして、「じゃあ、きみは自分の国の占領に反対して闘いたくはないのかい?」彼女は友人たちに言いたかった、共産主義、ファシズム、あらゆる占領や侵攻にはもっと根本的で普遍的な悪が隠されている、その悪のイメージ、それこそまさしく腕を振りあげ、声をそろえて同じ音節を叫びながら行進するイメージなのだと。しかし、そんなことを彼らに説明できないのはわかっていた。
p142
人生のドラマはつねに重さのメタファーで言い表される。ひとは、私たちの肩に重荷がのしかかってきたなどと言い、その重荷を運び、それに耐えたり耐えられなかったりする。それと闘い、勝ったり負けたりする。しかし、いったいサビナになにが起こったというのだろうか?なにも起こってはいない。彼女が別れたかったからひとりの男と別れた。そのあと、男は追ってきたのか?復讐しようとしたのか?そうではない。彼女のドラマは重さではなく、軽さのドラマだった。彼女に襲いかかったのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さだった。・・・彼女はもう一度ふたりのことを考えた。ふたりはときどき隣町に行き、その夜はホテルにとどまった。彼女は手紙のその一節にはっとした。それはふたりが幸せだったことを証している。彼女にはトマーシュがまるで自分の絵の一枚のように見えた。前景には素朴な画家の手で描かれた、偽の舞台装置のようなドン・ファン。その舞台装置の裂け目から、トリスタンがちらっと見えてくる。彼はトリスタンとして死んだので、ドン・ファンとしてではなかったのだ。サビナの両親は同じ週に死んでいた。トマーシュとテレザは同じ瞬間だった。彼女はふと、フランツと一緒になりたくなった。
彼女が墓地の散歩の話をしたとき、彼は嫌悪感をおぼえ、墓地を骸骨と砕石のゴミ捨て場に比べた。あの日に、ふたりのあいだに不理解の深淵が開いたのだった。彼女はきょうモンパルナスの墓地にきて、彼の言いたかったことをやっと理解した。彼女は自分に我慢がなかったことを後悔する。もっと長いあいだ一緒にいたら、もしかするとわたしたちは少しずつ、相手が口にする言葉を理解しはじめていたのかもしれない。まるで内気な恋人同士みたいに、ふたりの語彙がゆっくりと恥ずかしそうに近づき、ふたりの音楽がたがいの音楽のなかに溶けはじめていたかもしれない。でも、いまとなってはもう遅すぎる。
そう、もう遅すぎるのであり、自分がパリにはとどまらず、もっと遠く、さらに遠くに行くことになるのをサビナは知っている。なぜなら、もし彼女がここで死んだら、石のしたに埋葬されることになるだろうから。そして休息というものを知らない女性にとって、走っている途中で永久に立ちどまってしまうというのは、なんとも耐え難い考えだったから。
p224
私が思うに、トマーシュはもうかなりまえから、あの攻撃的で、荘厳で、厳粛な「Es muss sein!」に心の奥底で苛立ち、パルメデニスの精神に従って、重いものを軽いものに変えてやりたいという、深い欲望を胸に秘めていたのである。彼が最初の妻と息子にふたたび会うのを拒否するには、たった一瞬だけで充分だったのであり、父と母が彼と絶縁したのを知って安堵したことを思い出そう。これははたして、彼に重い義務、ひとつの「Es muss sein!」としてのしかかってくるものを押しかえした、あの唐突な、あまり理性的でない所作と別のものだろうか?・・・
外科医であること、それは事物の表面を開いて、内部に隠されているものを見ることである。おそらくそんな欲望こそがまさしく、トマーシュに「Es Muss sein!」の彼方になにがあるのか見てみたい、言い換えれば、人間がこれまでみずからの任務だと見なしてきたものを脱ぎ捨てたときに、人生のなにが残るのか見てみたいという気にさせたのである。・・・
彼は自分ではどんな重要性も認めていない仕事をしているのだが、じつはそれこそが素晴らしいことだったのである。彼は(それまではずっと、憐れみを感じていたのに)、なんら内的な「Es muss sein!」にみちびかれず、戦場を離れると仕事のことをすっかり忘れてしまえる職業に従事する人びとの幸福を理解した。・・・いまや彼は、ショーウィンドーを洗う長竿を手にプラハを駆けめぐり、自分が十歳も若返ったと感じていることに気づいて驚いている。
p254
義務?おれの息子がおれに自分の義務を思いださせようとするのか?それは、ひとがおれに言える最悪のことではないのか!彼の目にふたたび、鳥を腕に抱きしめているテレザのイメージが現れる。前夜警官がバーにきて、あたしはいじめられた、と彼女が言っていたのを思い出す。彼女の手がふたたび震えだしている。彼女はすっかり老けてしまっている。もうなにも彼には大切に思えなくなった。彼女だけが大切なのだ。六つの偶然から生まれた彼女、部長の坐骨神経痛から生まれた華である彼女、あらゆる「Es muss sein!こうでなければならない!」の反対側にある彼女、彼が真に執着する唯一のものである彼女だけが。
なんでまた、署名すべきかどうかで思い煩うのか?おれのあらゆる決定には唯一の基準しかない。それは、テレザに害をあたえかねない行動はいっさいしないことだ。おれは政治犯を救うことはできない。しかし、テレザを幸福にすることはできる。いや、それでさえ、おれにはできないだろう。だが、もしおれが嘆願書に署名をしたら、警官どもがもっと頻繁に彼女をいじめにやってきて、彼女の手がもっと激しく震えることになるのはほとんど確実なのだ。
彼は言った。「大統領に嘆願書を送るよりも、生き埋めにされた鳥を救い出してやるほうが、ずっと大切なんです」・・・彼には自分の行動が正しいという確信はまったくなかったが、それでも自分が望むように行動しているという確信はあった。
p256
力なく中庭を見つめ、なかなか決心に辿り着けないこと。愛の昂揚のときに、自分自身の腹から執拗な腹鳴が聞こえてくること。ひとを裏切り、そしてじつに美しい裏切りの途中で立ちどまれないこと。<大行進>の行列のなかで拳を振りあげること。警察によって隠されたマイクのまえで自分のユーモアを誇示すること。私はそのような状況をすべて知っていたし、みずから経験もしていた。とはいえ、そのいずれの状況からも、私の履歴書にあるような私自身という登場人物が生まれたわけではない。私の登場人物たちは現実化しなかった私自身の可能性なのだ。だからこそ私は彼ら全員が好きなのだし、と同時に彼らは私を怯えさせもするのだ。彼らはいずれも、私自身がただ迂回するだけであった境界線を越えたのであり、その越えられた境界線(それを越えると私の自我が終わってしまう境界線)こそ、私を惹きつけるのである。そしてその向こう側で、小説が問う謎がはじまるのである。小説は作者の告白ではなく、世界がそうなったところの罠のなかで、人間の生がいかなるものになるのかという探索なのである。
p257
では、どうすべきだったのか?署名すべきだったのか、すべきでなかったのか?
この問いを次のような言い方で表現してもいい。叫んで、そのことでみずからの終焉をはやめるほうがいいのか?それとも、黙っていて、そのことでもっと緩やかな最期を買ったほうがいいのか?
だがそもそも、このような疑問に答えがあるのだろうか?
そしてふたたび、彼の心に私たちがすでに知っている考えが浮かんだ。人生はただ一度しかない。だから私たちはどの決心が正しくて、どの決心が間違っているのかを知ることは決してできない。
なぜなら、どんな状況であっても、私たちはただ一度しか決心できないのだから。私たちには様々な決心を比較できるような二度目、三度目、四度目の人生はあたえられていないのだから。・・・
歴史もまた個人の人生とまったく同じように軽く、耐えられないほど軽く、綿毛のように、舞い上がる埃のように、明日にも消え去ってしまうもののように軽いのだ。
トマーシュはもう一度ある種のなつかしさを、ほとんど愛情さえもいだきながら、猫背の長身の編集者のことを考えた。あの男は、あたかも自分のすることが永遠の回帰のなかで数えきれない回数繰り返されるとでもいうように行動し、自分の行為を一度たりとも疑っていないのは確実だ。自分が正しいことを確信して、そこに偏狭な精神の徴しではなく、美徳の印しを見ている。彼はおれとは別の歴史、素描ではない(もしくは素描であるという意識がない)歴史のなかで生きているのだ。・・・
宇宙には、ひとが二度目に生まれる惑星があると仮定しよう。それと同時に、ひとは地球上で過ごした人生、この世で獲得した経験のすべてを完璧に思いだせるものとする。
それから、各人がすでに生きたふたつの人生の経験とともに、三度目に誕生する別の惑星があるかもしれない。
それからさらに、人類がそのつど成熟の段階を一段(一人生)ずつ上昇しながら生まれ変わることになる、その他の別の惑星がいくつもあるかもしれない。
それが永遠の回帰についてトマーシュがいだいている考えだ。
もちろん、地球(第一の惑星、未経験の惑星)にいる私たちは、別の惑星にいる人間になにが起こるのかについては、きわめて漠然とした考えしかいだけない。人間はもっと賢明になるのか?成熟はやっと人間の手の届くものになるのか?人間は繰り返しによって成熟にいたることができるのか?
悲観主義や楽観主義という概念が意味をもつのは、ただこのようなユートピアの展望においてのみである。楽観主義者とっは、五番目の惑星では人間の歴史がずっと血腥いものではなくなると思い描く者のことだ。悲観主義とは、そうは信じない者のことだ。
p338
「カレーニンはあたしたちのためにだけ、こうやっているんだわ」とテレザが言った。「きっと外に出たくなかったのよ。ここにきたのは、ただあたしたちを喜ばせるためだけだったんだわ」
彼女が口にしたのは悲しいことだったが、ともかく彼らは、そうと気づかないままに幸せだった。彼らが幸せなのは、悲しみにもかかわらず、ではなく、悲しみのおかげだった。彼らはたがいに手を取り合い、ふたりとも眼前に同じイメージ、ふたりの十年間の人生を体現している、脚を引きずっている犬を見ていた。
p363
「もしチューリヒに残っていたら、いまごろあなたは患者さんたちの手術をしていたでしょう」
「そして、きみは写真を撮っていただろう」
「そんな比較はできないわ」とテレザが言った。「あなたにとって、仕事はこの世でいちばん大切なものだった。でも、あたしのほうはなんだってできるんだし、あんなものどうだってよかったのよ。あたしはなにも失わなかった。すべてを失ったのはあなただわ」
「テレザ」とトマーシュは言った。「ぼくがここで幸福だってことに、きみは気づかなかったのかい?」
「テレザ、使命なんてくだらないものだよ。ぼくには使命なんてものはない。だれにだって使命なんかないんだ。そして、自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」
声の調子からして、彼の誠実さを疑うのは不可能だった。彼女にはふたたび、今日の午後の光景が浮かんできた。彼がトラックの修理をしていて、彼女にはそんな彼が年寄りじみて見える。あたしは自分が到達したいと願っていたところに到達したのだ。あたしはいつも、彼に年取ってもらいたいと願っていたんだから。彼女はもう一度、自分の子供部屋のなかで顔に押しつけた野兎のことを考えた。
野兎に姿を変えるというのは、どういう意味なんだろうか?それは自分の力を忘れるという意味だ。それ以降、たがいに相手以上の力をもたないという意味なんだ。
ふたりはピアノとヴァイオリンの音に合わせて、ちょうどダンスの身振りをしながら、行ったり来たりしている。テレザは彼の肩に頭をのせている。ちょうど霞を横切ってふたりを運んでいた飛行機のなかみたいに。いま彼女はあのときと同じような不思議な幸福を、同じような不思議な悲しみを感じている。この悲しみは、あたしたちが最後の停泊地にいることを意味しているんだ。この幸福は、あたしたちが一緒だということを意味しているんだ。悲しいは形式で、幸福が内容なんだ。悲しみの空間を幸福が充たすんだ。
The Unbearable Lightness of Being HD 4k restoration trailer Juliette Binoche Daniel Day-Lewis
記憶の中ではもう少しキワドイ場面が多かった気がしていたけど、そうでもなかった。
ジュリエット・ビノシュもすごく魅力的だけど、サビナ役の女優さん(レナ・オリン)、綺麗だなぁ。スウェーデン人なんですね。低い声も素敵。