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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人にはその人なりの地獄がある。

2023年10月24日 | キリスト教
【キリストの地獄への降下】ヒエロニムス・ボス

 先日ふと、ある方の話を聞いていて、連想的に「大して親しくもない人に、自分の地獄を見せたりそのことで相談したって仕方ない」みたいに、とある作家の方が本に書いていた言葉を思いだしました。言葉としてはちょっと違うんですけど、意味としては大体のところそんなような感じだったと思います

 まあ、確かにそりゃそうだなっていう話ですよね。ちょっといくつか下の記事を書いていて、このことも連想的に思いだしたんですけど……「四時間パートの地獄」っていうのが、この世にはあるんじゃないかなと思ったり。。。

 いえ、わたしその時、自殺未遂っぽいことをしたあとだったので、最初はあえて短い時間だけ働こうと思って、そこのデパートで五時間くらいパートで働くことにしたんですよ。だから、相当昔の話とはいえ、でも発注業務とかレジ業務とか、商品の品出しとか、仕事内容に関しては、今もそんなに変わってないと思うわけです。ついでにいうと、わたしの印象では、他のデパート系の場所は大体、バックヤードにおける人間関係の雰囲気や食堂や休憩室、ロッカーでの雰囲気その他、大体同じと思います。

 あとは、これがスーパーでもコンビニでも、結構似通ってくることから……そのあたりにおける「働く苦労」がわかると、まあ、よっぽど相手の接客態度が悪くでもない限り、本当に大変だなあっていう、労働に対する感謝の気持ちみたいなものさえ生まれるというか。

 わたしはそこの本屋さん(テナントではない)で五時間働いてたんですけど、まあ微妙な時間です(笑)。何が微妙かというと、わたし自身の希望としては、五時間ぶっ続けで働いて帰りたかったわけですけど、どうしても間に一時間休んでください、お昼休憩取ってくださいっていうことだったんですよね。今にしてみると、同じフロアに仲良くしてくださる方などもいて、割と恵まれていた……ように思ったりもします。同じくらいの年の若い方で、正社員の口が見つからないので、七時間パート勤務してる方もいたんですけど、やっぱりそれ以上に圧倒的に多いのが、わたしと同じく四~六時間働くいわゆる「パートのおばさん」です。

 それで、これは今もそうだと思うし、今はすでにわたしもこの「パートのおばさん」の中に入る年齢なわけですけど、それはさておき、こちらの「パートのおばさん」のその頃の働く事情も今もそんなに変わらないと思うんですよね。つまり、朝起きて家族にごはんを作って送り出す、自分もパートに出るための仕度をする、社会的には「たったの四時間のパートでしょ」的扱いを受けるにも関わらず、その四時間の間みっちりこってり雑巾でもギュッと絞る時のように働かされ、さらにはそこに何やら面倒な、同じ「パートおばさん」仲間の人間関係までくっついてくるという、例のアレです。

 となると、ちょっとした休憩時間やロッカーでいる時などに、気の合う人と話すことといえば、自分の家庭の愚痴や仕事の不満、職場の誰かの悪口などに終始する……ということになったりしますよね。このパターンは、デパートとかスーパーじゃなくても、工場系のパートなどでも、わたしの知る限りどこも同じなんじゃないかな~ということを、ついこの間ふと思い出したわけです。

 その方は、息子さんが中学三年生で、不登校気味で、現在はフリースクールに通っているということでした。それで、進学についてどうするのか……ということをずっと心配していたところ、本人が自分の希望をしゃべったということなんですよね。つまり、自分は普通に高校通ったりするのは無理だから、定時制がいいと。そういうことをネットで調べたりして、こういう高校がいいとか、本人がすでに決めたことを一通り聞かされて、その時点で相当がっくり来た、ということでした。

 わたし自身は不登校肯定派で、心の中で「息子さんは偉いね。自分でそこまで調べて、お母さんに一生懸命説明したんだ。それだけでも物凄い勇気だよ」と思っていても、そんなことは絶対言いません。なんでかっていうと、お母さん視点で見た場合と、息子さん視点で見た場合と、頷いたり、同調して欲しい場所が全然違うって、説明されなくても誰でもわかることだと思うからなんですよね。

 その方にしても何も話相手に、何かご立派な正論を語られたいわけでもないんだし、一番いいのは「ここで頷いて欲しい」とか「同調して欲しい」っていうところで頷いたり、「そうだよねえ」みたいに同調して話を聞いて欲しいというそれだけなわけです。

 それで、なんでがっくり来たかも、一般的な理由としてはよくわかりますよね。他にも、「フリースクールなんて言っても、あんなところに行ってなんになるんだか」ともおっしゃっていたと思います。わたし自身は家にずっといるんだらったら、フリースクールでも、そこに興味を持てることや楽しい人間関係があるとしたら、それが一番いいと思うわけですけど、それも言いません。かといって、ここは「そうだよね」とか、頷きませんでしたけど、まああくまでも軽~く、「友達がいたら、そこがどこでもいいんじゃない?」みたいな言い方はしました。

 また、彼女の苦労はそれだけじゃないんですよね。パートをふたつ掛け持ちしてて、それぞれ短時間だったりするんですけど、それでも大変なことは物凄くよく理解できます。彼女にはもうひとり、上に娘さんがいるんですけど、高校時代からつきあってる人がいて、一度別れたとか言ってたのに復縁して、高校を卒業したら、家を出て働きながら同棲する予定でいるという話。さらに、このことで父親と娘さんが大喧嘩し、今は口も聞かない関係で、家庭内の空気も良くない。息子さんは家にいることが多くて、フリースクールへ行ってる以外は何をしてるかというと、ずっとゲームばっかりしてる。とはいえ、お父さんのことが怖いので、お父さんが仕事から帰ってくるとピタリとゲームをやめ、自分の部屋に引きこもる……といったようなことでした。

 いえ、わたしこれに類する話であれば、百も二百もというのは大袈裟でも、三十か四十くらいはあらゆる形で聞いてきた気がします。それで、彼女曰く、「家族の中でこんなに大変なわたしのことを、誰もわかってくれない。家事ひとつ手伝ってくれるでもないし、夫も何もしてくれない。生きててなんにも楽しくない。こんな生活が今後も続くと思うとうんざりする。わたしは一体なんのために生きてるんだろうか……」といったような話だったわけです。

 この話を聞いて、他の「四時間パートしてる」勢のおばさんたちがどうおっしゃるかと言えば……まあ、大体決まってますよね。自分のうちだって息子があーでこーで、娘があーでそーだ……家事だって誰も手伝ってくれないし、あいつらは親の有難みってものをさっぱりわかってないとか、みんなでブーブー言ってすっきりして、話のほうは終わるというか。

 それで、この部分はその人それぞれで「感じ取る」しかないことだと思うんですよね。実際のところ、旦那さんの不満を数限りなく並べながらも、その旦那さんがいなくて(この場合はそうした夫源病というストレスがないの意味)、シングルマザーの女性がお子さんをふたり育てるとなると、そこの「四時間パート」に来るまで、他に市場で朝の四時から八時まで働いているとか、毎日深夜帯で働く他に日中も働いている方がいたりと……流石にここまでお母さんがひとりで苦労してると、子供さんのほうでも「うちはごはん作って待っててくれる」とか、「家事くらいは流石に手伝ってくれる」っていう話がポツポツ出てきたり。。。

 大体のところ「四時間パート」勢のおばさんの中に、家庭にもどこにもストレスなどなく、毎日ハッピーです……っていう話はあんまし聞いたことないというか。ただ、今の若い方はそうした幸福でないお母さんの姿を見て、「自分はああだけはなりたくない」と思っていたり、すごく難しい問題だなって思ったりもします。

 それで、今回のタイトルは「人にはその人なりの地獄がある」というものなんですけど、わたし自身はそうすぐにパッと福音を熱心に語ったり出来ないダメ信徒なので、「そんな地獄よりも、死後の地獄をこそ恐れよ!!」とか、「イエスさまを信じれば、心に安らぎが……」とか、順にわかりやすく説明出来るといいのですが、やはりなかなか難しく。。。

 そうした事柄ひとつひとつについても、マーリン・キャロザース先生の「どんなことも神さまに感謝し、賛美する」時、すべては益に変えられていく……というのは本当のことであるとはいえ、かといって、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受け、マーリン・キャロザース先生の「良いことも悪いこともすべてを神さまに感謝する」ことを実践したその日から、突然急に家族が自分に理解を示してくれ、優しくなった――というよりも、たぶん最初に経験するのは自分の心の変化のほうではないかという気がしたり。

 つまり、わたしたちの人生上の問題というのはクリスチャンの方に関する限り、イエスさまの十字架の下に持っていき、心を注ぎだして祈った時のみ、その問題に光が当てられて、何がしかの変化を受けることが出来るものだと思うんですけど……心の奥底の闇の泥沼部分に問題を転がしておいて、「おまえが気に入らない」と言って殴ったり蹴ったりしていても、何も変わることはないと思うわけです。

 それよりもまず、そのタールのような泥沼から問題を引きずり出してきて、イエスさまの十字架の下にまで持っていく。もし、自分の世間体が悪く恥ずかしい問題を光にさらすのが、人前だったらそれは誰でも気が進まないでしょうけれども、何分相手は神さまですから、唯一神さまの御前であれば、祈りの中でなんでも本当のことをありのまま、そのまま語ることが出来ると思うんですよね。

 最近の記事で引きこもりのことを書いたんですけど、「息子の引きこもりのことで感謝します」とか、正直そんなふうに言われると最初にくるのはイラつくとかムカつくとか、なんでわたしがここまでのことをしなきゃなんないのよとか、そんな感じと思い、わたしもそれは流石に書けませんでした。。。

 他にも、ストレス解消のために人の悪口を言うといった習慣も、それがなくなったら家庭や仕事のストレスで頭がおかしくなってしまう……という方が、わたしのまわりでも大半の方がそうです。ゆえに、こうした事柄について、最初から「何もかもすべて感謝する」のがもし無理だったとしたら、「問題を真正面から見た時には感謝できないけれども、横や斜めから見たら、こうしたところだけは感謝できる」とか、そうした部分から少しずつはじめてみる、とか。


 >>あらゆる試みの中で神のみ手を見ることができるように、神からの恵みを叫び求めよ。また、直ちにみ手にゆだねることのできるように恵みを叫び求めよ。ゆだねることのみならず、それに黙って従うこと、それを喜ぶこと……そこまで来る時、おおむね問題は終わりにきていると私は思う。

(チャールズ・H・スポルジョン)


 >>恵みは何もない空間を埋めるが、受け取れる隙間がある場合しか恵みは入れない。そしてその空間を作るのは恵みそのものである。

(シモーヌ・ヴェイユ)


 それではまた~!!






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