武田邦彦先生が、初めて、たかじんのそこまで言って委員会、に出た時、パネリストの文系のヤツラは、つくづく、テレフォン思考だな、と笑ってしまった。
「テレフォン思考」とは、僕が、考えた名前だが。
ボクシングに、「テレフォン・パンチ」というのが、あるが、敵より、一テンポ、遅れた、「はい。どうぞ。打って下さい」という、パンチなのだが、パネリストの文系のヤツラも、一テンポ、遅れた思考である。
ましてや、文系のヤツラは、討論とは、自分が、問答勝ちすることが、目的らしい。
アホである。
討論とは、オレの考え、だの、お前の考え、などという区別をしている内は、全くダメである。
真の学者にとっては、オレも、お前、も、ないのである。
あるのは、ただ、「ある事柄とか命題が」、「正しい」か、「誤り」か、なのである。
だから、真の学者は、どんどん、透明になっていく。
自分という存在が無くなっていく。ものなのである。
「オレの発見」だの、「お前の発見」だの、「オレの名誉」だの、「お前の名誉」だのと、そんな、くだらない区別は、無くなっていくものなのである。
しかし、残念ながら、医学部教授を見ると、「オレが。オレが」人間ばかりなのである。
「テレフォン思考」とは、僕が、考えた名前だが。
ボクシングに、「テレフォン・パンチ」というのが、あるが、敵より、一テンポ、遅れた、「はい。どうぞ。打って下さい」という、パンチなのだが、パネリストの文系のヤツラも、一テンポ、遅れた思考である。
ましてや、文系のヤツラは、討論とは、自分が、問答勝ちすることが、目的らしい。
アホである。
討論とは、オレの考え、だの、お前の考え、などという区別をしている内は、全くダメである。
真の学者にとっては、オレも、お前、も、ないのである。
あるのは、ただ、「ある事柄とか命題が」、「正しい」か、「誤り」か、なのである。
だから、真の学者は、どんどん、透明になっていく。
自分という存在が無くなっていく。ものなのである。
「オレの発見」だの、「お前の発見」だの、「オレの名誉」だの、「お前の名誉」だのと、そんな、くだらない区別は、無くなっていくものなのである。
しかし、残念ながら、医学部教授を見ると、「オレが。オレが」人間ばかりなのである。