神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待つ者たち。

2024年01月22日 | キリスト教

 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

 主よ。私の声を聞いてください。
 私の願いの声に耳を傾けてください。

 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
 主よ、だれが御前に立ちえましょう。

 しかし、あなたが赦してくださるからこそ
 あなたは人に恐れられます。

 私は主を待ち望みます。
 私のたましいは、待ち望みます。
 私は主のみことばを待ちます。

 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、
 まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、
 主を待ちます。

 イスラエルよ。主を待て。
 主には恵みがあり、
 豊かな贖いがある。

 主は、すべての不義から
 イスラエルを贖い出される。


(詩篇130編)


 この時代のイスラエルやその近辺の町や村、城塞都市などがどのような様子をしていたか……今はその一部を遺跡などによって知ることが出来る、といったくらいな感じなのかなと思ったりするのですが、実際はどうなのでしょうか(^^;)

 ただこの間、ローマ時代のことについて書かれた本を少し読んで、ふとこう想像したんですよね。古代ローマ時代では、日没とともに本当にどこも真っ暗闇に包まれるため、そんな中で殺人が行われると犯人を捜し出すことは困難だった……ということでした。ドラマなどで見ると、大体物凄くかがり火が焚かれてたりするので、そのイメージによってたぶん外もこのくらい明るかったんじゃないかな――みたいに思ってたのは、わたしの思い込みだったらしいとわかったというか。

 でも実際には、火災を恐れてあんなにあちこちで火が焚かれているようなことはなく、日没後は本当に「恐ろしいまでの暗闇に包まれる」というのが真実であったらしく。。。

 それで、この詩篇130編に出てくる夜回りさんというのは夜警のことで、今のわたしたちのイメージでいうと、大きなビルを定時に見回る警備員さんのことが連想されるわけですけど、言うまでもなくこの時代は「命が懸かっていた」んじゃないかと思います。

 暗闇に乗じて盗みを働く盗賊や、悪企みのため、あるいは人からお金で依頼されて人を殺す犯罪者など……夜回りの時に怪しい人物を見かけたら、捕まえるために腕を振るわなくてはならない。ひとりではなく、おそらく他の夜警に当たっている当番と一緒に、ということであったにしても、向こうにたむかわれた場合は命が危なかったり、あるいは大怪我をするなど、毎日ある程度の緊張感とともに職務に臨んでいたのではないでしょうか。

 もし仮に、世間を騒がすあまり物騒な事件も起きていない、比較的安全と思われる時でも――死と隣り合わせの職業であったでしょうし、眠くなってあくびをしていたところをグサリとやられるとか、あるいは夜警の仲間の誰かが昨晩そのような目に遭ったと聞き、戦々恐々とするなど、そういった職業だったんじゃないかなって思うんですよね。

 その上、昼間寝て、夜は夜回りに行くとなると、結婚していたら家族とライフサイクルが合わないなど、色々ありそうです。もしかしたら、誰それの結婚式へ出席したそのあと、あまり眠る時間もなくそのまま夜警の任に就くなど、大変なことは色々あったのではないでしょうか。あとは、昼間寝なきゃならないのに、子供がまだ小さくてその泣き声で眠れないなど、人がみな眠っている「夜」に働くということは、今という時代以上に大変なことがたくさんあったのではないかと想像されます。

 そんなふうに考えていくと、この詩篇の夜回りさんが「夜明けを待つ気持ち」の切実さがすごくよくわかるような気がします。おそらく、「近いうちに戦争が起きる」とか、どこそこの軍が攻めて来るといった噂がある時などは……緊張感によって気持ちが引き締まる一方、一番暗い気持ちに落ち込んでいたとしても不思議はありません。また、自分の人生がうまくいっていないような時にも、城塞の高い塔から周囲の暗闇を見回し、「俺の人生はまさしく、この周囲を取り巻く暗闇のようだ」と嘆きの溜息を着いたりすることも……きっとあったのではないでしょうか。

 もちろん、こうした肉体を取り巻く暗闇も、人間は本能的に恐れるものと思いますが、おそらくクリスチャンにとってもっとも恐ろしいのは、精神的闇を越えた霊的暗闇のことでないかと思われます。旧約聖書の終わりと、新約聖書のはじまり(つまりイエスさまの誕生)の間には約400年あるそうなんですけど、その四百年のことを思うと、正直わたし自身は「その時代に生きてなくて良かった」と思ってしまいます。

 そうした意味でもイエスさまの誕生は、霊的暗闇にあった人々の魂に夜明けの星が輝き、やがて真昼となることが予感される、素晴らしい神さまの時の訪れでした。

 
 >>イエスは彼らに言われた。

「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことがないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」

(ヨハネの福音書、第12章35~36節)


 そして、イエスさまもまた、十字架上で苦しみの極致にあった時、御父との霊的断絶という霊の暗闇を経験なさいました。その後、三日後に甦られ、こうしたイエスさまのことを信じる者たちにはどのような肉体的・精神的、霊的暗闇の中にあろうとも、神さまにある永遠の救いの夜明けが最初から与えられています。

 おそらく、わたし自身今後、「おお、なんという暗闇が自分を取り巻いていることだろう」と自己憐憫の涙を流す瞬間というのはあるのではないかと想定しています。でも、「あの時ほどひどくはないだろう」という比較対象がすでに存在しているせいか、自己憐憫に陥るよりはイエスさまに感謝してそうな気はするのですが(マーリン・キャロザース先生のすべてのことを感謝するの実践)、人にはそれぞれ「これだけは耐えられない」という事柄が存在するという意味で――割とこう「今度はこう来たか」というサタン的攻撃その他、色々なことが必ず起きてくるものなのだと思います。


 >>やみと死の陰に座す者、
 悩みと鉄のかせとに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。

 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、
 彼らのかせを打ち砕かれた。

 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

(詩篇107編、第10~16節)


 いつかわたしが死ぬ時、一般的・世間的には葬式という名の暗闇かもしれなくても、魂には夜明けが来て、その国では永遠に太陽が沈むことがないだろうと思います。でもわたし自身は結構夜の闇や月の光も好きなほうなので……その頃にはちょっと地上の昔の暗闇が懐かしくなっているような気も――しなくもなかったりするんですよね(^^;)

 それではまた~!!






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