神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖なる楽しみ。-【15】-

2019年05月14日 | キリスト教


 私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

(ヘブル人への手紙、第12章1節)


 >>あなたは競争に突入しましたが、おそらくこの世の魅惑的な様々の誘惑のために、つまづいたり、競争の速度をおとしたりしたことでしょう。私自身も、常にこの世的なことに惑わされてきました。退職と休息という名目の影に隠れていたようなものでした。自分の人生の楽しみのために、神様のことを軽く見ていたのです。

 そんな私を神様は呼び起こしてくださました。この本に書いてきた私自身の体験がみなさんのお役に立つのでしたら、神様に賛美を捧げたいと思います。そしてあなたがまた競争に戻ることができるのなら、できるだけのことをしたいと思っています。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 マーリンさんもまた、こことは別の章でおっしゃっておられるように――わたしたちがイエス・キリストこそこの世の救い主であると信じ受け入れたそのあと、わたしたちのことを注意深く見続けるのは、実は神さま、主イエスだけではありません。

 わたしたちが神さま、主イエスに聖霊さまを通して祈り、聞き従い、さらにはマーリンさんの「感謝と賛美」のことを知り、いつでもあらゆることを神さまに感謝し、褒め称えるという生活をはじめると……なんだかこれで今後は自分の人生すべてが好転してうまくいくように感じます。

 だって、そうですよね。霊的な覆いがかかっているがゆえに、長くイエスさまのことを本当の意味では真実知ることが出来なかったのに、今やその真理に触れ、深く知ることが出来つつあるのですから――この方に祈り、聞き従ってさえいたら、今までの暗く重く沈んだ人生が百八十度きっと変わっていくに違いない……と思う初級クリスチャンの方は多いのではないでしょうか(わたしもそうでしたし、他の方の信仰の歩みのお証しなどを聞いていても、実際そうなのだと思います^^;)。

 けれども、イエスさまに対する信仰を持ちはじめたわたしたちのことを、サタン(悪魔・悪霊)といった存在も常につけ狙っており、わたしたちが「イエスさまのことを信じるに至る」までは、どうにかしてわたしたちがその真理を悟ることがないようあらゆる手を尽くし、今度はわたしたちがイエスさまを真実知ったとなると、どうにかその道から転ばせることは出来ないかと、あらゆる手段を尽くすのです。

 正直、わたしもまだ信仰的に初心(?笑)だった頃は、一応教会でそのようなことについて教えていただいたものの、「わたしはイエスさまを信じて救われたはずなのに、どうしてこんなことが起きるの?」と疑問に感じたことがありました。

 でも、今はもちろん敵(サタン)のやり口についてもある程度学び、こうした敵の勢力がどうにかして幅を利かせようとするのを阻みつつ、祈ったり、イエスさまに関する何かのことについて学びをする時間を持ったり……戦いが許されたとしても、「何故このようなことが起きるのか」=「むしろ神さまの御心が大きいからこそ、そのようなことが起きる」と理解しておりますので、必ずイエスさまが勝利を与えてくださると信じることが出来るのです!!

 そして、新約聖書の福音書を読みますと、イエスさまは宣教を開始される前にこの同じ悪魔(サタン)から試み(攻撃)を受けておられますし、わたしたちもまた弟子として、師であるイエスとまったく同じ道を通るといっていいと思います。

 もちろんイエスさまが、悪魔の試みに対して完全勝利されたようには、わたしたちはこのサタンと呼ばれる存在・勢力に打ち勝つということが出来ません。「肉的に弱い」、「肉の誘惑に弱い」と聞いて、「わたしもまったくそのとおりだ」とお答えになるクリスチャンの方はわたし含め、とても多いことと思います。

 たとえば、日曜日に礼拝を守らず、朝から晩までゲームをして過ごしたい……何故なら、自分には日曜しか自由になる時間がないから、クリスチャンでないこの世の人々ともつきあっていかなくてはならない都合上、日曜にはゴルフへもたまに出かけていかなきゃならない、祈ったり聖書を読んだりするよりも、生活するためにどうしても仕事や仕事にまつわる人間関係に時間を取られてしまう、などなど、「そのように理由をつけて真の信仰から遠ざかりたいのではなく、今はそれ以外他にどうにもしようがないのだ」ということは、おそらくたくさんあると思います。

 けれども、マーリンさんはこの章において、具体的・実際的にわたしたち生ぬるいクリスチャン生活を送っている人々に、そうした生活を変えるアドバイスをしてくださっています。


 >>聖霊様は、このような問題を引き起こす娯楽に夢中になるのをやめるよう私たちを導かれます。「情けない!どうして私は普通のクリスチャンになれないんだろう」と思うかもしれません。いかに早く霊的落ち込みを乗り越えるかはその時のあなたの状態にもよります。

 1.どの位その楽しみにのめり込んでしまいましたか。

 2.そこから解放されることをどの程度望んでいますか。

 3.神様が与えてくださる娯楽の方がサタンがもたらすものよりはるかに素晴らしいものであることをいかに早く学ぶかです。


 >>多くのクリスチャンは自分が誰であり、何になりたいか、あえて考えてみたことがありません。あなたは神様にかつて人生の計画などを話したことがあるでしょうか。もしなかったなら、今こそその時です。次の祈りのどちらかを選んでいただきたい。


 1.神様、私は人生を楽しく生きたいと思っていますから、余った時間を神様に捧げたいと思っています。

 2.父なる神様、私はこれからの人生全てを捧げたいと思っています。どうか私に最高の楽しみと幸福を下さい。


 もしあなたが、自分に都合のいいときだけ主に仕えたいなら、それを認めなければいけません。自分自身と神様に正直になり、こう言いなさい。「これが私の望んでいることです」しかし、境界線をはっきり引きなさい。自分の状態をよく知るためです。私たちの肉は、神様に真実を見せたくないかのように、神様にはっきりした態度を取ることをさけようとします。しかし、神様はもうすでに御存知で、真理を知らなければならないのは私たちの方です。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 そうなんですよね。わたしもまた、1の余った時間を捧げたいという生ぬるいクリスチャンであり、「これからの人生すべてを捧げたい」という信仰ではないような気がしています(^^;)

 いえ、そうしたいと思う願いはありつつも、「とはいってもね、神さま。わたしにはあーんなことやこーんなことがあって、なかなか難しいのです」、「そしてそのことは神さまもご存知のはずではあーりませんか」……と常に言い訳している霊的状態と言いますか。。。

 けれども、マーリンさんもおっしゃっている通り、「確かに自分はそのような霊的状態だ」と悟ることは大切なのだと思います。そして、マーリンさんはこうした霊的状態から目が覚めるための次のステップとして、次のように書かれています。


 >>この本の中か、または別の紙に鉛筆で「私は自由な時間を次のように使っています」と書いてください。


 1.

 2.

 3.


 次に、肉が普通私たちにさせようとすることを書きなさい。そのことに、毎日平均どのくらいの時間を費やしているか計算しなさい。新聞を読んだり、ニュースを聞いたり、家族や友達と電話で話したりする時間も計算に入れなさい。

 これらの時間と神様との交わりに使う時間を比べなさい。そして、「主よ。私はこれからも、これらのことをやめるつもりはありません」と言うか、「父なる神様、私が今までしたことを喜ばしく思っていません。これからはこのように生きていきたいと思っています」と言うかどちらかです。

 1.

 2.

 3.

 もしあなたが、神様に喜んで頂けるような時間の使い方をしていなかったなら、一生懸命変えるよう努力しなさい。今新しい目標を掲げたのですから、今までの生き方に捕われないようにしなさい。

 まず第一に、たった一つでもいいから、変えてみることです。その時間は神様に賛美を歌い、決して悲観的な思いに落ち込まないようにすることです。神様の子供で、天国に行けることを心から喜びなさい。あなたが、本当にその喜びに満たされたら、誰かとその喜びを分かち合うことです。

 そうすると、次のことに気がつくでしょう。「私の罪が赦されたため、何人の人が福音を聞くことになるでしょうか」そして、神様があなたにして下さったことをどれだけの情熱と熱意と決意をもって伝えられるか分かるはずです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 この1.2.3.に続く部分は本の中でも空欄になっていて、自分で埋めるようになっています。とりあえずわたし、この部分にどう書いていいのか今の段階ではわからないのですが(汗)、そのためのヒントについてもマーリンさんは書き記してくださっています。


 >>まず誰に伝えるか的をしぼりなさい。この段階ではどんなふうにするかあまり気にしなくてもよろしい。ただあなたは誰かをキリストに導き、神の民を力づけるために生きているということを再確認することです。

 それから、人をキリストに導くためのいろいろ新しい方法などを考えなさい。決して、あなたの計画を心の中であいまいにぼかしてしまうのではなく、神様がわたしたちにみことばでもって示してくださるように、あなたも神様に文字で表現してみてはどうでしょうか。

 あなたの計画と目標を紙に書き、よく見えるところにはりなさい。聖霊様は、この地上で、福音を伝えようとする者を誰でも助けてくださいます。神様のみこころを行うために、明確な目標を持った者を祝福してくださるのです。

 目標を紙に書くとき、ただ単に「私は一生神様に仕えます」と書くのではなく、何を、どのように、またいつするかなど具体的に書くことです。そして、その目標達成のために、一日何時間費やすかも決めなさい。それぞれの目標につき、「何を」「どのように」「誰を」「いつ」「どこで」とはっきりすることです。

 次に具体的な例を上げてみましょう。


 私のゴールは何か? (神様に仕えるため、魂と心を整える)

 どのようにするか? (みことばと祈りをもって)

 助け主は誰か?   (聖霊様にみことばの解釈を頼み、祈りを助けて頂き、聖書勉強会や祈り会に出席する)

 いつ行うか?    (毎朝みことばを学び、祈るために一時間早く起きる。聖書勉強会や祈祷会は水曜日の七時に行き、カレンダーに記入しておく)

 どこでやるか?   (机に向かって聖書を勉強し、祈る。そうすればベッドにもぐりこむことはない)

 もし目標達成が困難になってきたら、もう一度この質問を繰り返すことです。私が毎朝一時間祈りとみことばに専念することに支障をきたしたのはなぜか?(ただ疲れていたので朝起きられないだけである)、どうしたら解決できるか?(一時間早く寝れば、そんなに疲れないだろう)そしてもう一度、「何」「いかに」「誰」「どこで」のパターンを繰り返すことです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 ……いえ、忙しい生活の中で、一時間早く起きるなんて絶対不可能だという方も多いと思いますし、一時間早く起きても眠くて眠くて祈るどころじゃない……などなど、色々あるとは思います(^^;)

 でも、祈りの時間が取れない、聖書を読む時間がない――といった場合、まずはイエスさまに祈って聞くのが大切と思います。祈りの時間が取れないなら、祈りの時間を取るためにどのように生活習慣を変えたらいいのか祈りの中で聞き、最初は十分しか祈れなかったのを十五分、二十分、三十分、一時間……と伸ばしていけるようにしたらいいのです。聖書を読む時間、聖霊さまを通してイエスさまと交わる時間を確保することを自分の人生の中で一番大切なこととして位置づけるなら、そのことを常に意識し続けるなら、日常生活の中で必ず「何か」が変わっていくことと思います。

 もちろん、ここでマーリンさんの書かれていることは、それよりも信仰的にもっと進んだことです。イエスさまのことを宣べ伝える福音宣教のために、もっと具体的な目標を立て、「いつ」、「どこで」、「どのように」……といったように、この目標達成のために何をどうすべきかを具体的に決意・決定していくことを強く勧めておられます。

 わたしもまだ目標達成のために空欄をどう埋めたらいいのか迷い中ですが、マーリンさんがおっしゃっておられるように、まずは「何かひとつ変えてみる」ということが大切なのだと思います。そして、その後またもうひとつ「何か変えてみる」といったように進んでいくなら――最初はそれが亀の歩みのように思えても、とにかく右足→前、左足→前、サタンの攻撃を受けて十歩後退しちゃったけど、それでも右足→前、左足→前……と続けていくなら、必ず聖霊さまが助けてくださって、「苦労しているはずなのに、それをまったく苦と感じない」ですとか、むしろ自分を邪魔してきた人々が脇道へ逸れていなくなり、自分はそのまま快適な神さまの用意してくださった道を真っ直ぐに、それも絶えず喜びと感謝をもって進むことが出来た――といった信仰の奇蹟を体験していけるのではないでしょうか。


 >>これこそ、神様が祝福をもたらしてくださる方法です。あなたが変えられるために、神様と最初から最後まで協力しあうことができます。たとえ邪魔者がはいったとしても、ゴールを掲げていなさい。神様はどんな時でも助けてくださる方です。放蕩息子であってもあなたが正しい方向に前進していくなら、決して失望されることはありません。

 あなたが忍耐をもって耐えるとき、神様はあなたをこの世のしがらみから解き放してくださいます。そうして初めて、天国に用意された栄光ある褒美を勝ち取るためのレースを走ることができるのです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 もちろん、わたしたちがイエスさまのことを信じ、受け容れた時点で、わたしたちのあらゆる罪が赦され、天国へ行けることは保証されていますが、実はこれは、人生という名のマラソンレースにおける「参加賞」のようなものなのです。けれども、もしわたしたちが自分の生涯をかけて神さまの福音宣教のために、イエスさまのことを常に中心にして生きるなら……参加賞以上の大いなる報いが天には用意されている、そして、天国へわたしたちが行った時に「地上にいる間にもっと努力すべきだった」と後悔することがないよう、それでマーリンさんは御自身「厳しいことを言っている、書いている」と承知しつつ、このようにすべてのクリスチャンに勧めておられるのだと思います。

 ではでは、次回は第15章「電化時代の娯楽の誘惑」より、さらに引き続き学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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