【聖母子】フランシスコ・デ・スルバラン
>>愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
(コリント人への手紙第一、第13章4~6節)
>>互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
(コロサイ人への手紙、第3章13~14節)
ええと、何故か突然「愛について書きなさい」と主に言われた気がしたので、聞き違いのような気もしますけれども(笑)、なんとなくそうした記事を書いてみようと思いました♪(^^)
ここのブログはエ○バの証人の方やモ○モン教の教えとは一切何も関係ないのですが(汗)、上記の「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を……」という聖書の言葉を、わたしの母(※クリスチャンではありません)は職場のトイレのカレンダーで読んだことがあったそうです。
というのも、この職場の社長の奥さまがエ○バの証人の方だったからなんですね。でも、なんと言いますか……その奥さまという方が、普段はニコニコして感じがいいというか、愛想のいい感じの方だそうなんですけど、ちょっと心にチクリと刺すようなことを言う方だったらしく……母にしてみると、このカレンダーに書かれた言葉を読んでも――「ふう~ん。あっそう☆」といった感じだったそうです(笑)
ようするに、言葉自体は読んでとても素晴らしいと思うけれども、実際にこれを実践できていなければ、「ふう~ん。あっそう☆」で終わるということですよね(^^;)
以前、テレビでとある方が、長く夫婦生活を続ける秘訣はなんですか?と聞かれて、「許すこと。そして忘れること」とおっしゃっていたことがありました(ちなみに八十台くらいのおばあちゃんです)。
つまり、「わたしはあなたを許してあげるけど、わたしにしたことを忘れたりはしませんからね」ということだと、「本当に赦した」ということにはならないという、そうしたことらしく。。。
人と人の関係のみならず、>>「すべてを我慢し……」なんて言われても、物事には流石に限度がある、という側面もあると思うんですよね。でも、わたしもある時、特別それを何か「深い愛」だとか思ったわけでもなんでもなく、「人が自分の背中を踏んでいくにまかせた」――ということがあり、まあそれが「忍耐」ということなのかなと思ったことがありました。
なんていうか、それまでは、自分は性格的にも忍耐強いというかもともと我慢強いほうだと思うし、それでも我慢の閾値を越えることが起きた場合には、黙っていないで人間らしく怒ったりしたほうがいいのではあるまいか……と思っていたというか。
でも、それはあくまでも神さまの御心にそった我慢とか忍耐ということではなく、「人間的な考えで思考し結論した結果」といったようなことであり、神さま、イエスさまの愛というのは本当に無限であって限界はない……究極、信仰的に厳しいことを言ったとすれば、その主の愛にならうということが、神にある愛であり、真実の愛であり、それこそがアガペーの愛なのだ――といったように最近は思うようになってきたというか(^^;)
わたし自身は自分について、特別愛に深い人間だと思うことはなく(苦笑)、むしろ自分の性格を深く掘り下げてくと「冷たい嫌な奴☆」ではあるまいかとの思いがあるゆえに……その対極ともいえる場所にある神さまの愛、イエスさまの愛ということをいつでも意識する必要があるんだろうな……といったように思っているという感じかもしれません。。。
実際、わたしも母に対してチクリ☆と来るようなことを言ったことがあるし、わたしも母に同じようにされたことがあるし(笑)、相手が学校の友達、会社の同僚や上司、あるいは旦那さんや奥さんや子供……であったりと、なんかしら人とのつきあいの中ではそうしたことが起きうるということですよね(^^;)
それで、ちょっと時間が経った時に笑って許せることもあれば、「あの人の言ったあの言葉だけは許せない」とか「あれだけは絶対忘れない」とか、色々あると思います。
でも人間ある程度年齢が上へと上がっていき、人生で色々なことを経験していくうちに――次第に「これもいずれは過ぎ去る」ということを学んでいくものなのではないでしょうか。
わたし自身、「あれだけは忘れない」といったことも、やっぱり十年も経つと神さまの「赦しなさい」、「赦してあげなさい」というメッセージのほうが正しかったなと思うことのほうがほとんどですし、でもやっぱり人からこうした話を聞く分においては……間に「時間」というものをサンドイッチしてから赦すという方向へ行くということを感じるので、「そりゃああなた、赦さなきゃ駄目よー」とか、「神さまは愛なんだからー」とか、先に答えを言ったりするのは意味のないことだな~みたいのは、すごく感じます(^^;)
なんにしても、わたしが今持っている愛というのか、愛らしきもの……なんていうのも、本当にちっぽけなものですし、でも神さま、イエスさまを信じるという信仰を持つことのどこが素晴らしいかといえば――「わたしは愛すことは出来ないけれども、神さまには愛することが出来る」、「わたしは赦すことが出来なくても、イエスさまには赦すことが出来る」……それゆえに、ただひたすらに神さまの一方的な恵みによって、誰かを愛し赦すという道、そうした方向性を選び志向することが出来る……人間の力では到底不可能な力を、イエスさま御自身が与えてくださる――人間に不可能なことを可能にさせる聖霊の満たしというのは、本当にそういうことだなって日々そんなふうに感じています。。。
わたし自身は弱く、毎日「あれも出来ないなー、これも出来ないなー☆」とばかり思っているのですが、日々とにかく小さなことにも忠実にと思いつつ、いずれはもう少し神さまのお役に立てる者になれたらな~と願うばかりです
それではまた~!!
>>愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
(コリント人への手紙第一、第13章4~6節)
>>互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
(コロサイ人への手紙、第3章13~14節)
ええと、何故か突然「愛について書きなさい」と主に言われた気がしたので、聞き違いのような気もしますけれども(笑)、なんとなくそうした記事を書いてみようと思いました♪(^^)
ここのブログはエ○バの証人の方やモ○モン教の教えとは一切何も関係ないのですが(汗)、上記の「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を……」という聖書の言葉を、わたしの母(※クリスチャンではありません)は職場のトイレのカレンダーで読んだことがあったそうです。
というのも、この職場の社長の奥さまがエ○バの証人の方だったからなんですね。でも、なんと言いますか……その奥さまという方が、普段はニコニコして感じがいいというか、愛想のいい感じの方だそうなんですけど、ちょっと心にチクリと刺すようなことを言う方だったらしく……母にしてみると、このカレンダーに書かれた言葉を読んでも――「ふう~ん。あっそう☆」といった感じだったそうです(笑)
ようするに、言葉自体は読んでとても素晴らしいと思うけれども、実際にこれを実践できていなければ、「ふう~ん。あっそう☆」で終わるということですよね(^^;)
以前、テレビでとある方が、長く夫婦生活を続ける秘訣はなんですか?と聞かれて、「許すこと。そして忘れること」とおっしゃっていたことがありました(ちなみに八十台くらいのおばあちゃんです)。
つまり、「わたしはあなたを許してあげるけど、わたしにしたことを忘れたりはしませんからね」ということだと、「本当に赦した」ということにはならないという、そうしたことらしく。。。
人と人の関係のみならず、>>「すべてを我慢し……」なんて言われても、物事には流石に限度がある、という側面もあると思うんですよね。でも、わたしもある時、特別それを何か「深い愛」だとか思ったわけでもなんでもなく、「人が自分の背中を踏んでいくにまかせた」――ということがあり、まあそれが「忍耐」ということなのかなと思ったことがありました。
なんていうか、それまでは、自分は性格的にも忍耐強いというかもともと我慢強いほうだと思うし、それでも我慢の閾値を越えることが起きた場合には、黙っていないで人間らしく怒ったりしたほうがいいのではあるまいか……と思っていたというか。
でも、それはあくまでも神さまの御心にそった我慢とか忍耐ということではなく、「人間的な考えで思考し結論した結果」といったようなことであり、神さま、イエスさまの愛というのは本当に無限であって限界はない……究極、信仰的に厳しいことを言ったとすれば、その主の愛にならうということが、神にある愛であり、真実の愛であり、それこそがアガペーの愛なのだ――といったように最近は思うようになってきたというか(^^;)
わたし自身は自分について、特別愛に深い人間だと思うことはなく(苦笑)、むしろ自分の性格を深く掘り下げてくと「冷たい嫌な奴☆」ではあるまいかとの思いがあるゆえに……その対極ともいえる場所にある神さまの愛、イエスさまの愛ということをいつでも意識する必要があるんだろうな……といったように思っているという感じかもしれません。。。
実際、わたしも母に対してチクリ☆と来るようなことを言ったことがあるし、わたしも母に同じようにされたことがあるし(笑)、相手が学校の友達、会社の同僚や上司、あるいは旦那さんや奥さんや子供……であったりと、なんかしら人とのつきあいの中ではそうしたことが起きうるということですよね(^^;)
それで、ちょっと時間が経った時に笑って許せることもあれば、「あの人の言ったあの言葉だけは許せない」とか「あれだけは絶対忘れない」とか、色々あると思います。
でも人間ある程度年齢が上へと上がっていき、人生で色々なことを経験していくうちに――次第に「これもいずれは過ぎ去る」ということを学んでいくものなのではないでしょうか。
わたし自身、「あれだけは忘れない」といったことも、やっぱり十年も経つと神さまの「赦しなさい」、「赦してあげなさい」というメッセージのほうが正しかったなと思うことのほうがほとんどですし、でもやっぱり人からこうした話を聞く分においては……間に「時間」というものをサンドイッチしてから赦すという方向へ行くということを感じるので、「そりゃああなた、赦さなきゃ駄目よー」とか、「神さまは愛なんだからー」とか、先に答えを言ったりするのは意味のないことだな~みたいのは、すごく感じます(^^;)
なんにしても、わたしが今持っている愛というのか、愛らしきもの……なんていうのも、本当にちっぽけなものですし、でも神さま、イエスさまを信じるという信仰を持つことのどこが素晴らしいかといえば――「わたしは愛すことは出来ないけれども、神さまには愛することが出来る」、「わたしは赦すことが出来なくても、イエスさまには赦すことが出来る」……それゆえに、ただひたすらに神さまの一方的な恵みによって、誰かを愛し赦すという道、そうした方向性を選び志向することが出来る……人間の力では到底不可能な力を、イエスさま御自身が与えてくださる――人間に不可能なことを可能にさせる聖霊の満たしというのは、本当にそういうことだなって日々そんなふうに感じています。。。
わたし自身は弱く、毎日「あれも出来ないなー、これも出来ないなー☆」とばかり思っているのですが、日々とにかく小さなことにも忠実にと思いつつ、いずれはもう少し神さまのお役に立てる者になれたらな~と願うばかりです
それではまた~!!
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