【金の子牛の礼拝】ニコラ・プッサン
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
(イザヤ書、第44章9~20節)
日本人的に、「偶像」という言葉を聞いてもあまりピンと来ない気がするのですが、とても便利なウィキさんによると。。。
>>神の像や仏の像、およびそれを崇拝する行為を指すために使われている言葉である。
物としての偶像ではなく、それを崇拝する行為のほうに焦点を当てた用語として「偶像崇拝」がある。
また、そうした行為を非難する意味を込めて「偶像教」という用語が用いられることがある。
なお、この偶像idolが転じて、現代英語のidolの用法や、様々な経緯を経て現代日本語の「アイドル」の用法が生まれた。
(ウィキぺディアより☆)
あんまりわたし、ジャ○ーズ系のアイドルの方のファンになったりしたことがないので、「アイドル」と聞いてもむしろそういう意味でピンと来ないのですが(^^;)、たとえば昔であれば女優のマリリン・モンローさんとか、今もハリウッドの俳優さん・女優さんというのは、熱狂的な信奉者の方が多数おられると思います。
そうした形で誰か特定の人を個人崇拝することを聖書は禁じているわけではないと思うのですが、十戒の中に「神以外のものを拝んではならない」とあるとおり、その人にとってある特定の崇拝対象となっているものを神とすり替えて拝んではいけない……そうした神以外のものを拝むという偶像崇拝を神さまは禁じておられると思うんですね。
わたしも、自分がクリスチャンになるずっと前、お母さんがある宗教(仏教系)に入っていた友人が「本当は厳密にいうと鳥居をくぐってもいけないし、神社で参拝したりとかもダメらしいんだよね。よくわかんないけど」みたいに言ってたことがあって、「そんなの絶対変だ、そんな宗教の神さまは絶対本当の神さまなんかじゃない」と思ったものでした(何かと混同されがちだと思うのですが、神社=神道系なので、仏教とは違うんですよね)。
と、ところが……自分が一度クリスチャンになってみると、この概念が実によくわかるようになります(^^;)
イスラム教の方が他の宗教について奉った歴史的遺物を破壊しようとしたりとか、普通に考えたら「人類の遺産に何しやがる!この大馬鹿野郎の罰当たりめが!」と口角泡を飛ばして怒り狂うところですが、やっていることは間違っているにしても、キリスト教の立場から見た場合「偶像礼拝を厳しく禁じる」というその<概念>についてだけはよく理解できるというか。
わたし、イスラム教について全然詳しくないのでアレ(ドレ☆)なんですけど、イスラム教ではアッラーのみが唯一神ということですよね。つまり、アッラーだけを拝むべきであって、預言者のムハンマド(マホメット)は礼拝対象ではない、というか。アッラー以外のものを拝む=偶像礼拝なので、その神から言葉をいただいたムハンマドのことを拝んではいけない……なので、ムハンマドが礼拝対象になってはいけないということで、マホメットのところだけ顔に覆いがあったりとか、そうした絵画を本で見た記憶があります。
なんだかわかりにくいですが、マホメットさんというのは、神さまから言葉をいただいた偉い人でイスラム教徒は全員尊敬しているけれども、礼拝の対象として寺院で拝むのはアッラーという唯一神にであって、マホメットさんに対してではないわけです。
聖書にもたくさんの<預言者>と呼ばれる方が出てきますが、当然彼らはキリスト教徒にとって礼拝対象ではありません。それどころか天使すらも拝んではいけない、と書かれています。マホメットさんに神さまの言葉を伝えたのは天使ジブリール(ガブリエル)とのことですが、このジブリールですら礼拝対象としてはいけない……というくらい、イスラム教徒の方の偶像崇拝禁止という考えは徹底しているといっていいのではないでしょうか。
もちろん、こう書くとすぐ思いだされるのは、マリアさまの処女懐妊のことですよね(^^;)
マリアさまに聖霊による妊娠のことを伝えたのは大天使ガブリエルですし、イスラム教とキリスト教との間には思想として似通ったところがたくさんあるのではないかと思います。わたしもイスラム教について書かれた本を少し読んでみたのですが、ようするにマホメットさんがした経験というのは、旧約聖書の偉大な預言者であるエレミヤやイザヤが神さまから御言葉をいただいた経験と酷似している、とのことでした。
そしてキリスト教では、最後の預言者はイエスさまのために道備えをしたバプテスマのヨハネですから、イスラム教徒の方が「ムハンマドは最後の預言者」という、この最後のというところには、断然反感を覚えるわけです
わたしもコーランを全部読んでみた……とかいうわけではないのでなんとも言えないのですが、けれど、思想的にイスラム教とキリスト教の間には似通ったところがあり、キリスト教側にしてみれば、「おまえら、俺たちの宗教を盗んだだろう!」といったように感じられ、イスラム教徒側の方にしてみれば「何を言うか!そもそもおまえらが正しく神の言葉を実行しなかったから、偉大な神アッラーはムハンマドに天使ジブリールを遣わされたのだ!」ということなのかなと思います、たぶん(^^;)
まあ、この論争には出口もキリもないと思うので、今回のお題、「わたしの偶像」ということにお話を戻したいと思います。
神さまに導かれてイスラエル民族がエジプト脱出を経験したのち、一番最初に犯したもっとも大きな罪が、金の子牛を造って神さまの代わりに拝む……ということだったと思うんですよね。紅海が割れてその海底を渡るという奇跡的救出の御業を経験していながら、この真実の神をではなく、その御栄光をただの金の子牛に帰そうとしてしまったこと――これは神さまの目には赦すことの出来ない大きな罪過として映ったに違いありません。
そしてこの金の子牛を拝むということにはじまって、イスラエル民族はバビロン捕囚という国の崩壊を経験するに至るまでずっと……この偶像礼拝の罪を完全に断ち切って離れるということがありませんでした。そのくらい偶像というのは大きな魅力があり、また力を持っているだけでなく、そうと知っている悪魔・悪霊的存在がそこに働いて真の神から離れさせる――ということがあると思うのですが、この悪魔とか悪霊に対する考え方なども、キリスト教とイスラム教では結構似通ったところがあるな……と思ったりします(また、仏教でもこの悪魔とか悪霊といったことに言及があるというのは非常に興味深いことだと思います)
それはさておき、前置きが長くなりましたが(汗)、タイトルが「わたしの偶像」ということは、わたしにも偶像というか、それらしきものがあるということだったりします。もちろんわたしは普段、イエスさま以外のもの、キリスト教の三位一体以外の神さまを拝むことなどは「とんでもない!」と思っていますし、クリスチャンになる前まではあんなに好きだった多神教を奉った寺院をいつか参拝したいなあ……などという考えも、今ではまったくありません。
鳥居をくぐったり神社のそばへ行くことにも抵抗がありますし、仏壇や神棚にも手を合わせて拝むことは一切しません(あ、でも昔、この世的なつきあいとして、そうせざるを得なかったことがあり、でもその時にも心の中で「神さま、赦してください」と必死にお祈りしてました^^;)。
つまり、そうした意味での<偶像>ということではなくて、たとえば、経済的なことでいえば神さまのことではなくて自分の預金通帳を拝むとか(笑)、神さま以外のものを第一として信頼する……ということは、意外に結構あったりするんですよね。
それでも究極的に追いつめられた時に真に信頼するのはイエスさま、神さまおひとりきりであり、そうした時に自分がいかに人間的なものを頼みとして、実は神さまに信頼していなかったか……ということを思い知らされたりするわけです。たとえば、人間的に考えた場合そう選択するのが普通だ、と思える場合でも、神さまのお考えというのはしばしば違ったりするものですから、自分の欲望を優先しようとするあまり、そのあたりを聞き間違って失敗する=神さまの御声に聞き従えない……ということは、これまで何度もあった気がします。
>>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
(ローマ人への手紙、第8章35節)
わたしも自身に苦しみをもたすらものを恐れるあまり、イエスさま、神さま以外のものに保険をかけてそちらをがっちり握って離さない、そしてそうすることで神さまのことを実は第一にしていない……ということは、これまで何度となくあった気がします。
ようするに、場合にもよると思うのですが、神さまはわたしたちがしっかりと握って離さないそうしたものを手放してからわたしに仕えよ、と言っておられるということなんですよね。たとえとして言うなら、預金通帳に三千万円溜まって生活に心配がなくなったら神さまのことにもっと熱心になります――というのではなく、とにかく「今」なんですよね。神さまが求めておられるのは、「今」自分の御前に道を正しくして仕えようとする者を求めておられるということなのだと思います。
そして、その「たった今」、状態が何も整ってなくていいのです。「わたしがもっと立派な人間になったら神さまにお仕えします」というのではなく、「Just Now」(笑)、たった今、「これからは神さまを信じてやっていきたいです」と信仰告白し、イエスさま、神さま御自身のことを真実求めようとする人に神さまはとても恵み深くしてくださるのです。
これはわたしだけでなく、他の多くの方もおっしゃっていることですが、経済に関することでは特に、神さまはギリギリのところで支えてくださることが多いと思うんですよね。これは何も神さまが意地悪をしているということではなく、のちにわたしたちが振り返って「あれはわたしが自分の力でやった」と勘違いしたりすることがないためといっていいかもしれません(^^;)
実際、わたしもそのような形で経済が支えられたり、他の助けを神さまから得ることで、今振り返ってみても「どんなにどうしようもない駄目な状態でも、神さまに祈り縋ったからこそ、最後には助けられたのだ」と思うことが数え切れないくらいたくさんあります。
もちろん、天国という場所では預金通帳なぞ必要ないでしょうけれども(笑)、わたし自身はそれに似たものはあるのではないかという気がしています。何時何分何秒にわたしがどのくらい祈ったかとか、そうしたことについて神さまはすべてご存じなのでしょうし、天国のような場所で真に値打ちのある、価値があるのはそうした種類の預金通帳なのではないでしょうか。
なんにしても、わたしたちが限定された力しかない偶像を手放す時にこそ、神さまはわたしたちに無限にすべてを与えてくださる=また、そう出来るまでは主の聖霊さまを通した整えの御手により、わたしたちに必要な分だけの恵みを与えつつ、また一方で信仰を建て上げてくださる……もっともその間、出エジプト後のイスラエルの民と同じようにわたしたちのほうでは「神さま、なんで」と不信仰になったりもするのですが、結局のところ神さまに最後まで聞き従ってみると、神さまがその時々でなされた判断というのは実に適切だったということがわかるのでした。
少なくともわたしはそうでしたし、途中の過程では「どうして神さまは~~してくださらないのだろう」と思ったことも、結局は神さまの判断のほうが正しかったということが何度となくありました。ただ、わたしのほうではこの場合自分のほうが正しいと思っていたりするので、その後三日くらい祈らないとか、そんなふうになったりもしたのですが、今では神さまのほうが正しかったのに、自分は自分の欲望に目がくらむあまり、そんなこともわからなかったのだ……とそう思っています(^^;)
それではまた~!!
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
(イザヤ書、第44章9~20節)
日本人的に、「偶像」という言葉を聞いてもあまりピンと来ない気がするのですが、とても便利なウィキさんによると。。。
>>神の像や仏の像、およびそれを崇拝する行為を指すために使われている言葉である。
物としての偶像ではなく、それを崇拝する行為のほうに焦点を当てた用語として「偶像崇拝」がある。
また、そうした行為を非難する意味を込めて「偶像教」という用語が用いられることがある。
なお、この偶像idolが転じて、現代英語のidolの用法や、様々な経緯を経て現代日本語の「アイドル」の用法が生まれた。
(ウィキぺディアより☆)
あんまりわたし、ジャ○ーズ系のアイドルの方のファンになったりしたことがないので、「アイドル」と聞いてもむしろそういう意味でピンと来ないのですが(^^;)、たとえば昔であれば女優のマリリン・モンローさんとか、今もハリウッドの俳優さん・女優さんというのは、熱狂的な信奉者の方が多数おられると思います。
そうした形で誰か特定の人を個人崇拝することを聖書は禁じているわけではないと思うのですが、十戒の中に「神以外のものを拝んではならない」とあるとおり、その人にとってある特定の崇拝対象となっているものを神とすり替えて拝んではいけない……そうした神以外のものを拝むという偶像崇拝を神さまは禁じておられると思うんですね。
わたしも、自分がクリスチャンになるずっと前、お母さんがある宗教(仏教系)に入っていた友人が「本当は厳密にいうと鳥居をくぐってもいけないし、神社で参拝したりとかもダメらしいんだよね。よくわかんないけど」みたいに言ってたことがあって、「そんなの絶対変だ、そんな宗教の神さまは絶対本当の神さまなんかじゃない」と思ったものでした(何かと混同されがちだと思うのですが、神社=神道系なので、仏教とは違うんですよね)。
と、ところが……自分が一度クリスチャンになってみると、この概念が実によくわかるようになります(^^;)
イスラム教の方が他の宗教について奉った歴史的遺物を破壊しようとしたりとか、普通に考えたら「人類の遺産に何しやがる!この大馬鹿野郎の罰当たりめが!」と口角泡を飛ばして怒り狂うところですが、やっていることは間違っているにしても、キリスト教の立場から見た場合「偶像礼拝を厳しく禁じる」というその<概念>についてだけはよく理解できるというか。
わたし、イスラム教について全然詳しくないのでアレ(ドレ☆)なんですけど、イスラム教ではアッラーのみが唯一神ということですよね。つまり、アッラーだけを拝むべきであって、預言者のムハンマド(マホメット)は礼拝対象ではない、というか。アッラー以外のものを拝む=偶像礼拝なので、その神から言葉をいただいたムハンマドのことを拝んではいけない……なので、ムハンマドが礼拝対象になってはいけないということで、マホメットのところだけ顔に覆いがあったりとか、そうした絵画を本で見た記憶があります。
なんだかわかりにくいですが、マホメットさんというのは、神さまから言葉をいただいた偉い人でイスラム教徒は全員尊敬しているけれども、礼拝の対象として寺院で拝むのはアッラーという唯一神にであって、マホメットさんに対してではないわけです。
聖書にもたくさんの<預言者>と呼ばれる方が出てきますが、当然彼らはキリスト教徒にとって礼拝対象ではありません。それどころか天使すらも拝んではいけない、と書かれています。マホメットさんに神さまの言葉を伝えたのは天使ジブリール(ガブリエル)とのことですが、このジブリールですら礼拝対象としてはいけない……というくらい、イスラム教徒の方の偶像崇拝禁止という考えは徹底しているといっていいのではないでしょうか。
もちろん、こう書くとすぐ思いだされるのは、マリアさまの処女懐妊のことですよね(^^;)
マリアさまに聖霊による妊娠のことを伝えたのは大天使ガブリエルですし、イスラム教とキリスト教との間には思想として似通ったところがたくさんあるのではないかと思います。わたしもイスラム教について書かれた本を少し読んでみたのですが、ようするにマホメットさんがした経験というのは、旧約聖書の偉大な預言者であるエレミヤやイザヤが神さまから御言葉をいただいた経験と酷似している、とのことでした。
そしてキリスト教では、最後の預言者はイエスさまのために道備えをしたバプテスマのヨハネですから、イスラム教徒の方が「ムハンマドは最後の預言者」という、この最後のというところには、断然反感を覚えるわけです
わたしもコーランを全部読んでみた……とかいうわけではないのでなんとも言えないのですが、けれど、思想的にイスラム教とキリスト教の間には似通ったところがあり、キリスト教側にしてみれば、「おまえら、俺たちの宗教を盗んだだろう!」といったように感じられ、イスラム教徒側の方にしてみれば「何を言うか!そもそもおまえらが正しく神の言葉を実行しなかったから、偉大な神アッラーはムハンマドに天使ジブリールを遣わされたのだ!」ということなのかなと思います、たぶん(^^;)
まあ、この論争には出口もキリもないと思うので、今回のお題、「わたしの偶像」ということにお話を戻したいと思います。
神さまに導かれてイスラエル民族がエジプト脱出を経験したのち、一番最初に犯したもっとも大きな罪が、金の子牛を造って神さまの代わりに拝む……ということだったと思うんですよね。紅海が割れてその海底を渡るという奇跡的救出の御業を経験していながら、この真実の神をではなく、その御栄光をただの金の子牛に帰そうとしてしまったこと――これは神さまの目には赦すことの出来ない大きな罪過として映ったに違いありません。
そしてこの金の子牛を拝むということにはじまって、イスラエル民族はバビロン捕囚という国の崩壊を経験するに至るまでずっと……この偶像礼拝の罪を完全に断ち切って離れるということがありませんでした。そのくらい偶像というのは大きな魅力があり、また力を持っているだけでなく、そうと知っている悪魔・悪霊的存在がそこに働いて真の神から離れさせる――ということがあると思うのですが、この悪魔とか悪霊に対する考え方なども、キリスト教とイスラム教では結構似通ったところがあるな……と思ったりします(また、仏教でもこの悪魔とか悪霊といったことに言及があるというのは非常に興味深いことだと思います)
それはさておき、前置きが長くなりましたが(汗)、タイトルが「わたしの偶像」ということは、わたしにも偶像というか、それらしきものがあるということだったりします。もちろんわたしは普段、イエスさま以外のもの、キリスト教の三位一体以外の神さまを拝むことなどは「とんでもない!」と思っていますし、クリスチャンになる前まではあんなに好きだった多神教を奉った寺院をいつか参拝したいなあ……などという考えも、今ではまったくありません。
鳥居をくぐったり神社のそばへ行くことにも抵抗がありますし、仏壇や神棚にも手を合わせて拝むことは一切しません(あ、でも昔、この世的なつきあいとして、そうせざるを得なかったことがあり、でもその時にも心の中で「神さま、赦してください」と必死にお祈りしてました^^;)。
つまり、そうした意味での<偶像>ということではなくて、たとえば、経済的なことでいえば神さまのことではなくて自分の預金通帳を拝むとか(笑)、神さま以外のものを第一として信頼する……ということは、意外に結構あったりするんですよね。
それでも究極的に追いつめられた時に真に信頼するのはイエスさま、神さまおひとりきりであり、そうした時に自分がいかに人間的なものを頼みとして、実は神さまに信頼していなかったか……ということを思い知らされたりするわけです。たとえば、人間的に考えた場合そう選択するのが普通だ、と思える場合でも、神さまのお考えというのはしばしば違ったりするものですから、自分の欲望を優先しようとするあまり、そのあたりを聞き間違って失敗する=神さまの御声に聞き従えない……ということは、これまで何度もあった気がします。
>>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
(ローマ人への手紙、第8章35節)
わたしも自身に苦しみをもたすらものを恐れるあまり、イエスさま、神さま以外のものに保険をかけてそちらをがっちり握って離さない、そしてそうすることで神さまのことを実は第一にしていない……ということは、これまで何度となくあった気がします。
ようするに、場合にもよると思うのですが、神さまはわたしたちがしっかりと握って離さないそうしたものを手放してからわたしに仕えよ、と言っておられるということなんですよね。たとえとして言うなら、預金通帳に三千万円溜まって生活に心配がなくなったら神さまのことにもっと熱心になります――というのではなく、とにかく「今」なんですよね。神さまが求めておられるのは、「今」自分の御前に道を正しくして仕えようとする者を求めておられるということなのだと思います。
そして、その「たった今」、状態が何も整ってなくていいのです。「わたしがもっと立派な人間になったら神さまにお仕えします」というのではなく、「Just Now」(笑)、たった今、「これからは神さまを信じてやっていきたいです」と信仰告白し、イエスさま、神さま御自身のことを真実求めようとする人に神さまはとても恵み深くしてくださるのです。
これはわたしだけでなく、他の多くの方もおっしゃっていることですが、経済に関することでは特に、神さまはギリギリのところで支えてくださることが多いと思うんですよね。これは何も神さまが意地悪をしているということではなく、のちにわたしたちが振り返って「あれはわたしが自分の力でやった」と勘違いしたりすることがないためといっていいかもしれません(^^;)
実際、わたしもそのような形で経済が支えられたり、他の助けを神さまから得ることで、今振り返ってみても「どんなにどうしようもない駄目な状態でも、神さまに祈り縋ったからこそ、最後には助けられたのだ」と思うことが数え切れないくらいたくさんあります。
もちろん、天国という場所では預金通帳なぞ必要ないでしょうけれども(笑)、わたし自身はそれに似たものはあるのではないかという気がしています。何時何分何秒にわたしがどのくらい祈ったかとか、そうしたことについて神さまはすべてご存じなのでしょうし、天国のような場所で真に値打ちのある、価値があるのはそうした種類の預金通帳なのではないでしょうか。
なんにしても、わたしたちが限定された力しかない偶像を手放す時にこそ、神さまはわたしたちに無限にすべてを与えてくださる=また、そう出来るまでは主の聖霊さまを通した整えの御手により、わたしたちに必要な分だけの恵みを与えつつ、また一方で信仰を建て上げてくださる……もっともその間、出エジプト後のイスラエルの民と同じようにわたしたちのほうでは「神さま、なんで」と不信仰になったりもするのですが、結局のところ神さまに最後まで聞き従ってみると、神さまがその時々でなされた判断というのは実に適切だったということがわかるのでした。
少なくともわたしはそうでしたし、途中の過程では「どうして神さまは~~してくださらないのだろう」と思ったことも、結局は神さまの判断のほうが正しかったということが何度となくありました。ただ、わたしのほうではこの場合自分のほうが正しいと思っていたりするので、その後三日くらい祈らないとか、そんなふうになったりもしたのですが、今では神さまのほうが正しかったのに、自分は自分の欲望に目がくらむあまり、そんなこともわからなかったのだ……とそう思っています(^^;)
それではまた~!!
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