神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

イエスさまの捕虜。

2021年03月09日 | キリスト教
【戦争の結末】ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン


 >>しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

(コリント人への手紙第二、第2章14~15節)


 わたしの持っている聖書の欄外注には、†キリストによる勝利の行列に加え=「当時の征服者は捕虜を連れ、勝利の行列をして帰って来た。その例を取り上げ、自分がキリストに捕えられて使徒となり、至る所でキリストの福音を宣べ伝える者とされたと述べる」……といったようにあります。

 また、わたしの持っている聖書の訳では、「凱旋の行列」が「勝利の行列」となっているわけですが、これはもしわたしが聖書の訳者さんであったとしたら、かなりのところ訳に悩むような気がします(^^;)

 いえ、意味としてはどちらも同じでも、微妙なニュアンスとして、どちらのほうがよりいいだろうか……といったところで、悩むような気がする、と言いますか

 それはさておき、わたしたちはイエスさまが十字架上で勝利を得てくださったことで……言い代えるとしたら、本当はわたしたちひとりびとりが自分自身の十字架を負い、血を流し苦しみ呻いて、己の罪咎の贖いをしなくてはならないのに――イエスさまにそうしたすべてを押しつけることで、ただ彼のその贖いの業を信じるだけで、死からの甦りという祝福にまで与かることが出来ます。

 これは罪のない方が、わたしたち罪ある全人類のために、十字架上で血の贖いを完成させてくださったことで……そのことを信じる者は、「信じる」というただそれだけで、まったく罪なしとされ、天国へ行くことの出来る特権を得ることが出来るようになるためでした。

 さて、今回のタイトルは「イエスさまの捕虜」ですが、イエス・キリストは我々全人類のために十字架上で血を流し、罪の贖いを成してくださいました……と聞いても、たぶんわたしがノンクリスチャンだった頃であれば、おそらくまったくピンと来なかったのではないかという気がします(^^;)

 でも、これは言い方を変えると、わたしたち人間は常に、どの時代・どの国・どの場所や時間や空間で生きていても――ようするにわたしたち人間というのは、罪の奴隷だということなのです。あるいは、「俺は社畜だ……会社の奴隷だよ」といった方や、「私は夫や子供のために、ほとんど奴隷のように働いてるわ」といった方もいらっしゃるかもしれません。その他、人生上の苦難や困難や苦悩、つらさや痛みや悲しみの奴隷だ……といったように感じつつ、日々生きていらっしゃる方もおられるかもしれません。

 イエスさまは、そうしたわたしたちの罪もそうですし、あるいはなんらかの奴隷状態から解放するために、十字架におかかりになり、苦しみの極みを経験されました。ですから、イエスさまのことを信じる者には、そうした罪からの解放、苦しみや悩み、困難からの解放が与えられるのです。

 通常、なんらかの戦いで負けた場合、敵国の捕虜とされた者には、惨めな運命が待ち受けていました。その時代にもよるとは思いますが、縄や鎖で繋がれるなどして連れていかれ、家畜のようにただ労働に従事させられる……ほとんど人間扱いされない悲惨な運命が待っている場合もありました。

 けれどもイエスさまは、十字架上で勝利を宣言されてのち、三日後に甦り、ご自分の分捕り者である捕虜――つまりは、わたしたち信者のことを、死後、同じような形で連れ上ってくださることを約束してくださっています。イエスさまの捕虜となるということは、戦いで痛んだ傷をイエスさま自らが優しく包んで癒してくださり、罪のくびきからの解放、そして喜びと楽しみとが、わたしたちの後ろをついてくる……という、何かそうしたことなのです。

 あなたはきっと、ちょっと右に体がずれただけで喜びとぶつかり、ちょっと左に体がずれただけで、今度は楽しみにぶつかるでしょう。本来なら、自分の罪の奴隷として、げっそりと痩せ、足の裏を腫れ上がらせて何十キロ(あるいは何百キロ)と人生の道を歩かなければならない奴隷の身であるわたしたちですが、イエスさまはたくさんの食物でわたしたちを養い、上等の靴を履かせ、よろけて歩けないといったようには、決してされないお方です。

 自分のくだらない、愚かな罪の奴隷でいるのはやめ、イエスさまを信じて、この方にすべてを委ね、養っていただきましょう。「オレは自分の人生を自分の力で戦い抜いて、必ず勝ってやる!」とか、そうした生き方が悪い、とはわたしも思いません。ただ、すべての人が勝てるとは限らず、人生の敗残者としてよろけて歩く人間のことを――イエスさまは手を広げて必ず支えてくださるのです。

 しかも、この罪のくびきというのがですね、案外「私は自分で好んでこのくびきを負っているのよ」という場合も多く、自分では「どうにも出来ない」、外したくても手のほうは(悪魔(サタン)によって霊的に)縄で縛られている……といったこともあり、もうにっちもさっちもいかなくなって、ようやく最後の最後にイエスさまのことを信じて解放された――という、そうした経験をされている方も数多くおられます。

 つまり、「イエス・キリストなんか信じたって、オレの人生上の問題となんの関係がある」と思っていたような方でさえ、本当に追いつめられてどうしようもなくなり、「信じても信じなくても変わりないなら、信じてみよう」といった形で信じてみたところ……ようやく霊の目が開かれて、イエスさまの十字架上の血の贖いの意味がわかる――といった救いの経験をお持ちの方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか(^^;)

 冒頭に引用したコリント人への手紙第二、第2章15節には、>>「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」とあります。神に献げられた芳しいキリストの香り……本来であれば捕虜というのは、ろくにお風呂に入ることも出来ず、おしっこやうんこも垂れ流し(汚くてすみません)であってもまるで不思議はありません。何日も体を拭くことも出来ず、頭のほうはフケだらけ、体臭のほうも相当なものでしょう。けれど、イエスさまを信じる人々、つまりは救われる人々は、神さまにあって体中に香料でも擦り込んだように芳しい香りが漂っているのではないでしょうか。

 そして、迫害者であったパウロ(サウロ)ではありませんが、わたしもかつてキリスト教についてよく知りもせず、エ○バやモ○モン教経由の噂だけを聞き、「キリスト教ってのは、けったいな宗教やな☆」と思ったり、「まったくもって偽善臭がぷんぷんしておえっとくるぜ」みたいに意味もなく反感を持っていたものでした。

 でも昔は、自分の罪のくびきに引かれ、体中から罪の悪臭が漂っていたというのに――フケだらけの頭は上質の油によって洗い流され、体のほうは香水を練りこんだ石鹸によって洗われて、あのまま行けば数百マイル歩こうとも、行き着く先は墓場であったというのに……そこからイエスさまと同じように復活することの出来る者に変えられたのでした

 そのことをあらためて心から、主に感謝します

 それだはまた~!!





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