
【奇跡の漁り】コンラート・ヴィッツ
「おいおい、また変なことを……
」と思われそうなんですけど、その昔はこんなに何十億と人がいる中で、人間が何時何分何秒にあんなことしてたとかこんなことしてたとか、神さまがわかってるってありえないんじゃないかな
……という時代が長く続いたわけですが、今はもうスマートフォンなるものがあるので、結論として「ありえる
」ということが、可能性として誰の頭にも浮かぶくらいにはなったのではないでしょうか(^^;)。
それで、今後は「天国は人工的に作ることが可能なのではないか」といったように、科学技術が追いついてきたというか、「ありえないことではない。いや、それどころか十分可能なことである」という見通しがついてきたわけですよね。
つまり、自分にとっての「幸福な仮想世界」を作り、意識だけずっとそこに住むとか……いずれ出来ないことではないと言われるわけですけど、キリスト教徒のように「自然死しなくてはイエスさまの天国へ行けない」という教義を信じる人々は、そちらの選択はしないだろう思われるわけです。
それはさておき、今まであらゆる時代において、「報いのない不幸せな人生を送って亡くなった
」方の人数は相当数に上るものと思われます。もちろん、表面的にはそう見えるだけであって、「彼/彼女」なりに幸福であったとか、「彼/彼女」なりに幸せな時もあった、ただ、それよりも不幸な時のほうが多かったかもしれない……など、人の幸・不幸というのはやはり本人にしかわからない部分も大きいだろうとは思います。でも、キリスト教ではいつの時代もずっと、「天国にこそ報いがある」、「死後の世界にこそ永遠絶対の幸福が待っている」、「だからこの世の煩いがいかに大きかろうとも、この報いを思って頑張ろう
」というのでしょうか。わたしはこのキリスト教の教義に一信者として同意する者ではありますが、でも一般的に人気のない教えかもしれないなあ……といったように理解もしています(^^;)。
個人的に、昆虫や動物の世界のことに思いを馳せると、人間の人生同様ちょっと苦しくなってしまうところがあるというか。聖書のローマ人への手紙、第8章22節には、>>「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」とあるわけですが、人間とまったく同じ思考形態を持っているのでなかったとしても、昆虫や野生の動物世界は厳しすぎると思うんですよね。。。
前にも、同じこと書いたような記憶があるものの、昔
HKのドキュメンタリーで、ある蝶の一生のことが描かれていたことがありました。なんていう名前の蝶だったか忘れてしまったっていうのがなんなんですけど(汗)、実際に羽化するまでには途方のない労力を費やしているにも関わらず、ある蝶は羽化してどうにか頑張って大空へ羽ばたいていった、でもまたもう一匹の蝶は飛び立とうとした時に、羽がちょっとした加減で草と草の間に引っかかってしまい、無事羽化したにも関わらず、そこで終わってしまった……という蝶がいました。それはとても美しい模様の蝶々さんだったと記憶しているのですが、もうそうなってしまうとそこで羽をバタバタさせながらうずくまっているしかなく、あとは他の外敵に食べられるのを待つばかりの身ということになり――一方、羽ばたいていった蝶にしても、無事羽化することが出来たにしても、その蝶自体の生命も儚く、そんなに長く生きるわけでもない。その短い生の中で、毎日花の蜜を求め、あとは子孫を残すのに交尾をし、朽ちていくしかないといった存在でもあるわけです。
まあ、この蝶々さんの短い一生と、人間の一生とでどう違いがあるというのか……なんていうことを、テレビを見ている側としては思うわけですけど、キリスト教では一応、魂なるものがあるのは人間に限定されていたりしますよね。聖書にそうはっきり書いてあるわけではないと個人的には思うんですけど、カトリックの教義などではそう言われていると以前聞いたことがあります。
わたし自身は生前飼っていたわんちゃん・にゃんちゃんその他の動物というのも、天国にいるのではないかと想像したりしますが、この蝶々さんの苦労して羽化できたにも関わらず、唯一飛び立つところでつまずいてしまったという死にざまがあまりに痛ましく、自分的に無理にでもこう考えることにしたわけです。
つまり、人間には確かに魂なるものがあるであろう、その点、人間以外の動物さんたちはどうか、はっきりとはわからない……でも、天国にはいるんじゃないかなというのが個人的な見解であり、では昆虫さんたちはどうかとなると、「ゴキブリやダニその他、天国にいなくていい存在っていうのはいるんじゃね?
」と思う一方、天国には花畑があると、一般的に多くの人がそう信じています。また、蝶もなんとなくだけれど、いそうな気がすることから――それをもし蝶の魂と呼ばなかったとしても、魂的なものがあって、それは魂の型、イデア的なものなんじゃないかなと想像することにしたわけです。
イデアということを言ったのは哲学者のプラトンさんだったと思うのですが、わたし的な解釈として、天国に保存されている蝶の魂(イデア)はひとつであって、そこから無数にコピーされるにも近い形によって蝶は地上に遣わされてくる……でも、天国に蝶の魂の型が保存されている以上、元はひとつと思うわけです。つまり、羽化できて短い生を生き、無事遺伝子のバトンを次の世代に繋ぐことが出来た蝶も、草と草の間で朽ちてしまうしかなかった蝶さんも、天国では同一人物というのか同一蝶物(同一昆虫物?
)なのではないか――と想像することにしたわけです。
これでいくと、絶滅してしまったドードー鳥その他、恐竜なども魂の型のようなもの、地上においていえば完全なDNAが保存されていて、神さまにはそうしようと思えば無限にコピーすることが可能である、でも唯一人間だけは、クローン人間のように複製することが出来るにしても、そのひとりひとりの違いを愛おしみ、慈しんでおられるのではないか……と思ったりします(^^;)。
今回の記事は前回の記事の補足というか、こうした形で神さまが万物を愛しておられる部分があるのだとすれば、人間はひとりひとり違いがあって、やろうと思えばたぶん神さまにはすべてにおいて完全無欠のエリート人間ばかり増産することも不可能でなかったと思うんですよね。でもそうではなく、むしろ「欠けがある」からこそ、そこを通して神さまの愛と恵みが現わされることのほうが――「人間らしさ」というものはそこからしか生まれないという意味でも、それはとても大切なことではないかという気がします。
「人間を人間たらしめるもの」、それは欠けや間違いや失敗ということらしいんですよね、突き詰めていうとどうやら……神さまは何故人間のような失敗作を創ったのか、というより、あらゆる可能性のパターンによって何がどうなるかわからない、予測不能の存在を創った、とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、神さまは全能の方なので、人間が自由意志によって歴史的にどのようなルートを辿ろうとも、その道筋のすべてを読むことがお出来になる方なのだとは思います。また、今から約二千年前にイエスさまが地上に遣わされたように、ご自身がお創りになった者たちを全員、神さまが引き寄せられる時がやって来る――ともキリスト教では言われています。
あ、これもまた、聖書の御言葉に絡めたわたし個人のイメージによるところのものですが、たとえば漁師が網で魚を引き寄せるように……イエスさまが地上に放った網に人々が引っ掛かると、その人というのはきっと、両手を組み合わせて祈った姿で引き上げられてくるため、その姿はきっと神さまの目には大きな魚のように見えても不思議でないような気がしています。
そしておのおの、「主よ、わたしはここです。わたしはここです」なんてブツブツ祈りつつ、海から岸へ引き上げられ、「そうとも、子よ。わたしはここにいるとも」と、網を引いてくださった方の姿を初めて知る――なんていう可能性も、あったりするのではないでしょうか。
>>イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大勢の群衆がイエスにつき従った。
(マタイによる福音書、第4章18~25節)
>>天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
(マタイによる福音書13章44節~48節)
それではまた~!!
「おいおい、また変なことを……



それで、今後は「天国は人工的に作ることが可能なのではないか」といったように、科学技術が追いついてきたというか、「ありえないことではない。いや、それどころか十分可能なことである」という見通しがついてきたわけですよね。
つまり、自分にとっての「幸福な仮想世界」を作り、意識だけずっとそこに住むとか……いずれ出来ないことではないと言われるわけですけど、キリスト教徒のように「自然死しなくてはイエスさまの天国へ行けない」という教義を信じる人々は、そちらの選択はしないだろう思われるわけです。
それはさておき、今まであらゆる時代において、「報いのない不幸せな人生を送って亡くなった


個人的に、昆虫や動物の世界のことに思いを馳せると、人間の人生同様ちょっと苦しくなってしまうところがあるというか。聖書のローマ人への手紙、第8章22節には、>>「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」とあるわけですが、人間とまったく同じ思考形態を持っているのでなかったとしても、昆虫や野生の動物世界は厳しすぎると思うんですよね。。。

前にも、同じこと書いたような記憶があるものの、昔

まあ、この蝶々さんの短い一生と、人間の一生とでどう違いがあるというのか……なんていうことを、テレビを見ている側としては思うわけですけど、キリスト教では一応、魂なるものがあるのは人間に限定されていたりしますよね。聖書にそうはっきり書いてあるわけではないと個人的には思うんですけど、カトリックの教義などではそう言われていると以前聞いたことがあります。
わたし自身は生前飼っていたわんちゃん・にゃんちゃんその他の動物というのも、天国にいるのではないかと想像したりしますが、この蝶々さんの苦労して羽化できたにも関わらず、唯一飛び立つところでつまずいてしまったという死にざまがあまりに痛ましく、自分的に無理にでもこう考えることにしたわけです。
つまり、人間には確かに魂なるものがあるであろう、その点、人間以外の動物さんたちはどうか、はっきりとはわからない……でも、天国にはいるんじゃないかなというのが個人的な見解であり、では昆虫さんたちはどうかとなると、「ゴキブリやダニその他、天国にいなくていい存在っていうのはいるんじゃね?

イデアということを言ったのは哲学者のプラトンさんだったと思うのですが、わたし的な解釈として、天国に保存されている蝶の魂(イデア)はひとつであって、そこから無数にコピーされるにも近い形によって蝶は地上に遣わされてくる……でも、天国に蝶の魂の型が保存されている以上、元はひとつと思うわけです。つまり、羽化できて短い生を生き、無事遺伝子のバトンを次の世代に繋ぐことが出来た蝶も、草と草の間で朽ちてしまうしかなかった蝶さんも、天国では同一人物というのか同一蝶物(同一昆虫物?

これでいくと、絶滅してしまったドードー鳥その他、恐竜なども魂の型のようなもの、地上においていえば完全なDNAが保存されていて、神さまにはそうしようと思えば無限にコピーすることが可能である、でも唯一人間だけは、クローン人間のように複製することが出来るにしても、そのひとりひとりの違いを愛おしみ、慈しんでおられるのではないか……と思ったりします(^^;)。
今回の記事は前回の記事の補足というか、こうした形で神さまが万物を愛しておられる部分があるのだとすれば、人間はひとりひとり違いがあって、やろうと思えばたぶん神さまにはすべてにおいて完全無欠のエリート人間ばかり増産することも不可能でなかったと思うんですよね。でもそうではなく、むしろ「欠けがある」からこそ、そこを通して神さまの愛と恵みが現わされることのほうが――「人間らしさ」というものはそこからしか生まれないという意味でも、それはとても大切なことではないかという気がします。
「人間を人間たらしめるもの」、それは欠けや間違いや失敗ということらしいんですよね、突き詰めていうとどうやら……神さまは何故人間のような失敗作を創ったのか、というより、あらゆる可能性のパターンによって何がどうなるかわからない、予測不能の存在を創った、とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、神さまは全能の方なので、人間が自由意志によって歴史的にどのようなルートを辿ろうとも、その道筋のすべてを読むことがお出来になる方なのだとは思います。また、今から約二千年前にイエスさまが地上に遣わされたように、ご自身がお創りになった者たちを全員、神さまが引き寄せられる時がやって来る――ともキリスト教では言われています。
あ、これもまた、聖書の御言葉に絡めたわたし個人のイメージによるところのものですが、たとえば漁師が網で魚を引き寄せるように……イエスさまが地上に放った網に人々が引っ掛かると、その人というのはきっと、両手を組み合わせて祈った姿で引き上げられてくるため、その姿はきっと神さまの目には大きな魚のように見えても不思議でないような気がしています。
そしておのおの、「主よ、わたしはここです。わたしはここです」なんてブツブツ祈りつつ、海から岸へ引き上げられ、「そうとも、子よ。わたしはここにいるとも」と、網を引いてくださった方の姿を初めて知る――なんていう可能性も、あったりするのではないでしょうか。
>>イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大勢の群衆がイエスにつき従った。
(マタイによる福音書、第4章18~25節)
>>天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
(マタイによる福音書13章44節~48節)
それではまた~!!

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