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未読の安部公房作品。
と、読んでみたのですが、なぜいままでこの作品を読まなかったのだろう?
これ、安部公房の最高傑作じゃないですか?
いままでは「砂の女」か「他人の顔」か「箱男」が最高ね、と思ってたのですが、この作品はそれらを読んだときの感動を上回りましたよ。
本作の発表は1959年で、「砂の女」の前です。「けものたちは故郷をめざす」と「石の目」の間。
前半は電子計算機の小説かと思いました。本書はいくつかのチャプターに別れていて、チャプターの頭に短いパラグラフがついています。これが実に的を得ている。
電子計算機とは、考える機械である。機械は考えることはできるが、しかし問題を作り出すことはできない。
この文章がすんなり腑に落ちる人は、コンピュータにそれなりに詳しい人だと思います。
この小説では、自らが問題を作り出せる電子計算機の登場により、それが未来を予言する機械となります。この、自らが問題を作り出すという思想が、現在隆盛を極めているAIの機械学習じゃないですか。
ノイマンがストアードプログラム方式を発表したのが1945年、それから14年後の1959年に機械学習の思想が存在していたのかどうかはわかりませんが、現代で注目を浴びている技術がこの小説の中で先見されているわけです。
さらに、私の心に刺さったのが、次の頼木のセリフ。
プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですからね。その量的現実を、もう一度質的現実に総合するのでなければ、本当に未来をつかんだことにはなりません。
心の中で、うんうん、そうだよ、と頷いてしまいましたよ。わたしが勤め人をやってた頃、これが一番重要な課題でした。
などと書くと、これってただの電子計算機小説じゃないのか?と思われるかもしれませんが、さにあらず。
スケールはどんどん広がります。海水面が上昇するくだりでは、現代の温暖化問題そのものです。
未来まで広がったスケールは抒情的な描写と共にエンディングを迎えます。
病院のベッドの上で、透析終了時間を忘れるほどに読みふけってしまいましたよ^^;
実は安部公房は未来を予言する機械を所有していて、それを使って現代を覗き見して、この小説を書いたのではないだろうか、と思えるほど、気持ち悪いくらい、現代風です。これが1959年、65年前の作品ですよ、信じられん、わしが生まれる前にこんな小説が書かれていたとは...
あとがきに、「未来は日常的連続感に、有罪の判決を下す」とあります。
現在が未来につながるのではなく、未来が現在を裁くという小説です。現在と断絶した未来により、日常性という平凡な秩序を批判しているのが、この作品です。
この作品を安易にSF小説と呼ぶのはよろしくない。わたしがこの作品を読むのを後回しにしたのは、SFというレッテルが張られていたせいもあったと思います。これは純文学作品です。
と、つらつら書きましたが、この本を読み終えたときの心情を伝えることができるでしょうか。
これから安部公房を読む人は『壁』から入るのが定跡かと思ってたけど、それよりも、最初に『第四間氷期』を読むのがよいのではあるまいか?
あと、余談になりますが、日本の予言機械のライバルが、ソヴィエトのモスクワ2号という機械です。モスクワ2号は、32年以内に最初の共産主義社会が成立し、その後、資本主義社会は没落するだろう、という予言をします。
まあ、ソヴィエトの機械ならこう言うわな、いったところですが、実は私も昨今のAIブームに際し、共産主義政治にAIを取り入れたら上手くいくのではないか、と考えておりました。共産主義で一番難しいのはリソースの分配だと思うのですが、この作業を、感情、私欲を持たないAIに任せ、公平中立かつ合理的さらに動的に割り振ることができれば、共産社会はそこそこの生産性を上げられて、うまくまわるんじゃないかな、という思いです。どこかの社会主義国で試験的に導入してみてくれんかな。
作者プロファイル。
書誌情報。
p.s. なにかと忙しい日々が続く。
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