【聖マルコと聖ルカに崇拝される聖母子】ティントレット
数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」
彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。
「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたに知らせるために」
こう言ってから、中風の人に、
「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」
と言われた。
すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、
「こういうことは、かつて見たことがない」
と言って神をあがめた。
(マルコの福音書、第2章1~12節)
――前回のらい病人の方同様、この方々もなんと大きな信仰を持っていたのでしょうか。
イエスさまが病人の癒しを行われるという話を聞いて、当時のお医者さんではどうにも出来なかった中風の方の癒しを願い、イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。だなんて(^^;)
そして、イエスさまが「子よ。あなたの罪は赦されました」とあることから、この病いがどうも罪が原因であったらしいことがわかります。
といっても、当然すべての病いが罪ゆえに起こるということではなく――一部の病気に関してはそうした部分もあるということですよね。多くの病気は罪ゆえに起こるわけではないけれども、時に罪ゆえに病いが許されることがある、というか。
わたし、この中風のことを実は最初、痛風と勘違いしてたんですけど(汗)、中風っていうのは脳卒中やその後遺症のことを差すみたいですよね(^^;)
聖書のこの方の中風の原因が何であったのかは詳しく記されていないのですが、なんにしても床について歩けなかったくらい、症状は悪かったのでしょう。なんらかの病気で床に伏せる時、わたし自身もそうですが、心が相当へりくだる過程を経るものだと、そんなふうに思います。
もし、わたしが明日病院で仮に癌だと宣告されたとしたら、まずは原因について自分の心の中を探るだろうと思います。そしてこうつぶやくかもしれません。「ただ一生懸命生きているだけの者を、神は何故こんな惨い目に合わせるのか」と。
う゛~ん。でもわたし自身の場合、そうなっても仕方ない罪に相当するものが現段階である……という実情がありますので、もしかしたら神さまのことはそう恨まないかもしれません。でも、「この苦行を感謝し、甘んじて受け容れます」とはすぐ告白できないでしょうし、自分に罪があるにしても、「それにしてもこの仕打ちはひどい」と、やはりそう思わずにいられないに違いありません。
ただ、わたしが聞いた話として、ちょっとびっくりしたことがあります(^^;)
知り合いのある方が胃癌を宣告された時――その方は何度も繰り返しこうおっしゃっていたそうなんですよね。「自分は何も悪いことをしてないのに、何故こんな目に遭うんだ」と……。でもその方というのが、人の悪口や噂話をしょっちゅう言ってたり、行いのほうにも若干問題のある方だったことから、そうした罪の毒が回って病気になったのでは??と周囲の方は誰もが思った、というか。
幸い、その方は手術をされて順調に回復されたのですが、その後も行いなどに変化はまるで見られず、病気以前も病気以後も性格などはあまり変わっていないように見受けられる……とのことでした。
もちろん聖書には「人を裁くな」とありますから、その方の行いを裁きたいなどというのではないのです。
ただ……「自分は何も悪いことをしていない」、そう思えることっていうのは凄いなと思ったというか(^^;)わたしなんて、ちょっと振り返ってみただけでも、「あんな悪いこともしたな」とか「こんな悪いこともしたな」と、小さな罪が塵も積もれば山となるとばかり、たくさんあるのですが(汗)、「自分は何も悪いことをしていない」と思えるというのは、ある意味凄いなあ、と思ったというか。
そして、律法学者とイエスさまとの論争があるのですが、「神おひとりのほか、だれが罪を許すことが出来よう」という律法学者たちの言い分は確かにその通りですよね。けれど、彼らもまた理屈によってではなく、イエスさまの業によって信じることが出来れば良かったのですが、そう出来なかったことがやはり、彼らの敗北だったのだと思います。
神というものは基本的に、理屈によってでは信じることが出来ない方ですよね。前回のらい病人の方や、この中風の方がそうであったように、「もはや理屈などどうでもいい。何故なら自分は神以外に縋れるものが何もない、惨めな状態なのだから!」というくらいに追いこまれて初めて――信じることの出来る存在である……神さまという方にはどこか、そうしたところがあるような気がします。
わたしが個人的に思うに、この場合、罪の赦しと肉体の癒しとが同時に起こったことのうちには、中風の方がそれ以前に床の中で相当悔い改めていた……といった背景があるような気がします。そしてそんな彼のことを大切に思う方々が、驚くべき信仰を示して、イエスさまの御前にこの方のことをつり降ろしたのでした。
ようするに、そこまでのことをしてまで癒されたいという熱意、イエスさまならば必ず癒してくださるというまったき信頼の気持ちが彼らにはあった、そういうことなのだと思います。
そしてここに出てくる律法学者たちのように、ある種の<余裕>がある場合には、神さまのことというのは、もしかしたら信じることが難しいのかもしれません。健康で、暮らしぶりにも何ひとつ困るところがなかったとすれば、激しく神さまのことを求めよう、真理の道を追求しようといったようには、人はあまり思わないのだろう、というか。
イエスさまの有名な説教のひとつである、山上の垂訓に「心の貧しい者は幸いです」という一説がありますが、ここには、健康も金銭もなく、すべてにおいて貧しい人は神だけを頼りとするであろうから、そうした人は幸いである……といった意味があるそうです。もちろん普通は思いますよね。「貧しいことが幸いだって?なんだそりゃ☆」といったように。
けれどやっぱり、肉体的に健康で、精神的にも余裕があり、日々の生活にも困ってなかったとしたら、その状態で神さまのことを信じるというのは、相当難しいだろうという気がします。なんにしても、人というのは以前はそうした状態にあって心のたかぶったような傲慢な生活から貶められた時に初めて――神さまのことを真剣に求めはじめるのではないか……そんな気がします。
そして、すべての病いが罪から起きるのではないにしても、個人的な経験として「病気といったものには人を罪から離れさせる力がある」というのは本当だと思うんですよね(^^;)
これは、わたしが本当にそうでした。そうした病いが許されることで、心がへりくだった状態にもなれば、長く「許せない」と思っていた人のことを突然許せるようになったり……そして病気の最中にある時には難しいことですが、すべてが一段落してみると、「あれがあって良かった☆」と思えるくらいになる、というか。
一応誤解のないようにつけ加えておきますと、「だから病気はいいものだ」とか、これはそうした話ではないです。また、罪が原因で起きる病気というのは確かに一部あるのでしょうが、大半の病気といったものは、そうではなく起きるもの……といったように、わたし自身も思っています。
それでは、次回は聖マタイの召命の箇所から、お話の続きを書きたいと思います。
ではまた~!!
数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
群集のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」
彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。
「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたに知らせるために」
こう言ってから、中風の人に、
「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」
と言われた。
すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、
「こういうことは、かつて見たことがない」
と言って神をあがめた。
(マルコの福音書、第2章1~12節)
――前回のらい病人の方同様、この方々もなんと大きな信仰を持っていたのでしょうか。
イエスさまが病人の癒しを行われるという話を聞いて、当時のお医者さんではどうにも出来なかった中風の方の癒しを願い、イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。だなんて(^^;)
そして、イエスさまが「子よ。あなたの罪は赦されました」とあることから、この病いがどうも罪が原因であったらしいことがわかります。
といっても、当然すべての病いが罪ゆえに起こるということではなく――一部の病気に関してはそうした部分もあるということですよね。多くの病気は罪ゆえに起こるわけではないけれども、時に罪ゆえに病いが許されることがある、というか。
わたし、この中風のことを実は最初、痛風と勘違いしてたんですけど(汗)、中風っていうのは脳卒中やその後遺症のことを差すみたいですよね(^^;)
聖書のこの方の中風の原因が何であったのかは詳しく記されていないのですが、なんにしても床について歩けなかったくらい、症状は悪かったのでしょう。なんらかの病気で床に伏せる時、わたし自身もそうですが、心が相当へりくだる過程を経るものだと、そんなふうに思います。
もし、わたしが明日病院で仮に癌だと宣告されたとしたら、まずは原因について自分の心の中を探るだろうと思います。そしてこうつぶやくかもしれません。「ただ一生懸命生きているだけの者を、神は何故こんな惨い目に合わせるのか」と。
う゛~ん。でもわたし自身の場合、そうなっても仕方ない罪に相当するものが現段階である……という実情がありますので、もしかしたら神さまのことはそう恨まないかもしれません。でも、「この苦行を感謝し、甘んじて受け容れます」とはすぐ告白できないでしょうし、自分に罪があるにしても、「それにしてもこの仕打ちはひどい」と、やはりそう思わずにいられないに違いありません。
ただ、わたしが聞いた話として、ちょっとびっくりしたことがあります(^^;)
知り合いのある方が胃癌を宣告された時――その方は何度も繰り返しこうおっしゃっていたそうなんですよね。「自分は何も悪いことをしてないのに、何故こんな目に遭うんだ」と……。でもその方というのが、人の悪口や噂話をしょっちゅう言ってたり、行いのほうにも若干問題のある方だったことから、そうした罪の毒が回って病気になったのでは??と周囲の方は誰もが思った、というか。
幸い、その方は手術をされて順調に回復されたのですが、その後も行いなどに変化はまるで見られず、病気以前も病気以後も性格などはあまり変わっていないように見受けられる……とのことでした。
もちろん聖書には「人を裁くな」とありますから、その方の行いを裁きたいなどというのではないのです。
ただ……「自分は何も悪いことをしていない」、そう思えることっていうのは凄いなと思ったというか(^^;)わたしなんて、ちょっと振り返ってみただけでも、「あんな悪いこともしたな」とか「こんな悪いこともしたな」と、小さな罪が塵も積もれば山となるとばかり、たくさんあるのですが(汗)、「自分は何も悪いことをしていない」と思えるというのは、ある意味凄いなあ、と思ったというか。
そして、律法学者とイエスさまとの論争があるのですが、「神おひとりのほか、だれが罪を許すことが出来よう」という律法学者たちの言い分は確かにその通りですよね。けれど、彼らもまた理屈によってではなく、イエスさまの業によって信じることが出来れば良かったのですが、そう出来なかったことがやはり、彼らの敗北だったのだと思います。
神というものは基本的に、理屈によってでは信じることが出来ない方ですよね。前回のらい病人の方や、この中風の方がそうであったように、「もはや理屈などどうでもいい。何故なら自分は神以外に縋れるものが何もない、惨めな状態なのだから!」というくらいに追いこまれて初めて――信じることの出来る存在である……神さまという方にはどこか、そうしたところがあるような気がします。
わたしが個人的に思うに、この場合、罪の赦しと肉体の癒しとが同時に起こったことのうちには、中風の方がそれ以前に床の中で相当悔い改めていた……といった背景があるような気がします。そしてそんな彼のことを大切に思う方々が、驚くべき信仰を示して、イエスさまの御前にこの方のことをつり降ろしたのでした。
ようするに、そこまでのことをしてまで癒されたいという熱意、イエスさまならば必ず癒してくださるというまったき信頼の気持ちが彼らにはあった、そういうことなのだと思います。
そしてここに出てくる律法学者たちのように、ある種の<余裕>がある場合には、神さまのことというのは、もしかしたら信じることが難しいのかもしれません。健康で、暮らしぶりにも何ひとつ困るところがなかったとすれば、激しく神さまのことを求めよう、真理の道を追求しようといったようには、人はあまり思わないのだろう、というか。
イエスさまの有名な説教のひとつである、山上の垂訓に「心の貧しい者は幸いです」という一説がありますが、ここには、健康も金銭もなく、すべてにおいて貧しい人は神だけを頼りとするであろうから、そうした人は幸いである……といった意味があるそうです。もちろん普通は思いますよね。「貧しいことが幸いだって?なんだそりゃ☆」といったように。
けれどやっぱり、肉体的に健康で、精神的にも余裕があり、日々の生活にも困ってなかったとしたら、その状態で神さまのことを信じるというのは、相当難しいだろうという気がします。なんにしても、人というのは以前はそうした状態にあって心のたかぶったような傲慢な生活から貶められた時に初めて――神さまのことを真剣に求めはじめるのではないか……そんな気がします。
そして、すべての病いが罪から起きるのではないにしても、個人的な経験として「病気といったものには人を罪から離れさせる力がある」というのは本当だと思うんですよね(^^;)
これは、わたしが本当にそうでした。そうした病いが許されることで、心がへりくだった状態にもなれば、長く「許せない」と思っていた人のことを突然許せるようになったり……そして病気の最中にある時には難しいことですが、すべてが一段落してみると、「あれがあって良かった☆」と思えるくらいになる、というか。
一応誤解のないようにつけ加えておきますと、「だから病気はいいものだ」とか、これはそうした話ではないです。また、罪が原因で起きる病気というのは確かに一部あるのでしょうが、大半の病気といったものは、そうではなく起きるもの……といったように、わたし自身も思っています。
それでは、次回は聖マタイの召命の箇所から、お話の続きを書きたいと思います。
ではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます