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むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。
(詩篇119編、第37節)
>>『ニューヨーカー』という雑誌の最近の記事によると、一般にアメリカ人の家庭には室内の配管設備よりも、テレビを備えている方が多いそうです。八人に一人の大人がテレビ中毒であると認めています。何百万の人たちが、ハリウッドの最近話題作から取り残されたくないため、ビデオまで買い揃えています。リクライニングチェアを立たなくても、リモートコントロールで、簡単に操作して、ビデオを楽しむこともできます。
音楽界もいろいろな方法を取り入れて、リズムや、歌詞で私たちの心に浸透してきました。レコードアルバムはカセットテープやCDに置き変わりました。またもっと時間のある人たちには、コンピューターゲームもあります。ある子供たちは任天堂ゲームをもっていかないなら、親戚のうちにも遊びに行きたがらないそうです。電化時代に備えられた娯楽は底知れないほどです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
さて、今回の第15章については、マーリンさんの本のほうを実際にお読みいただくことにして……マーリンさんの文章に関連したことについて何か書いてみたいと思いますm(_ _)m
第15章はタイトルが「電化時代の娯楽の誘惑」なのですが、マーリンさんがテレビに夢中だったように、わたしたちには何か「それ」に相応するものを必ずひとつは持っているものだ、というのはどなたにも御理解いただけることと思うんですよね。
つまり、わたしも当然テレビは毎日見ていますし、楽しみにしているドラマや毎週見ているバラエティ番組、あるいはパソコンに好きな映画をダウンロードして見たり……といったことは当たり前のようにしています
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マーリンさんはそうしたすべてについて禁止しようというのではなく、わたしたちが虚しい娯楽に囚われるあまり、イエスさまを中心にするのではなく、自己中心的な娯楽を中心にして生きることには危険が伴う、ということについて警告しておられるわけです。
パソコンに何か文字を打ち込んで検索する時のように、今自分の心の中で何を中心にして生活しているか、日々自分の心に問うことはとても重要だと思います。ノンクリスチャンの方は別かもしれませんが、クリスチャンの場合は「わたしはイエスさまよりも○△を中心にしており、そのことに夢中になっている」、「心の優先順位がイエスさまよりそのことが第1位に来ている」……といった場合、そこが<破れ口>となり、悪魔(サタン)や悪霊の侵入を許してしまうといった信仰的な問題が生じる場合があると思います。
>>世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。
しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(ヨハネの手紙第一、第2章15~17節)
何より、わたしたちがこの世のことに夢中になり、イエスさまのことを疎かにすることが敵(サタン)の目的なわけですから、むしろそのほうが毎日調子よく快適に過ごせる……ということは、時としてあるかもしれません。
ただし、問題はそのような状況が長く続くわけではなく、わたしたちは再び人生に深刻な問題が起きると「神さま、イエスさま、助けてください~!!
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けれども、こうしたわたしたちの肉にある弱さについては、イエスさまはわたしたちが悔い改めるなら何度でも赦してくださいますし、もし肉の弱さゆえに十度も二十度もそんなことを繰り返しては神さまに赦しを乞うた――といった場合、流石に二十一度目、あるいは三十一度目でも五十一度目でも百一度目でも千一度目でも構いませんが、その頃には自分の罪そのものを見ることすら飽き飽きして、イエスさまに完全に清めていただきたいという願いがさらに強くなり、最後にはそのような状態へと達することが出来るに違いありません。
>>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ人への手紙、第8章35、37~39節)
人が恐れや不安を覚えるものの種類、あるいは夢中になる快楽や娯楽はそれぞれ違うと思いますが、「何事も行き過ぎると毒になる」といった種類のことについては、多くの方が同意されることと思います。
たとえば、第15章のマーリンさんの文章との関連でいうと、ハリウッドへわたしは行ったことがありませんが(笑)、こうした映画産業に関わっている方の中にはかなりおかしい現象が表れることがあるらしい……というのは、噂として聞いたりしますよね(^^;)
ヨガや瞑想に懲りすぎるあまり、近ごろ某女優はちょっと言動のほうがおかしいが、師匠のヨギの影響があってそうなったらしいということや、別の女優さんは健康管理に神経質で、最近は昆虫まで食べるようになったらしい、別のある俳優さんは新興宗教に嵌まっていて、その教祖の影響で私生活のほうがクレイジーなようだ……などなど、真偽のほどはわかりませんが、一度望んでいた<成功>を手に入れてのち、「何かちょっとおかしくなった
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わたしたちの心の中にはぽっかり空虚な穴のようなものがあって、最初はそれを何かこの世的なもの――世間的な成功や地位、名声、あるいは幸福な結婚など――によって埋めようとします。また、それが手に入りさえすれば自分は必ず幸せになれる、逆にそれが手に入らない限りわたしは不幸で惨めなままだ……と考えたりします
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けれども、実際に自分の神である自己実現を果たしてのちも、埋められない領域が残った場合、そこを飲酒やコカインなどの薬物で埋めようとしたり、あるいはそれですらもあくまで「短い期間」でしかないことに絶望し、自殺してしまうことすらあると思います。
自分の心の中心には今何があるか――そのことを見失った場合、そこが<破れ口>となって、わたしたちの心の中は無防備に敵の攻撃と侵入をいくらでも許してしまうことがあります。けれども、主イエスは唯一、この<破れ口>に立って、あなたの傷を必ず塞いで癒してくださる方なのです。
これこそ、主イエスがこの世に来られた目的のひとつであり、誰も癒させない傷、誰も埋められない空虚な穴に手を触れ、この方がそこに霊的な力を送りこむことにより……空虚な心の穴は閉ざされ、わたしたちは日々この方から霊的な力を聖霊さまによって与えられ、霊が健全になれば、わたしたちの思考・精神・心・魂、あるいは体も、それに伴って健全になってゆくことが出来るのです。
そうなった時、過去に犯した自分の罪はただ恥でしかないと思い返し、そのような罪すべてを赦してくださる主イエスから、二度と離れたいとは誰も思わないことでしょう。
また、マーリンさんの文章との関連でいうと、やはりこれから先の時代、一番心配なのは子供たちのことだと思います。先日、今の子供たちはユーチューブなどで、一度も動画を見ない日というのはない……と聞いて、わたし的には結構驚きでした(^^;)
まあ、なんともおばはん☆的な言い方なのですが、今のお若い方はみんなそうなのだそうです。わたしがインターネットを始めた頃にも「ニコ中☆」といった言葉はありましたが、携帯などでずっとそのようにしているのが当たり前だったり、あるいは自分でも動画を作って配信したり――こうしたことは、基本的には悪いことではないですし、将来的に映像系の仕事をしたいと考えている方にとっても、練習といった意味も含め、制止することのほうがむしろ悪いというか、そうしたところがあると思います。
けれども、実際のところこのあたりは難しいですよね(^^;)
そうした形で自分の望まない写真や映像が残ってしまった、あるいはそのようなものを相手が所持しているのではないかと疑心暗鬼になったり、またそのことをいじめのネタとして使われたり……スマホ、あるいはパソコンさえあれば、「一生自分の部屋から出てこないで、そのまま好きなことだけしていたい」といったお子さんや、十代・二十代の方というのは実際多いのではないでしょうか。
そしてこうしたネット中毒のお子さんから、スマホやパソコンを取り上げたような場合――それがその後長く続く、家庭内暴力と家庭不和という名の地獄のはじまりだった……ということは、実はどの家庭でも起きうる可能性があると思うんですよね(^^;)
マーリンさんの『聖なる楽しみ』は、日本で発行されたのが1993年とのことですから、この頃はスマホというものがまだ登場してないですし、家庭内のパソコンの普及率も今ほどでなかったと記憶しているのですが、でも、マーリンさんのおっしゃりたいことのメッセージ性というのは、スマホやパソコンといったインターネットをも含んでいるといっていいと思うのです。。。
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そして、わたしが何より懸念しているのは、こうした電気信号が人間の脳に長期的にどのような影響を与えるのか、ということだったりします。わたしは結構大人のいい年になってからインターネットなるものをはじめたのですが、それでもこのインターネットの誘惑を退けるというのは容易ではありませんでした(^^;)
なので、小さい頃からもう手のひらにスマホがあるのが当たり前だったりしたら……それを手離しなさいと誰かに言われたりしたら、そんな相手のことはただ憎しみの対象としてしか見なくなるのではないでしょうか
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もちろん、スマホもパソコンも勉強で使う場合が多くあるでしょうし、そのあたりを主張されると、親御さんとしても当然スマホやパソコンを解禁しないわけにはいかないでしょうし、ラインやメールなどによって時に誰かを傷つけ、また自分も傷ついてネット上での人との距離の取り方を学んだり、こうした娯楽に一時期は夢中になったけれど、のちにはまったくくだらないことだった、時間を虚しく浪費しただけだったとのちには悟った……といったことがあると思うんですけど、でもそのことを学ぶために、「のちには虚しいものであると悟ったにせよ、その夢中になっている時にはそれがすごく楽しかったし、面白かった」という体験をある程度する必要がある――などなど、こと、このインターネットという分野に関しては、「そんなことよりイエスさまを中心にしたほうが真に幸福になれる早道だよ!」みたいに言っても、何故か説得力がないように自分としても感じます(^^;)
もちろん、インターネットはイエスさまの福音を伝える強力な武器ですので、その分野に関してはいくらでも用いていくことが神さまの御心なのですが、けれども同時に悪魔(サタン)もまたこのネットワークを通して人々の心を虚しいものに向けさせ、時間を無駄に使わせようとやっきになっていますから、こうしたことに関して人がいかに誘惑に弱いか……わたしも自分で反省することがよくあったりします。。。
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ではでは、次回は第16章「スポーツとフィットネスに夢中になる」より、さらに引き続き学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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