神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

二十五歳という分水嶺。

2023年09月20日 | キリスト教
 2つくらい続けて引きこもりに関するようなことを書いたんですけど……つい先日もラジオで、ある新聞の記事が紹介されてました。それで、その中に「自動車教習所に通うのが怖い」というのがあったんですよね。

 割とわたし、「今どきの若者の傾向」的なことで、「羨ましい」と思うことがいくつかあって(笑)。たとえば、これもついこの間聞いたばっかりなんですけど、「(仕事の合間の)昼休み時間、誰と過ごしたいですか?」というので、今は「ひとりで過ごしたい」という方が61%くらいだという話

 いえ、わたしが社会人と呼ばれるようになった時、実はわたし、これ毎日思ってました。同僚というか、そうした方が嫌な人とか気が合わないというのでもなくて、9時5時で時間拘束されて、5時で仕事終わるわけでもないんだから、昼休みの一時間くらい、ひとりで自由に過ごしたいな~なんて。。。

 でもやっぱり、雰囲気的にそういうわけにもいかないんですよね。その後、アルバイトやパートでどこかで働いた時も、「仲間に入れてあげるからね!」というか、そうした優しい気遣いがあったりして、「いや、わたしひとりでも平気なんで」とは言えない雰囲気というか。

 相手の善意がわかればこそ、「有難い」と思って一緒にごはん食べたりするわけなんですけど、時と場合によっては苦痛だな~という気持ちもわかるなあ、と思ったり。もちろん、今はSNSを昼休みにチェックしたりとか、そのあたりのことも関係して、昼休みはスマホを見てリラックスしたいとか、そうした部分も大きくなって来てるのかもしれません。

 なので、今は「むしろ『ひとりで過ごしたい』っていう人に対して、無理に『一緒にごはん食べない?』って言うのもどうなのかなって時代なのかもしれないですね」という話でした。

 それで、自動車教習所のお話。わたし、高校卒業するかしないかの頃に友達数人と同じ教習所に通ってたせいか、意外に恐怖心はなかったんですよね。というか、授業受ける部分はコマ数として時間決まってて、もう忘れちゃったんですけど、3~4か月くらい、その面倒くささやかったるさに耐えれば、免許が取れる……とか思ってたので、どんなに嫌なことが仮にあったとしても、それは短期間でそんなに長く続くわけではないと思ったというか。

 まあ、その時はとりあえず、特に自動車教習所で嫌なことも起こらず、やっぱり自動車免許っていうのは持ってると何かと便利だなと思います。でも、今はわかるんですよね。「怖くて教習所に通えない」という方の気持ちが……何故かというと、その時からすでに心身症の症状はあったにしても、むしろ今のほうが重くなってるくらいなので、教習所でもなんでも、3~4か月ある程度の時間拘束されるというだけで、わたし自身は絶対無理です(^^;)

 それで、引きこもりの方で「自動車教習所に通えない」、「通いたくない」理由っていうのが、教習所の先生に対して「怖い」というイメージがあるからだ、ということでした。自分的に「そんな理由!?」と思ったのですが、話がさらに語られていくとよくわかりました。つまり、教習所にしてもなんにしても、ある程度お金がかかるわけですよね。ところが、何かのことがきっかけで、通えないとなった場合、お金をドブに捨てることになる……というわけで、「引きこもってるんだから、その間に何かの資格でも取ったら?」と言われても、入会金や月謝(※親の金)を払っても、結局「無理だった……」で終わる可能性がある。

 その~、わたしも経験あるのでわかるんですけど(一応、習い事に関しては自分で働いたお金で払いました)、習い事も働くことも、大体のところ似たようなところがあると思います。つまり、習い事=自分の好きなこと、意欲を持てることなら長続きする、ということではないんですよね。そこでの人間関係が自分に合ってるかどうかで、あとはそれが料理教室でもダンス教室でもなんでも、内容については最初「あんまり興味持ってなかった」としても、人間関係が合えば「割と続く」わけです。仕事も大体一緒だなと思います。仕事内容のほうがやり甲斐がなくてつまらないような感じでも、人間関係がすごくいいとかじゃなくても、少なくとも「苦痛ではない」くらいであれば、気力があればそれなりに続けることは可能だと思う。

 でも、「すぐにやめる」とか「長続きしない」という場合は、やっぱり何かが「苦痛」なわけですよね。「苦痛ではあるが」、「耐えられないほどでない」という場合は、生活していくためにもある程度忍耐する場合が多いと思う。でも、何かが原因で「毎日が苦痛の連続」ということであれば、「流石にもう限界だ」と判断した頃に退社するなり、アルバイトとかだったら、「やめます!」といきなり言ってやめちゃうとか、結構あると思います。

 こうした形で引きこもった方の場合、割とあると思うんですよね。「自分は耐えられる限界まで耐え、これ以上の苦痛はご免だ」、「だから引きこもってる」という方の場合……それが分厚い殻のようになっていて、そこから出て来ないとか、出て来れない、あるいは出て来る気がまったくないか、気持ちはあっても体が震えて動けないなど、理由はそれぞれあると思うわけです。

 でも、親御さんにこのあたりの自分の心情を話せる息子さんなり娘さんっていうのは少ないと思います(たぶん)。ゆえに、表面上見た場合は「大して頑張ってるようにも見えない」とか、「また長続きしなかった」とか、「せっかくお金出してあげたのに、なんだったのかしら」など、そんなふうにしか見えなかったりするわけです。本人は「こういう点が自分的にしんどい」とか、よっぽど突っ込んで聞かれでもしない限りは答えないと思いますから。

 それで、ラジオの話の続きとしては……その引きこもりの方は、何かの資格試験の申し込みをしたものの、結局怖くなって試験を受けにいけなかった、ということなんですよね。でも、自分を褒めて上げることにした、ということでした。何故かというと、実際試験を受けにいかなかったということは、お金自体は無駄になってしまったけど、申し込みをしただけでも自分は偉いというか、一歩前進というか、そうした意味で。。。

 まあ、わたしの両親の世代の方にもしこうした話をしたら――どちらかというと「何甘えたこと言ってんの」とか、「自分の息子が同じこと言ったら、殴ってでも言うこと聞かせるくらいだろう」とか、そうした感じかもしれません。でも、わたしと同じ世代か、それより下の世代くらいから、このあたりの感覚はすごく変わってきました。わたしの世代だとまだ、両親がそうしたある意味古い感覚なので、「学校は死んでもいけ」的無言の価値観による圧迫が凄かったですし、「なんの理由もないのに働いてない」とか、テ○゛カヨットスクール方式で鍛えてもらえっていうんですかね。何かそうした価値観がまだまだ強いわけです。

 もちろん、わたしの世代やそれより上の世代でも不登校とか、引きこもりといった問題は間違いなくあったわけですけど、わたしの世代だとそうした価値観に辟易してるという感じで、子供にそうした問題が生じた場合……それでも、自分がそうした経験を通ってきてなかったらやっぱり理解できないにしても、ちょっと対応が変わってくるわけです。「そんなに無理して学校通っても、そこから以降精神的に潰れたとなっても困るからなあ」とか、そうした皮膚感覚ですよね。「無理をさせてもろくなことはない」とか、「(自分がそうだったから)そのことでむしろ親を恨まれても困る」とか、そんなに「絶対学校行け」とか、「死んでも働け」とか、そうした部分がいい意味で緩くなってきたというか。

「歯を食いしばってでも、あの時努力して良かった」とか、そうしたケースっていうのは、あくまでも全体的に見た場合、数としては少ないほうに入ると思います。のちに、オリンピックの競技で銅メダルを取った方が「あの時、親が厳しく鍛えてくれなかったら、今の自分はなかったと思う」、「小さい時、嫌々ながら教室に通ってつらかったけど、今は親に感謝してます」と過去を振り返るのを聞いて――「なるほど。自分もやはり息子・娘に厳しくあたるべきなのだ」と考えるのにも似て、そうしたケースっていうのは全体として数は少ないわけです(オリンピックに出場し、メダルを取る選手の数が少ないように、とまでは言わないとしても)。

 今は自動車教習所にしても、授業自体はオンラインで受けたり、アプリによる学習が可能だったりと、わたしの時代では考えられない選択肢が出てきました。もちろん、唯一実技に関してはどうしても教習所で車に乗って教えもらう必要があるにしても、今は昔よく言われたような鬼教官というのも、おそらくほとんど都市伝説みたいになってる気がするのですが、どうなのでしょうか(^^;)。

 その~、わたし自身は集団行動でしか学べないこともあるとか、学校生活=青春とか、そうした価値観も大切とは思ってます。ただ、小学→中学→高校→大学→就職→結婚→子育て→老後……みたいなことは、たぶん古い価値観のモデルになってきてるんだなと思っています。わたしの両親くらいの世代だと、そこから外れるとか、いわゆる社会的マイノリティになるといった選択肢を選ぶとどうなるかわからないという意味でパニックになるわけですけど、わたしの世代から下以降の方だとたぶん特に「まあ確かに古いよね」という言葉くらいは出ると思う。でもこれに代わるモデルは、それぞれの人が模索して作っていくしかないし、それが今よく言われる「多様性」ということで、集団生活から受ける害のほうが大きかったら、別の道を選んだほうが当人には間違いなくトータルで益になるわけですよ。

 たとえば、小学一年生の時までは、このくらいの学習習熟レベルに至っていればいいっていうテストをクリア出来れば二年生になれる、それまでの学習形態は問わないとか、あってもいいんじゃないかと思うんですよね。学習アプリもあれば、オンライン授業参加も可、とか、それでも登校日っていうのがあって、その時だけ学校行かなきゃならない……それが仮に週一日とかでもキツい子はいるだろうなとは思います。なので、難しいとは思うけれど、モデルケースとして少しずつ別のことを試す学校が現れる必要はあるんだろうなと思っていて。そうじゃないと、結局のところ何も変わっていかないし、少子化ということもあって、今の子たちはそのくらいひとりひとり大切にされてもいいんじゃないかという気がする。

 これは決して「甘やかし」ということでもなく、わたし自身は運動会で順位がきっちりついてた世代なので、「そういうのがないんだって」と最初に聞いた時、「!?順位をつけられてたわたしたちはなんだったんだ……」と思わなくもなかったわけですけど(笑)、忘れ物したら出席簿で担任から頭を叩かれるとか、「それが普通」と思ってましたからねえ。

 今は普段の学校生活でも部活でもボーリョクないのが当たり前ですし、野球してる子はみんな坊主、他は許されない――とか、「昔の普通のほうがおかしかった」、「でもみんなそう信じ込んでたというか、そーゆーもんだと思ってたよね……」っていうことがたくさんある。なので、今わたしたちが信じてるというか、信じ込まされてきた価値観というのも、いずれまた古くなって、より新しいもの、いいものに脱皮できるといいなあと思ったりするわけです。。。

 少なくともわたし、今から2百年後くらいになっても、「高校くらい卒業してなきゃ就職先が限られる」とか、小学→中学→高校→大学→就職→結婚→子育て→老後……というモデルのみが「もっとも人間らしい生き方である」みたいな感じだったら、人類はその頃かそれ以前に滅んでいるんじゃないかという気がしてます(進化の行き詰まりとか、そうした意味で)。

 あ、今回のタイトル「二十五歳という分水嶺」というものだったんですけど、引きこもってる方の中にはまず、「二十五歳までになんとかしよう」という場合が多いと思うっていう話だったんですよね、もともと書こうと思ってたのは。これはわたしもそうだったし、この前後で「どうにもならなかった」ことで、自殺するかそのことを深刻に考える若い人も多いと思うので。でも、少しずつ色々なことが社会的な雰囲気として変わっていけば……それもまた、未然に防げる率が高くなっていく、というふうになっていけるといいなあ、ということでとりあえず今回の文章の終わりにしたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



 


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