神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

犠牲-サクリファイス-【7】

2018年07月16日 | キリスト教


 >>洋二郎がこのように漆黒の河を渡るような精神生活をしていたことは、おそらく大学や教会の友人たちは想像すらできなかったのではなかろうか。いい面では、「おだやかでやさしい青年」と映っていたろうし、悪い面では、「やる気があるのかないのかわからない男」「なんで働かないのか親に甘えている男」と映っていたかもしれない。

 洋二郎がいかに内面の辛さをおさえて、外面的に明るく振る舞おうとしていたかを示す一通の手紙がある。サマースクーリングで知り合った数人の友達の一人、S子さんが、洋二郎の死後、私にくださった手紙だ。S子さんたちは洋二郎のことを、スヌーピーの漫画に出てくる、何事にも悩んだり迷ったりするチャーリー・ブラウンにたとえて、「チャーリー」と呼んでいた。


 ……今でも夏のスクーリングのことを考える度に、チャーリーのことを思い出します。

 私とチャーリーは、水泳の授業で一番泳げるグループだったので、背泳ぎやバタフライの練習もしました。

 私は足ひれをつけて泳いだことがなくて、ずっと足ひれをつけて泳いでみたいなと思っていました。でも誰もつけていないので、いくら先生が「休み時間には使っていいよ」とおっしゃって下さっても、恥かしくてできずにいました。

 チャーリーにそのことを話すと、「それじゃ僕も足ひれをつけて泳ぐよ」と言ってくれて、とても嬉しかったです。

 足ひれをつけると、とてもはやく泳げるので、チャーリーも私もずいぶんはしゃいで泳ぎつづけて、休み時間がおわって授業が始まる頃にはヘトヘトになっていました。

 その他にも、教科書を買いに行く時には荷物をみていてくれたり、物理がわからない時には一緒に考えてくれたり、バレーボールが下手で落ちこんでいる時にはなぐさめてくれたり、たくさんたくさんチャーリーは私に優しくしてくれました。

 元気がない時には、「S子ちゃんらしくないよ。どうしたの?」と、声をかけてくれたり、後ろから走ってきて肩をポンとたたいて、「やあ」ってあいさつしてくれたり。

 お世話になったのは、私の方です。

 人から必要とされていないなんて大嘘です。

 チャーリーには人をホッとさせてくれる大きな力があったのですから。

 ですから、チャーリーに来年スクーリングで会えないことは、とても淋しく悲しいことです。

 …………


 サマースクーリングで水泳の授業を受けていたのは、洋二郎が自死を決意したたった二、三日前のことだったのだ。神経症患者は、外見上はこれといった異常があるわけではないから、健康人から見ると、なぜ苦しんでいるのか理解できない場合が多い。まして洋二郎のように、自分の辛さを抑えてでも、友人にやさしい接し方をすると、とても心を病んでいるなどとは信じられない人柄に映ってしまうのだ。

(『犠牲(サクリファイス)~わが息子、脳死の11日~』柳田邦男先生著/文春文庫より)


 また、他に洋二郎くんが亡くなったあとに教会で親しくしていた友人の方が、柳田先生宛てに手紙をくださったりしていて、その文面を読むと、とても切なかったりするのですけれども……やっぱり、「神経症」って外から見た場合にはわかりにくいというか、わからないと思うんですよね(^^;)

 他の、体のどこかが痛いといった場合には、自分の体のどこがどういうふうに悪くてなんていう病名がついてて何年病院に通ってるかとか……話すのにやぶさかでない(?)方は多いと思うんですけど、精神系の病気って本人も誤解を怖れて隠しますし、また、話したところで自分の病気の症状が軽くなるわけでもないといったことから、「自分はどこも悪くなどないのだ」という振りをするだけでもう本人はテンパってるみたいな、そういう感じなんですよね。。。

 なんていうか、わたしも「もし自分が心身症じゃなかったら今こうだったはずだ」とか、「心身症でなければこう出来たはずだ」という拘りからはなかなか逃れられなかったと思います。ちょうど、そこが人生の分岐点のようになっていて、これがもし目に見える障害といったことであったとしたら、たぶん「もしあの時自分が交通事故に遭ってなかったら、障害を負うでもなく、今こうも出来ていたし、ああも出来ていたはずだ」ということにも似て、「そこを乗り越える」ってとても大変なことだと思います。

 しかも、見た目が普通であるゆえに(本人もどうにかそう見せかけようとしますから^^;)、人の理解といったものも得られず、場合によっては一番理解すべき親兄弟ですら敵にまわる……ということもあると思うんですよね。

 以前【3】と【4】のところでトップ画として使用させていただいた『神経症の時代』の中に、計算恐怖という神経症のひとつの症状が出てきます。つまり、絶えず計算していなくてはならない強迫観念に囚われるという症状で、家の内でも外でも数字を見るととにかくその数字を足したりして計算せずにはいられない、本人もそのことをやめたいのにどうしてもやめることが出来ず、自分はこの計算をやめられなければ死ぬのではないかというくらいに追い詰められる……「そんな病気本当にあるのか」と訝られる方もおられると思うのですけれども、前にも「何度手を洗っても自分の手が汚れているのではないかと感じ、繰り返し手を洗う」ですとか「鍵をかけ忘れた、ガスの元栓を締め忘れた」ということが絶えず気になる、また高所恐怖症や先端恐怖症などもこの「神経症」に含まれる……と書きました。

 神経症というのはノイローゼということなわけですけれども、家族など、身近にいる親しい人が見ていて思うのは、「本人が何かのことでとても苦しんでいる」ということであり、計算恐怖などはやっぱり、家族がお医者さんなどから「実はこうこうこういうことなんですよ」と説明された場合、びっくりはするけれど、でも「理解はできる」と感じますよね。

 手を何度も洗うとか、鍵をかけ忘れたとか、ガスの元栓を締めたかどうかが繰り返し気になる……といったことも、あるいは高所恐怖症や先端恐怖症なども、「実はそうなんだ」と聞かされたら、ある程度共感を持って理解し、「自分だって何かをきっかけにそうならないとも限らない」といったように考える方も多いのではないかと想像します。

 引きこもりの方が心療内科などへ行った場合、「社会不安障害」と診断されることが多いのではないかと個人的に思うのですが、この「社会不安障害」も大きな枠組みとしては神経症ということなんですよね。

「社会不安障害」については、元住吉こころみクリニックさんのHPがわかりやすい気がしたので、こちらを参考になさっていただければと思います。


      『社会不安障害』


 そして、わたし個人は専門家ではありませんので、ただの素人意見としてここからのことは書こうと思うんですけど……柳田邦男先生のように精神の病気のことに理解があり、その他色々な事柄において博識で、息子(娘)の話にもよく耳を傾けて聞くことの出来る親御さんっていうのは、実際のところそんなに多くないんじゃないかなってわたし自身は思ってます(^^;)

 わたし自身も親との関係が悪くなっていく中で経験的に思ったのは、たぶん、子供が社会不安障害などを患って家に引きこもった場合、必要最低限のこととして、「親が世間の悪意の避雷針になってあげなくてはいけない」んじゃないかなって思いました。

 わたし、欅坂46のファンってわけじゃ全然ないんですけど(笑)、でもこの「避雷針」っていう歌詞は本当にすごいなって思いましたそして、この歌をテレビで聴いてる時にふと思ったんですよね。親っていうのはたぶん、何があっても必要最低限子供の避雷針になってあげなくちゃいけないんだなって。でも、「引きこもり」っていうのはどうやっても世間が容認しない生き方なわけですけど、家にいる息子や娘が疎ましくなってきて、その世間の言うのとまったく同じことを親が口にする……ってよくありますよね(^^;)

 まあ、わたしの場合、自分の親に対しては「まあ、普通はそんなもんだろう☆」という感じで、何か恨みに思うとかそういうことはなかったものの、でも、必要最低限それだけはしちゃいけないんだなって思います。あと、親戚とか知人などに「うちの息子が引きもってて困ってるのよ~」的な相談をするのも、よく考えないと出刃包丁で刺される原因になりかねないなという気がします。なんでかっていうと、うちの母もそうでしたけど、本人はただそのことで愚痴をこぼしたいだけで、特に相手がすごくいい解決策を口にしてくれるとは思ってないんですよね。

 それで、相手のほうでも同調して悩みを聞いてくれて、「家から出して自立させればいいじゃないの」とか、「テレビでコメンテーターの人が引きこもりのことでこう言ってた」とかいう話を聞いて、しかもそれを自分の子供に言ったりもする(笑)「○△さんに相談したら、こう言ってた」みたいな話を。で、こういうちょっとしたことをきっかけにして、子供のほうでは「こんな親のことはもうどうでもいい」とか、そういうふうになっていくという、ただそれだけですから(^^;)

 そして、今は精神科や心療内科の敷居が随分低くなった……って言いますけれども、やっぱりこういう種類のことを相談する場合には<相性>っていうのがありますから、「あ、この先生は合わないな」とか「この先生に話しても無意味だな」と感じたら、お医者さんを変えたほうがいいと思うんですよね。『犠牲』の中に出てくる精神科医のお医者さんで、読んでいて(その先生を責めたいわけではなく)、「あれ?なんかこの先生言ってることおかしくない?」と感じたのは、わたしだけではないと思います。

 なので、一口に精神科や心療内科などに通って少しは事態が改善するかといえば、それはある程度<相性>のあう先生に出会えるかどうかにかかってくるというか。

 親の理解ということに関していえば、「親が子どもの(世間の悪意からの)避雷針になる」ということの他に、「逃げ水を打つ」ということがあるかなと、自分的には思います。

 これも欅坂46の歌に「逃げ水」という歌がありますけれども、それとはちょっと別のこととして(いい曲ですよね♪^^)、「そうか。じゃあ、この子はこういうことやああいうことは出来ないということになるな。じゃあ、この子が今の世間で生きていくためには、どういう道があるのだろう」と一緒に考えるっていうのが、わたしが自分的に思う「逃げ水を打つ」ということかもしれません。

 その、わたしの知っている方に、こんな感じの方がいました。その方のお母さんは、結構性格のキツい人で、かなりはっきりズバッと物を言う感じの方なんですけど、唯一自分の家族を守るということに関しては、すごく「息子可愛さ」が先に立つという感じのお母さんで(ちなみに、すごく世間体を気にする感じのお母さんでもあります)。

 それで、息子さんのほうでは、引きこもってるというか、パチンコとかそうした自分の趣味のことでは結構出かけてるようなのに、定職には就いていない……という状態なんですよね。仕事のことに関してはマイペースなのんびり屋さんといった感じで、周囲の人々は「ちょっと変わってる☆」と、軽く首を傾げてるような感じ。将来どうするんだとか聞いても、本人はなんか笑って煙草吸ってるというのか、そんな状態でいいのかと聞いても、こんにゃく(?)みたいな反応しか帰ってこず、彼の場合は神経症といった病気はおそらくまったく関係なかったと思います。

 そして、たぶんそうした状態がわたしの知る限り十年とかあるいはそれ以上続いていたのではないかと思います。でも、ある時親元を離れて自立して働きはじめたんですよ。結婚したとか、そうしたことがあって自立を考えたといったことも一切なく、何があったのかはわかりませんけれども、とにかく自活しはじめたんですよね。

 父親とはそのことで喧嘩というか、何かそれに近い雰囲気があったり、働いてもいないのに親からもらった小遣いで煙草吸ったりパチンコに行ったりしていたようなので、まあ普通は揉めないほうがおかしい気もします(^^;)

 ただ、わたしの知る限り驚いたのは、母親のほうで世間に向けて彼のことを悪く言うことは一切なかったということだったでしょうか。どちらかというと、とにかく息子のことを守るほうに動いたというか、「お宅の息子さん、そんなことでいいの?」みたいな空気を感じると、とにかく相手にそんなことを言わせないほうに動くというか、そうした感じだったらしいんですよね。

 正直わたし、このお母さんとは話していても「気が合わないな」としか感じないのですけれども、唯一このことに関しては本当に感心しました。普通はちょっと出来ないことですし、やっぱり「お宅の息子さん、そんなことでいいの?」みたいに言われたら、「そうなのよ~。まったく困ってんのよ」ってなっても不思議ではないのに、「そんな話はしないで欲しい」というように不機嫌になるっていうんですかね。

 でも、このことでは世間体をすごく気にする人なだけに、実際は相当悩んだんじゃないかなって思います。たまにアルバイトとかしてもすぐやめてしまうのは(はっきりそう聞いたわけではありませんが)、人間関係的なことが原因だったり、性格がマイペースなのんびり屋さんなので、仕事にスピードを求められるとそのあたりのことで注意されたりとか、たぶんそこらへんではなかったかと想像されます。

 しかも、軽く十年とかそのくらい自立するまでにかかっていて……でも、このことに関しては本当にこのお母さんに対してわたし的には感心するところがありました。また、もし仮に彼がそのまま一生家にいたとしても、若干経済的に余裕のある家庭でもあり、また彼自身が親が倒れた際には一生面倒をみるというくらい、心の優しい子でもあったので……そういう色々なことも含めて最終的にどうにかなったのかな、みたいに、人から話を聞いた限りにおいて、そんなふうに思いました。

 それで、肝心の「何が彼を働くほうに向かわせたか」ということは、正直わからないのですけれども、たぶん本人が一念発起したとか、そういうことではないと思うんですよね。たぶん、親の薦めというか、そういうのがあって、本人も三十代とかで、ここで働かずに年齢を重ねた場合のこととか、色々考えてそうした方向に向かったのかなと思います。

 いえ、結構びっくりするのが、ここの家庭って家族仲がいいっていうことなんですよね。息子さんがふたりいて、上のお兄さんのほうは結婚して子供もいて、割と名の通ったいいところに勤めていて……みたいな感じで、こうなると弟のほうは少し卑屈になりそうなものなんですけど、そんなこともなく、お兄さんが実家に帰ってくると一緒に煙草吸いながら笑っていたりするそうです。

 こうしたことを総合的に考えてみて、自分的に思ったのがやっぱり、「最低でも家族は味方であるべきなんだろうな」ってことだったかもしれません。つまり、うちもそうでしたけれども、普通はこれの逆をいくっていうことなんですよ(苦笑)

 その家に経済的に余裕があるかとか、そういうことも関係あるかもしれませんけれども、うちは両親が働いてようやく家計がどうにかなるという感じだったので、母にしてみたら父のことでも不満があり、仕事の人間関係でも欲求不満に感じることがある、家に帰ってくるとイライラする人間(娘のわたし)がいる……という感じで、実際大変だったと思うんですよね

 かといって、わたしのほうでも母がそういう状態だっていうのがわかっていたから、自分が困っていた時にも黙っていて、ずっと自分でどうにかしてきた――けれどもうこれはダメだなあというふうになって初めて言ったわけだったり。。。

 それで、うちの家庭のような事情で息子さんや娘さんが引きこもってると、何かちょっとしたことをきっかけに家族間に緊張が高まるということが結構あると思います。でもやっぱり、究極的に家族同士で対立すると将来的にろくなことがない……ということのほうが多いのではないでしょうか。

 わたしの母にしても、毎日家で顔を合わせるとどうしてもイライラする――という感じではあったわけですけど、「その時はそうするしかなかった」、「その時はそうする以外どうしようもなかった」と思ってはいても、一応後悔はしているそうです。そのことは手紙とかを通してわたしもあやまられたりしたわけですけど、わたしのほうでは結構「それがどうしたの?」という随分長い間そういう感じだったかもしれません。

 なんでかっていうと、実際に会ってみると「え?あの手紙に書いてあったようなこと、本当に思ってるの?」みたいなところが多々あるからであり、でもそういうことも含めてわたしのほうでは親のことを赦しているというか、自分も親不孝な娘なのだから、仕方がないというか、そういうふうに思っているわけです。

 たぶん、こう書いてくると多くの方が「あー、この子は親の気持ちというものをわかっとらへんな」と感じると思うんですけど、その家庭ごとに、その家庭に身を置いた人間にしかわからないことがあるので、それは仕方のないことなんです(^^;)

 なんにしても大切なのは、今現在引きこもりの息子さんや娘さんを抱えてる方がおられたら、わたし個人の家族の失敗から思うのは、うちの家庭の逆をいったほうがいいっていうことなんですよね。先ほど書いた十年とかそのくらい定職についてなくてフラフラ☆してた息子さんの場合は、なんていうか親に対する「甘え」の心理によって引きこもっていた……という感じだと思うんですけど、そうした形の場合と、やっぱり洋二郎くんのように「神経症」といった病いを抱えている場合とは違うと思うんですよね。

 つまり、「社会不安障害」などを抱えていた場合、家から追い出して自活しろ!と言ったりすると、本人は行き詰って自殺するしかない……といったようになる可能性が高いわけですけど、親に対する「甘え」の心理によって引きこもってる場合は、確かに「自活しなさい!」って説教するのもひとつの手とは思うんですよね(^^;)

 そして、「親が世間からの悪意の避雷針になって子供を守る」、「逃げ水を打つ」道を一緒に考える……ということをしてあげられたなら、最低、親と子の絆は守られると思います。そのですね、わたしが前に書いた寝たきりの人が多かった病院なんですけど、そこで働いていた時わたし、「これでもし自分の親がいつ倒れても面倒を見れる」と思って、ほっとしたものでした。でもまあ、その後親子関係が悪くなったことにより、わたし自身はもう親の面倒を見るっていう義務からは解放されているような気がしています(^^;)

 前に一度、介護施設に勤めていた時に「あんたの親は幸せだねえ。赤の他人にこういうふうによくしてくれるんなら、実の親ならなおさらだよねえ」みたいに言われたことがあるんですけど、「いや、うちはそういう感じじゃない」と話したことがありました。それでまあ軽く事情を話したところ、「あんたの親は馬鹿だなあ。本当に馬鹿だなあ。ああ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ」と言ってたことがあるんですけど……つまりはそういうことなんですよ。

 うちも<普通に>あのままいけば、わたしも母が「もしかしたらもっと年いったら歩けなくなるかもしれない」と言ったら、「そうなったらわたしが面倒見るから大丈夫だよ」って答えてる感じだったと思います。

 でも、そういうものを娘のわたしが壊したというよりは、うちの場合は母が自分の手で壊した、そしてそれを今後悔している……らしいのですが、「自分が本来受けられるべき良いものを自分で壊す」って相当不幸なことだと思うんですよね(^^;)

 かといって、母にわたしの心身症をどうにも出来ないように、わたしにも母のそうした状況をどうにも出来ないし、そのことにうちの父や兄がまったく関係ないかといえば、父は父で浮気といったことによって母のことを結婚生活のほとんどにおいて悩ませてきたわけですし、兄はとてもいい人なんですけど、家を出ていったのは借金問題のことで母と揉めてなんですよね(今は結婚して子供もいる、いいお父さんです)。

 でも、わたしはそうした中で常にずっと母の愚痴を聞き続けるという、母の影のような存在でしたから、この自分の影そのものに刺されるというのがどれほどつらいか、これはわたしにしても「その時は他にどうしようもなかった」にしても、ここまで親子関係が落ちるところまで落ちるとは、その時は思ってもみなかったというか(^^;)

 つまりですね、そういうふうにならないためには、家に息子さんや娘さんがずっと家にいてイライラしたりするにしても、「何考えてんのかわからん子や」とか、「今はこれでいいにしても、将来どうすんねん」と思っても……うちのように「最悪の関係」になったりするよりは、「そうなったら親子としておしまいやから、イライラしてブツブツ言うよりも、他の道について考えよう」みたいに、考え方を変えたほうがいいと思うんですよね。

 もちろんわたしも、「それが出来れば誰も苦労しやせん」というのは、重々よくわかってるわけですけれども(^^;)

 では、次回は『犠牲(サクリファイス)』という柳田先生の本のタイトルの由来について、何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!

 



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 犠牲-サクリファイス-【6】 | トップ | 犠牲-サクリファイス-【8】 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事