神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

小さな祈り。

2017年06月19日 | キリスト教
【ビフォーアフター】(いらすとやさんの素材集よりm(_ _)m)


 キリスト教=禁欲的で、「あれをしてはならぬ、これもしてはならぬ☆」といったことを押しつけられる……といったようにイメージされる方は多いかもしれません(^^;)

 けれども、ここの部分は捉え違いやちょっとした勘違い、あるいは信じ方を間違えているといったことがあるようにも思います。

 たとえば、人間には色々な欲望があって、たとえば食欲

 ダイエットのことで「痩せますように」と祈っている方は多いかもしれませんが、祈っていてむしろその食欲を攻撃される……ということが時にあるかもしれません。

 わたしたちの敵はクリスチャンや信仰者の弱いところを突いてきますから、「こいつの一番弱いところは食欲だな。よし、そこを徹底的に攻撃して罪悪感で苦しめてやろう」みたいなことが、ある場合においてあるということですよね。

 でも、これは自分の力でやろうとせず、「わたしには食欲に打ち勝つ力がありません」と告白し、神さまにどうやってダイエットしたらいいか聞いてみるといいと思います。もちろん、ノンクリスチャンの方にとっては「神さまがダイエットのことなんか、興味あるわけないやろww」と思うかもしれませんが、イエスさまは聖霊さまを通してどんなことでも喜んで相談に乗ってくださるのです。

 むしろ、こうした道を通らず、「ダイエットなんていうくだらないことで神さまの御手を煩わせるなんてとんでもない!自分の強い意志の力でやり通さなきゃ」なんて思うことが、まず信仰でつまずく道の第一歩という気がします(^^;)

 これから自分のしようとする、どんなことでもイエスさまに相談する、聖霊さまを通して聞いていただく……ということがわかると、この世的に成功したいですとか、成功欲のあることや名誉欲に関することでも、失敗から守られるところがあると思います。

 何故かというと、以前書いた「神の主権」ということにも繋がると思うのですが、「自分の力であれをこうして、これをああしたい」といった強い欲望があった場合、「自分の人生だ。自分の好きにして何が悪い」といったようになるところがあると思うんですけど、こういう種類のやり方で本当に成功できる、あるいは自分の満足なとおりに事を運べるという人は、実はそんなに多くないと思うんですよね(^^;)

 大抵の人というのは、その過程で何か失敗を犯し、人を傷つけ、むしろ借金を背負ったりなど、「自分の選択によって思ったとおりにしたことで苦しむ」という人生を送っている方のほうが多い気がしたり。。。orz

 そして、こうした過程で「どうしてですか、神さま」とか、「神がいるのなら何故こんなことが起きるんだ」といった苦しみ・悩みを通して――人生を学んだのち、もしその方が幸運にもイエスさまに出会ったなら、「神に委ねることこそ、人生で成功する実は一番の早道だった」ということを具体的に知りはじめると思います。


 >>闇と死の陰に座す者、
 悩みと鉄の枷とに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。

 それゆえ神は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。

 主は彼らを闇と死の陰から連れ出し、
 彼らの枷を打ち砕かれた。
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

(詩篇107編10~16節)


 旧約聖書のイスラエルの民(神さまに選ばれた民)は、神さまの恵み深さを何度となく経験していながら、さらにこの神に対して罪を犯し、最後にはどうしようもないところまで堕落してしまいました。

 にも関わらず、神は御自身の選ばれたこの民を捨てることなく、何度となく救い――また、彼らよって十字架につけられたイエス・キリストを通し、全世界に彼こそが神、神の御子であるということを知らしめなさいました。

 わたしたちも同じように何度となく神の御旨に背いては、自分の選んだ欲望の道のために苦しみ悩むといった救いようのない存在なのですが、神さまは同じようにわたしたちが何度そのような罪を犯そうとも救ってくださいます。

 この地上における生涯において、わたしたちが罪を犯すことなど一度二度ではなく、それこそ十度も二十度も、百回でも千回でも、放っておけば一億回でも同じ罪を犯す惨めな存在だということを、神さまはご存じであられました。

 けれども、イエスさまの御前に出て、イエスさまが十字架にかかって血の贖いを自分のために成し遂げてくださったことを信じるなら、その人は赤ん坊のようにまったく罪のない状態としていただけます。もちろん、わたしたちは一度そのように罪を赦していただいても、また何か別の罪を犯したことで、神さまの御前にやって来ます。そして神さまは心から悔い改めるなら、そのような罪をも必ず赦し、親が自分の子供のことを可愛がるように、教え助け導いてくださるのです。

 神さまの救いの計画と御業は完全にして完璧でした。そしてあとはイエス・キリストを自分の贖い主として信じるかどうか、この福音を多くの人に語り伝えるようにとの務めを託された以外には、それほど多くのことをわたしたち人間に厳しく押しつけてはおられない……といったように個人的には思います(もちろん、クリスチャンとして守るべきことというのはありますし、それを縛りと感じるか、喜びを持って行えるかというのはその方の選択にかかってくるかもしれません^^;)

 なんにしても、わたしがクリスチャンになる前そうだったように、「わたしはこれからこれをお捧げしますから、神さまはこれをこうしてください」といった祈り方は、失敗することのほうが多いと思います。イエスさまはもちろん、わたしたちの進んで捧げる捧げ物のことを喜んでくださいますけれども、それ以上になんでも無償でしてくださる方であり、もし本当に神さまがいるのなら、それこそが真実の神であり、「~~したら~~してくれる」といった取引的祈りというのはむしろ、サタン(悪魔)や悪霊といった存在こそが喜ぶ祈り方だといっていいと思うんですよね(何故なら、そこでつまずき、人が強い罪悪感に縛られたりといった、そうした状態を彼らは喜ぶというか、それが彼らにとってのご馳走なのです・笑)

 イエスさまはなんでも無償でしてくださる方であり、またダイエットのことでもなんでも、とにかくどんな小さなことでも祈り求めるなら、なんでも聞いてくださいます。自分の子供がクリスマスにヘリコプターのおもちゃが欲しいと言っているのに、代わりにジャポニカ学習帳を五冊くれた(※ただし、各家庭の事情による・笑)……という物の与え方をすることはないでしょうし、神さまもそれと同じで、与えられなかった場合にも何故そうなのかについて、祈りの中で聞いていくなら必ず答えてくださいます。

 ただ、祈っている時に自分が叶えて欲しい祈りのリストをひたすら並べていく……みたいな祈り方だと、聖霊さまを通して神さまが語ってくださっていても、「(自分が祈ること(しゃべること)に一生懸命で)実は聞いてない」ということがあるので、その点は注意が必要かもしれません。

 それではまた~!!





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