※ネタバレあり
アガサ・クリスティーが大好きで100冊以上読んでいる友人に「春にして君を離れを読んだよ~」と報告したら、「いきなりそれ(笑)!?名前は知ってるけど読んだことない」との返信が。
そんな特異な作品なのか。たしかにミステリーではないけども
でも少しずつ真実が露になってくる過程はまるでミステリーのようで、「最後はどうなるんだろう??」とページをめくる手が止まらず一気に読んでしまいました。
さすがはミステリーの女王
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』に続いてこの作品を読んで、アガサ・クリスティーの良い意味での女性作家らしさ、冷徹さのようなものを感じました。
そして、『存在の~』に続いて、私の心に引っかき傷を残す本だった。。。
私にとってこの本の何が恐ろしいって、アガサの人間心理に対する洞察力はもちろんのこと、何より最後の展開が恐ろしい。
砂漠の中で迷ったジョーンが、生きるか死ぬかの異常な状況の中で、今まで目を背けていた、認めたくない自身の姿と向き合い、心から反省し、ロンドンに戻ったら生まれ変わって新たな生活を生きようと決意する――というところまでは、まぁよくあると言えばよくある展開。
でも、それほどの状況に追い込まれることでようやく出会うことができた本当の自分、神が出会わせてくれたと言ってもいい本当の自分、そんなとてつもないチャンスを手にできた彼女が、ロンドンに戻り、(見せかけの)平安な日常に戻った途端に、全てをなかったことにして、再び昔の自分に戻ってしまう。彼女は、新たな人生を歩むという困難な道ではなく、またしても安易で楽な道を選んでしまう。つまり、これまでの自分を変えない道。見たくない現実から目を背け、それらを存在しないものとする道。自己正当化、自己満足の道。それこそが砂漠の中で彼女が最も反省した生き方だったはずなのに、またしても彼女は勇気を出して変わることをせず、怠惰で楽な生き方を選んでしまう。
喉元過ぎれば・・・。
人の一生は短い。
おそらく二度とないこんな大きなチャンスを手にしても変わることができなかった彼女は、もうこの先変われることはない…。
あれほどの衝撃をもって辿り着いた真実なのに、再び日常に戻ったくらいで人は忘れてしまうものだろうか。
・・・おそらく答えはイエスだ。その方がずっと楽だから。
結局人は、どれほど強く心の中で「変わろう」と決意しても、それだけで変われるほど強い生き物ではないのかもしれない。言い訳なんていくらでも作れる。とにかく行動に移さなければ、行動を変えなければ、人は変わることはできないのだろう。
ジョーンが帰りの鉄道の中で出会った侯爵夫人サーシャ(※ウィーンへ成功例の少ない大きな手術を受けに行く途中だという)は、そのことをよくわかっていた。人間という生き物の弱さと甘さを。
だからジョーンの告白と決意を聞いたときに、重々しい口調で「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」と言ったのだ。
人間が自分を変えることは、それほどに難しい。特にある程度の年齢になって、その人の根本に関わる部分を変えることは、どれほどの勇気と行動力が必要なのだろう。どれほどの素直さが必要なのだろう。
でも私は、それができた人を知っている。
その人は、ちょうど今の私くらいの年齢のときに、それをした。そして本当に変わった。変わらなければ、その人にとって最も大事なものを失う、壊れる、という状況ではあったけれど。
当時20代だった私はそのことの凄さに気づいてはいなかったけれど、当時もそのことを尊敬したものだった。
最も変わらなそうな人だったのに、本当に変わった。
だから私は、人は聖者ではないけれど、変わることができるということを知っている。
私も、、、変われるだろうか。
過去の自分は変えられないけれど、未来の自分は変えられるだろうか。
こんな恐ろしい小説、私だったら書けない。とても書くことなんかできない。
ずっとそう思いながら読み進めて、最後は更なる恐ろしさで。
怖くて厳しくて、でもこの本は私達に救いをくれる。他の方法では決してもらえない形の救いを。
アガサ・クリスティー。なんて作家だろう。
p61
途中かわされるであろう会話を、ジョーンはあらかじめ想像していた。彼が愛を打ち明けたら、自分はしとやかにやさしく、お気持はありがたいがと、少し――ほんの少し残念そうに拒むのだ。心を打つような言葉も、いくつか胸にたたんで用意しておいた。マイケルが後で思い出して、そっと胸に秘めるような、奥ゆかしい余韻をもつ言葉を。・・・マイケル・キャラウェイは歌でも歌おうというつもりか、しきりに突拍子もない大声を張りあげていた。森のはずれからクレイミンスター・マーケット・ウォルピングの広い道路に出る直前にキャラウェイは足を止め、冷ややかな目で彼女を眺めてつくづくといった。
「あなたって人は、手ごめにでもされればいっそためになるんじゃないかと思いますがね」
そして怒りと驚愕でものもいえずに立ちつくしている彼女を尻目にかけて、快活な口調で付け加えたのだった。
「ぼくがその役を買って出て――あなたがそれで少しは変わるかどうか、見とどけたいものだがなあ」
こう云い捨てるなり、歌の方は諦めたらしく、愉快げに口笛を吹き鳴らしながら広い道をすたすたと歩きだした。
p137
しかし会見が終りに近づくに及んで、ギルビー先生はピチカートで語りはじめるのであった。
「これは、とくにあなたにいっておきたいことなのです。安易な考えかたをしてはなりませんよ、ジョーン。手っとり早いから、苦痛を回避できるからといって、物事に皮相的な判断を加えるのは間違っています。人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません。・・・こんなことをいうのは、ここだけの話だけれど、あなたには少々自己満足の気味があるからです。そうは思いませんか?自分のことばかり考えずに、ほかの人のこともお考えなさい。そして責任をとることを恐れてはいけません。・・・人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み台にして、より高いものへと進んで行くのです。痛みや苦しみが回避できないときもあるでしょう。そうした悩みは、すべての人が早晩経験するものなのですから。主イエス・キリストすら、人の世の苦しみに曝されたもうたのですよ。主がゲッセマネの苦しみを味わいたもうたように、あなたもやがて痛みを知るでしょう――あなたがそれを知らずに終わるなら、それはあなたが真理の道からはずれたことを意味するのですよ。疑いに沈むとき、苦難に会ったときに、どうか、わたしのこの言葉を思い出してください」
p155
何をそう興奮することがあるのかしら、こうジョーンがいうとロドニーは答えた、何もありゃしない、ただ、何か事をする前にすべてを綿密に計算し、けっして冒険をしない、慎重きわまる世間というものにつくづく嫌気がさしただけだと。
p163
一度ジョーンは、彼にこういったことがある。「弁護士というお仕事がら、あなたは人間関係のいざこざにはいい加減にうんざりしていらっしゃるはずだと思いますのに」
ロドニーはしみじみいった。
「そう思うだろうがね。ところがそうでもないんだな。田舎の弁護士ってやつは、人間関係の破れ目を、医者を除けば誰よりもよく知っているんじゃないかなあ。それだからかえって、人間一般に深い同情をもつようになるとも思える。いかにも脆い、不安や疑惑や欲心に取りつかれやすい――そうかと思うと、びっくりするほど高潔で勇敢なところを見せる人間という矛盾にね。これがまあ、唯一の埋め合わせだろうな――より広い共感をもつようになるということが」
p177
「君にはエイヴラルがわかっていないんだよ。あの子は分別よりも心情で行動する人間だ。誰かを好きになれば、心の奥深い所で恋をする。だからその傷は永久に残るだろうね」
p271
春にして君を離れ……
そうだわ、何年も前の……あの春……わたしたちが愛しあったあの春から、長い長い時が流れすぎた……
わたしは一つのところにじっとしていた――ブランチのいう通りだわ……聖アン女学院卒業の女学生、わたしは今もそのままだ。安易な生活を送り、面倒なことは考えようとせず、自分自身に満足しきり、苦痛を恐れ、避けてきた……
勇気がなかったのだ……
ああ、何ができよう、今となってわたしに何ができよう?
ジョーンは思った、ロドニーのところに行くのだ。行って、そして、いうのだ。「赦して下さい……わたしが悪かったのです……」と。そして、へりくだっていうのだ、「赦してください。知らなかったのです。本当に」と。
p282
「人と話をするって楽しいものですわ。そうお思いになりません?あたくしはどんな人にでも興味がありますの。それに人間の寿命って限られておりますしね。いろいろな考えや経験を交換しあう必要があると思いますの。人類愛っていうものがどうも欠けている、この地上にはって、あたくし、よく申しますの。あたくしの友だちはいいます。”だってサーシャ、どうしても愛することのできない人たちだっているわ。たとえばトルコ人とか、アルメニア人や――レヴァント人は”って。でもあたくしはいいますのよ、いいえ、あたくしは人間ならみんな大好きって」
p284
「あたくしがふっと頭に浮かんだこと――たとえば何か悲しいことがおありになるとか、ご主人があなたを裏切ったことはないのかとか、あなたご自身、ほかの男の方と関係をおもちになったことはとか、あなたにとって一生で一番美しい経験はどういうものだったか、神さまの愛を実感していらっしゃるか――といったようなことをお訊ねしたら、どうでしょう?あなたはきっと侮辱をお感じになって、ご自分の殻に閉じこもっておしまいになりますわ。でも今申し上げた質問の方が、本当はずっと面白うございますのに」
p330(解説 栗本薫)
この二人は結局似たもの同士であるのだ。・・・ロドニーは、「優しさ」と名付けられたその彼自身の現実逃避によって彼の一生を失ったのだ。そのことを彼はまた、ちゃんと背負ってゆかないわけにはゆかないだろう。彼はいつでも牧場を経営することもジョーンに身勝手であることをやめるよう、さもなければ彼女と暮らすのをやめるよう、選択できたのだ。
むろんそれは結果論だ。だからこそこの小説は限りなく恐しく、そして哀しい。ジョーンの一生はもうさだまってしまった。最後のチャンスをジョーンは自ら長い友達である怠惰と怯懦に破れて手放した。そしてロドニーもまた。かれらはいずれそれなりの平安に到達するかもしれない。そして、このような人生にも終わりがくるだろう。神は同じように平安な死を与えるだろう。
私はそのように生きたくない、と思う。——このようなことを考えさせた小説は他に読んだことがなかった。