【七つの大罪と四終】ヒエロニムス・ボス
>>私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さな舵によって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
(ヤコブの手紙、第3章2~10節)
人間って、物凄く矛盾した生き物で、仮にキリスト教ではなかったとしても、何がしかの宗教的行事を守って「ああ、心が清々しくなった」と思ったその次の瞬間――とまでは言わなくても、その数時間後とか数日後には何かの罪を平気で犯している……ということがよくあるかと思います。
一度、日曜礼拝で奉仕の担当をされていた方が、「唇の罪」について告白をされていたことがありました。同じ唇から良き言葉だけでなく悪しき言葉を吐いてしまうことの罪に対する悔い改め、またそのように悔い改めの祈りを捧げつつも、何度も繰り返しそのような罪を犯してしまうわたしたちのことをお許しください……といったように。
そうなんですよね(^^;)
日曜礼拝の最後って、奏楽とともに信徒たちは牧師さんの祝福を受けて次の一週間へと送りだされるわけですが、礼拝の中で心の罪に対して赦されることを祈ったり、献金したり、牧師さんのお説教を聞いて「聖霊さまに満たされた素晴らしいお言葉」なんて思いつつ、その時は自分でも罪の穢れが一時的にせよ落とされたように感じます。
でも次の日曜日にはもう……月~土曜の間になんやかや良くない言葉を吐いたり、人を傷つけたり不愉快な思いをさせたりと、一度洗って真っ白になったはずの衣服が汚いしみでいっぱいになってまた神さまの御許へ赦しを乞いに行くのです。
もちろん、キリスト教徒、クリスチャンが毎週日曜礼拝を守ることの意味はそうしたところにもあるとは思うのですが、月曜日から土曜の間、あるいは日曜も含めて、「今週は一度も人の悪口言わなかったな♪」なんていうこと、人間には果たしてあるものでしょうか……とすら思います。
主の兄弟ヤコブさんは、ヤコブの手紙の中でこの悪口ということについてかなり厳しいことをおっしゃっておられますが、このことを実践・実行するというのは、穢れ多いこの世という場所を生きている身には、なかなか難しいことであると思います。
人間、実はあんまりそう思ってないんだけれども、「つきあいとしての悪口・噂話」というのがどうしてもありますし、あとから「あれはわたしの本心ではありませんでした。赦してください、主よ」……と祈るのだとしても、やはり一度そうした言葉を口にした時点で、それはその方の罪であるでしょうし、わたし自身もそれは自分の罪だということを認めつつ、祈ることになると思います。
ただ、会社や仕事に関する人間関係で、というのでなく、他でもない神の家であるはずの教会の中にも、この悪口・噂話の根というのが結構深く根付いていることがあるかもしれません(^^;)
そして、実際の社会生活や家族関係などで傷つき、キリスト教の救いが自分にも真実本当に必要なものだと思い、教会へ通いはじめた方が、そうしたことがきっかけで二度とやって来なくなる……ということがあるんですよね。
わたしもそうした事柄に接した時に、「教会は確かに神さまの家ではあるけれど、人が何人か集まった場合に起きる摩擦というのは避けられないものなのだな」と思いましたし、同じクリスチャン同士でも、やっぱり人として馬が合う・合わないということはあるというか(^^;)
けれど、わたしもそうですが、職場の人間関係で特に物凄く何か嫌なことが起きた……というわけでもないのに、「なんとなく居づらい」ものを感じて仕事自体がどうこうということではなく辞めてしまう人というのが今の時代、結構あるとお聞きします。
そして、そうした方が教会へ来られてイエスさまの救いを信じ、その後、神さま、イエスさまのことはがっちり信じているのだけれども、教会の中の人間関係に疲れたり、ここでも「居づらい」ものを感じて離れてしまうことがあると思うんですよね。
仕事もうまくいかず、働かないことで家族との人間関係もまずくなり、そんな時にキリスト教の教えに触れて心から信じたものの――家にも居づらい、職場にも自分の居場所がない、また教会という場所にも……となった場合、人間は一体どうしたらいいのでしょうか。
わたしの場合、とにかく日曜礼拝を守れないことに罪悪感を感じつつも、それ以外のことは出来る限りなるべく守るという方向性で信仰生活を送るということにまずはしました。毎日聖書を読んだり祈ったり、献金のほうは慈善団体のほうに送金したりと、そうした形ですね。
また、この時以前牧師さんからいただいた礼拝のテープが五本ほどあったので、このテープは本当に数え切れないほど繰り返し聴きました。日曜礼拝の最初から最後までが録音されたテープでしたので、聖餐式の時には自分で用意したパンとぶどうジュースを悔い改めの祈りのあとに飲んだりですとか、そうした形です。
けれど、教会で日曜礼拝を守るというのは、本当に特別な聖霊さまの注ぎかけやここでしか受けられない恵みがありますし、わたし自身霊の力の弱まりというのを感じたこともあって、その後別の教会へ通ってみたりと、そうした変遷がありました。
今はインターネットでも礼拝を守れますし、インターネットを通して聖書の学びをしたりといったことも、昔とは違ってかなり一般的になってきたと思います。
でもわたし自身、教会で日曜礼拝を守れることが最善とは思うのですが、介護の問題で日曜は家から出られないといった事情の方などもおられますし、特に主の十字架クリスチャンセンターのインターネット礼拝は毎週守っていて本当に深い聖霊さまの語りかけや恵みで溢れていると思っています。
これから、日本で、また全世界的にリバイバルが起きてくると言われていますし、また主の十字架クリスチャンセンターではすでに「日本でリバイバルがはじまっている」という語りかけを受け歩んでいるわけですが、と同時に信徒の方が増えるにしたがって、人間的な躓きや失敗も起きてくると、先日祈りの中で語りかけを受けました。
けれど、そうした失敗が幾度許されようとも、そのひとつひとつに感謝することが大切なのだ、といったようにも。
これは教会だけでなく、教会以外の人間関係でも同じとは思うのですが、基本的にあるグループの中で力のある立場の強い人が立場の弱い人に自分の力を譲る……といったような形でしか、円滑な人間関係というのは生まれてこないような気がします。
もちろんこれは、とても大変なことなんですよね。わたし自身もそうでしたが、あるグループの中で自分がある程度力を持っている時、「あの人、なんとなくあんまり好きじゃないな」という方がその中にひとりいた場合、実際何故そんな人に自分が何かを譲ってやらねばならないのかと思いますし、また相手のほうでも「ここまで自分が気持ちを砕いたのに気づかないなんて」ということがあったりと(笑)、自分の人間としての器の小ささを思い知らされたりするものです(^^;)
キリスト教徒なんだから、クリスチャンなんだから、イエスさまだって「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」と言っておられるのだから……なんて、いくら理屈で納得しようとしても、「気に入らないものは気に入らない」というのがわたしたち人間というものですよね。。。
まあ、そこはイエスさまの説いたアガペーの愛で……というわけで、信徒の方にとってはもう耳にタコが出来ている、このアガペーの愛について、次回は何か書いてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
>>私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。
また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さな舵によって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。
同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
(ヤコブの手紙、第3章2~10節)
人間って、物凄く矛盾した生き物で、仮にキリスト教ではなかったとしても、何がしかの宗教的行事を守って「ああ、心が清々しくなった」と思ったその次の瞬間――とまでは言わなくても、その数時間後とか数日後には何かの罪を平気で犯している……ということがよくあるかと思います。
一度、日曜礼拝で奉仕の担当をされていた方が、「唇の罪」について告白をされていたことがありました。同じ唇から良き言葉だけでなく悪しき言葉を吐いてしまうことの罪に対する悔い改め、またそのように悔い改めの祈りを捧げつつも、何度も繰り返しそのような罪を犯してしまうわたしたちのことをお許しください……といったように。
そうなんですよね(^^;)
日曜礼拝の最後って、奏楽とともに信徒たちは牧師さんの祝福を受けて次の一週間へと送りだされるわけですが、礼拝の中で心の罪に対して赦されることを祈ったり、献金したり、牧師さんのお説教を聞いて「聖霊さまに満たされた素晴らしいお言葉」なんて思いつつ、その時は自分でも罪の穢れが一時的にせよ落とされたように感じます。
でも次の日曜日にはもう……月~土曜の間になんやかや良くない言葉を吐いたり、人を傷つけたり不愉快な思いをさせたりと、一度洗って真っ白になったはずの衣服が汚いしみでいっぱいになってまた神さまの御許へ赦しを乞いに行くのです。
もちろん、キリスト教徒、クリスチャンが毎週日曜礼拝を守ることの意味はそうしたところにもあるとは思うのですが、月曜日から土曜の間、あるいは日曜も含めて、「今週は一度も人の悪口言わなかったな♪」なんていうこと、人間には果たしてあるものでしょうか……とすら思います。
主の兄弟ヤコブさんは、ヤコブの手紙の中でこの悪口ということについてかなり厳しいことをおっしゃっておられますが、このことを実践・実行するというのは、穢れ多いこの世という場所を生きている身には、なかなか難しいことであると思います。
人間、実はあんまりそう思ってないんだけれども、「つきあいとしての悪口・噂話」というのがどうしてもありますし、あとから「あれはわたしの本心ではありませんでした。赦してください、主よ」……と祈るのだとしても、やはり一度そうした言葉を口にした時点で、それはその方の罪であるでしょうし、わたし自身もそれは自分の罪だということを認めつつ、祈ることになると思います。
ただ、会社や仕事に関する人間関係で、というのでなく、他でもない神の家であるはずの教会の中にも、この悪口・噂話の根というのが結構深く根付いていることがあるかもしれません(^^;)
そして、実際の社会生活や家族関係などで傷つき、キリスト教の救いが自分にも真実本当に必要なものだと思い、教会へ通いはじめた方が、そうしたことがきっかけで二度とやって来なくなる……ということがあるんですよね。
わたしもそうした事柄に接した時に、「教会は確かに神さまの家ではあるけれど、人が何人か集まった場合に起きる摩擦というのは避けられないものなのだな」と思いましたし、同じクリスチャン同士でも、やっぱり人として馬が合う・合わないということはあるというか(^^;)
けれど、わたしもそうですが、職場の人間関係で特に物凄く何か嫌なことが起きた……というわけでもないのに、「なんとなく居づらい」ものを感じて仕事自体がどうこうということではなく辞めてしまう人というのが今の時代、結構あるとお聞きします。
そして、そうした方が教会へ来られてイエスさまの救いを信じ、その後、神さま、イエスさまのことはがっちり信じているのだけれども、教会の中の人間関係に疲れたり、ここでも「居づらい」ものを感じて離れてしまうことがあると思うんですよね。
仕事もうまくいかず、働かないことで家族との人間関係もまずくなり、そんな時にキリスト教の教えに触れて心から信じたものの――家にも居づらい、職場にも自分の居場所がない、また教会という場所にも……となった場合、人間は一体どうしたらいいのでしょうか。
わたしの場合、とにかく日曜礼拝を守れないことに罪悪感を感じつつも、それ以外のことは出来る限りなるべく守るという方向性で信仰生活を送るということにまずはしました。毎日聖書を読んだり祈ったり、献金のほうは慈善団体のほうに送金したりと、そうした形ですね。
また、この時以前牧師さんからいただいた礼拝のテープが五本ほどあったので、このテープは本当に数え切れないほど繰り返し聴きました。日曜礼拝の最初から最後までが録音されたテープでしたので、聖餐式の時には自分で用意したパンとぶどうジュースを悔い改めの祈りのあとに飲んだりですとか、そうした形です。
けれど、教会で日曜礼拝を守るというのは、本当に特別な聖霊さまの注ぎかけやここでしか受けられない恵みがありますし、わたし自身霊の力の弱まりというのを感じたこともあって、その後別の教会へ通ってみたりと、そうした変遷がありました。
今はインターネットでも礼拝を守れますし、インターネットを通して聖書の学びをしたりといったことも、昔とは違ってかなり一般的になってきたと思います。
でもわたし自身、教会で日曜礼拝を守れることが最善とは思うのですが、介護の問題で日曜は家から出られないといった事情の方などもおられますし、特に主の十字架クリスチャンセンターのインターネット礼拝は毎週守っていて本当に深い聖霊さまの語りかけや恵みで溢れていると思っています。
これから、日本で、また全世界的にリバイバルが起きてくると言われていますし、また主の十字架クリスチャンセンターではすでに「日本でリバイバルがはじまっている」という語りかけを受け歩んでいるわけですが、と同時に信徒の方が増えるにしたがって、人間的な躓きや失敗も起きてくると、先日祈りの中で語りかけを受けました。
けれど、そうした失敗が幾度許されようとも、そのひとつひとつに感謝することが大切なのだ、といったようにも。
これは教会だけでなく、教会以外の人間関係でも同じとは思うのですが、基本的にあるグループの中で力のある立場の強い人が立場の弱い人に自分の力を譲る……といったような形でしか、円滑な人間関係というのは生まれてこないような気がします。
もちろんこれは、とても大変なことなんですよね。わたし自身もそうでしたが、あるグループの中で自分がある程度力を持っている時、「あの人、なんとなくあんまり好きじゃないな」という方がその中にひとりいた場合、実際何故そんな人に自分が何かを譲ってやらねばならないのかと思いますし、また相手のほうでも「ここまで自分が気持ちを砕いたのに気づかないなんて」ということがあったりと(笑)、自分の人間としての器の小ささを思い知らされたりするものです(^^;)
キリスト教徒なんだから、クリスチャンなんだから、イエスさまだって「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」と言っておられるのだから……なんて、いくら理屈で納得しようとしても、「気に入らないものは気に入らない」というのがわたしたち人間というものですよね。。。
まあ、そこはイエスさまの説いたアガペーの愛で……というわけで、信徒の方にとってはもう耳にタコが出来ている、このアガペーの愛について、次回は何か書いてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
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