数学の夢を見る時とそうで無い時の、不思議さは妙なものだ。
同じように学んでいるつもりでも、自分としては抽象圧がそれ程高まっていないという事なのだろうか。
感覚的には何故か与圧の空間が拡がった感覚を覚える。それと同時に情報の処理量の様なものが微妙に増えたような感じで、そんな感覚を覚える。
それに、その拡張分をまだ十分に遣えて居ない様な感覚がある。それと同時に、思うことで驚いたのは私自身の頭が数学と関係して、直接的に本を読む行為そのものの理解の速度が上がったという事。
本を読んでいると、内容についてが抽象化という行為を経て、数学の数式が自然と頭に浮かんで、その事によって二つの状態が生まれ、没頭する心と、自分がどの辺りに居るのかを同時認識し、組み立てて行く様な感覚があり、その副次効果として精神的に楽に為り消耗しにくくなるという事が起る。
一般の人はどんな感覚で本を読むのだろうか。私は少し前まで2~3頁進み、読んだところを振り返ったり思い返したりしながら、積み重ねて行くという行為を繰り返していた。
これは小学校から変わらぬことであったが、此れの再編をしたのが高校時代の超勉強法という本だった。それを入れ替えるという行為をすることによって、自由にという話。それ以来以上の認識という自分の中では大きな変革だ。
長岡亮介先生様様だな。数学のちょっとした話が、節の様に繋がって構成していく感覚がある。
青山繁晴の文章をみると子葉に拘泥しているように見えて、実際の話と同じように無駄が多い気がしてしまう。一部読むとそんな印象をもつ文章。
それと同時に思う事が、最近探していた本が漸く見つかって認識についての影響の本。何の題名の本か、ずっと話に触れられて居たが題名が解らなかった本が最近見つかったので気分が良い。そんな話と繋がった思いが浮かんでしまうんだよな(微笑)
同じように学んでいるつもりでも、自分としては抽象圧がそれ程高まっていないという事なのだろうか。
感覚的には何故か与圧の空間が拡がった感覚を覚える。それと同時に情報の処理量の様なものが微妙に増えたような感じで、そんな感覚を覚える。
それに、その拡張分をまだ十分に遣えて居ない様な感覚がある。それと同時に、思うことで驚いたのは私自身の頭が数学と関係して、直接的に本を読む行為そのものの理解の速度が上がったという事。
本を読んでいると、内容についてが抽象化という行為を経て、数学の数式が自然と頭に浮かんで、その事によって二つの状態が生まれ、没頭する心と、自分がどの辺りに居るのかを同時認識し、組み立てて行く様な感覚があり、その副次効果として精神的に楽に為り消耗しにくくなるという事が起る。
一般の人はどんな感覚で本を読むのだろうか。私は少し前まで2~3頁進み、読んだところを振り返ったり思い返したりしながら、積み重ねて行くという行為を繰り返していた。
これは小学校から変わらぬことであったが、此れの再編をしたのが高校時代の超勉強法という本だった。それを入れ替えるという行為をすることによって、自由にという話。それ以来以上の認識という自分の中では大きな変革だ。
長岡亮介先生様様だな。数学のちょっとした話が、節の様に繋がって構成していく感覚がある。
青山繁晴の文章をみると子葉に拘泥しているように見えて、実際の話と同じように無駄が多い気がしてしまう。一部読むとそんな印象をもつ文章。
それと同時に思う事が、最近探していた本が漸く見つかって認識についての影響の本。何の題名の本か、ずっと話に触れられて居たが題名が解らなかった本が最近見つかったので気分が良い。そんな話と繋がった思いが浮かんでしまうんだよな(微笑)