神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

犠牲-サクリファイス-【8】

2018年07月21日 | キリスト教


 >>洋二郎がそういう奉仕活動(※骨髄バンクへの登録)に参加しようと決意したことには、彼なりの思想的な背景もあった。その源となったのは、彼が深く感動した旧ソ連の亡命映画作家タルコフスキーの映画『サクリファイス(犠牲)』だった。

 われわれが一日一日を平穏に過ごしていられるのは、この広い空のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからではないかという信仰的思想を、この映画は、精神病の主人公アレクサンデルが人類を核戦争の危機から救うために、自分の家に火を放って神への「捧げ物」とし、自らは精神病院に収容されるという、かなり難解な悲劇的寓話によって表現している。

 この「名も知れぬ人間の密かな自己犠牲」という点に、洋二郎は心を惹かれていたのである。骨髄移植は誰が誰に骨髄を提供したのかが、お互いにわからないようになっている。純粋に隠れた奉仕の行為なのである。もし洋二郎が骨髄ドナーになって誰かの命を救うことができたなら、彼の心のなかに変化が起こり、何か自信のようなものが生まれるのではないかと、私は密かに期待していた。というのは、実際、ドナーの体験者のなかには、「自分のいのちを大事に思うようになった」とか、「こんな自分でも生きている意味があると思えるようになった」とか、「娘が看護師になりたいといい出した」といったぐあいに、生きていく意識に変化が生じた人が少なくないのを、私は体験記を読んで知っていたからだった。

 しかし、骨髄移植のドナーとレシピエント(移植を受ける人)の白血球の血液型が合う確率は五百分の一から一万分の一という低さである。洋二郎の血液型に合うレシピエントが現われないまま、月日が経ってしまった。

 そのことを、私は救命センターでふと思い出したのである。洋二郎の命の火が、いまにも消えそうになっている。洋二郎がこの世に生きた証しを、なんとか実践してやれないものか、という思いが胸にこみ上げてきた。

(『犠牲(サクリファイス)~わが息子、脳死の11日~』柳田邦男先生著/文春文庫より)

 
 ……脳死に至った洋二郎くんが骨髄バンクにドナー登録していたことから、お父さんの柳田邦男先生は、家族と話しあい、腎提供するのはどうだろうかと決意されます。

 本のタイトルの由来でもあるタルコフスキー監督の『サクリファイス』という映画の内容や映画を観た洋二郎くん自身の感想についても文章を引用しようと思っていたのですが(汗)、ちょっと長くなりすぎるという事情によって、そちらは是非本のほうをお読みになっていただければと思います

 前にも、『脳死』ということについては、「脳死とラザロ」「はるかな国の兄弟」といった記事に書いたことがわたし個人の意見だったりはするのですけれども、自分的に、平均的な日本人(?)が「脳死」ということを受け容れるには、たぶん49日くらいかかるのではないか……という気がしています。

 これはあくまで、漠然としたわたし個人の直感としてそう思った、ということですので、あまり深刻にというか、真面目に受け取らないでいただきたいのですけれども(汗)、以前書いた看護助手として働いていた病院は、脳梗塞などで倒れて意識のない方や、あるいは交通事故などで植物状態になった方などがいたんですよね。

 つまり、看護助手の仕事としては、他の介護福祉士さんやあるいは看護師さんなどと二人一組になって清拭(体を拭いたり)したり、口の中を割り箸の先に綿をつけたもので綺麗にしたり、男の人でしたら髭を剃ったり、その他身のまわりのことを整えたり……といったところからはじまるのですが、そうした方をたぶん三か月~半年くらい見ていると、なんとなく大体わかってくることがあります。

「ああ、たぶんこの方の意識はこのまま戻らないな」ということが、じわじわ実感されてくるというのでしょうか。もちろん、ICUに運ばれてきたばかりといった患者さんは別で、「この方もこのまま植物状態になられてしまうのでは……」と感じる方でも、突然意識が出てきたりとか、目を覚まされてその後回復されたりといったことがあるので、そうしたことがある度に「命の不思議さ」のようなものを感じたものでした。

 でも、わたしがその病院に勤めはじめた時点で、「もう三~四年も前からこの状態」といった方の場合は、「奇跡でも起きない限りはこの方の意識が戻ることはないだろう」ということが、皮膚的な実感としてお世話しているうちにだんだん理解されてきます。

 なので、自分の家族、あるいは身近な人が「脳死」に陥った場合、その後どうなるかを色々な患者さんを見て知っているので「つまり、そういうふうになるっていうことなんだ」という前提で、わたしの場合は「脳死」ということを受け容れるという感じだと思います。

 でも、こういうことをある程度理解できるのは、医療従事者の方だけに限られてくる気がしますし、一般的に言ってまず、自分の家族や友人などが交通事故に遭って病院へ駆けつけ、その後「脳死」とお医者さんから宣告された場合……まず、パニックになると思うんですよね。お医者さんの口から「不可逆的死」なんて言われたりしたら、たぶんその場はなんとなく「はあ、そうですか」とか言っていながら、あとから「お父ちゃん。フカギャクテキシってなんやろな」と聞いてるような感じというのでしょうか(^^;)

 まず、今でも誤解のあるのが、「脳死」と「植物状態」の違いについて今も知らない方が結構多いということかもしれません。なんというか、「脳死」=「植物状態」と思ってる方が今も結構いらっしゃって、そういう中でお医者さんから「脳死」と「植物状態」の違いなどについて説明されても、まず、病床にある家族のことでショックを受けてますから、心情としてより混乱するということがあると思うんですよね。

 それに、柳田先生も書かれているとおり、脳死状態になっても爪や髭などは伸びてきますし、そういった生理現象があって体温もあるとなったら……とてもそれを「死んでいる」、「これは死体である」とは到底認識できないと思います。

 特に、小さいお子さんの場合だと、それを「死」と認めることはなかなか出来ないでしょうし、もちろん、相手がもともとお迎えの近いお年寄りだったら脳死も認めやすい……というわけではないのですが、それでも小さい子供さんに対してよりは認めやすい部分があるのではないかという気がします。

 これはあくまでわたし個人の素人考えで書くことなのですけれども、特に小さいお子さんの場合などは、ご両親が納得できるまで「脳死」を「死」とは認めないということでもいいのではないかと思ったりもするんですよね。つまり、「脳死」へ至った場合、それが小学生のお子さんでも、臓器移植の「臓器」を待っている方がいるため、お医者さんはその話も頃合を見てされると思うのですが、子供さんの脳死を宣告されたばかりで、次は臓器移植の話をされても……ご家族の心情としてはそんなことまで考える余裕のないのが普通と思います。

 ですから、自分的には日本人の死生観としては、死んだあと魂がまだそのあたりにいるといった思想を背景にしてのことだと思うんですけど、やっぱり、家族の誰かが「脳死」に至って、それを1~2週間くらいで納得しろと言われても無理があり、たぶん49日とかそのくらいずっとベッドのまわりでお世話をするなどして、「いつまでもこのままでいるのもこの子もつらいのではないか」というくらいのところまで待つのが大切なのではないかという気がしています。

 とはいえ、医療の現実っていうのはこうした待つゆとりがないんですよね。脳死になった以上は、病院側としてはなるべく速くそのベッドを空けてもらって新しい別の患者さんを受け容れたいというのがあり、「脳死」と宣告されても「いえ、この子の面倒はわたしが見ます」といったように家族が言われた場合は、まず勧められるのが他の病院に転院してもらうということだと思います。

 もちろん、お医者さんにはすごく説得されるのではないかと思うんですけど……つまり、脳死と宣告されると、その人はもう長く生きないので、いずれ心停止するのを待つのを速めるために人工呼吸器が外されることになるわけですが、このことを家族がどの時点で同意するのかということなんですよね。こうしたことで人類が悩むようになったのは何より、「人工呼吸器」という、人間が自発呼吸できなくなっても機械によって心肺機能を維持することが可能になったからだと思うのですが、実際に心停止する前に「移植できる臓器を摘出して、他の病気で苦しんでいる人のために役立てよう」ということがあるために、医療者側は「脳死は人の死です」と説明するわけです。

 ところが、ですね……結構矛盾した話として、脳死と宣告された患者さんは早晩亡くなる……大体遅くとも2週間くらいで……と言われているものの、家族が納得できなくてその患者さんを引きとって面倒を見続けたところ、何年も生き続けたという例があるわけです。

 また、お医者さんのほうで科学的事実として脳の組織なども溶解してくるし、そんな状態で家族のその人を生かし続けたいか……といったように伝えても、家族のほうで納得できない場合はもう、臓器移植どころではないというか、心情としてそうしたところがあると思います。

 柳田先生の場合は、やっぱり医療ジャーナリストとして医療に関する色々なことに詳しく、そうした知識や病院などでたくさんの医療者の方や患者さんの方などを取材してきた経験などから、最終的に次男の洋二郎くんの腎臓を移植提供しようと結論されたのだと思うのですけれども、家族全員が健康に恵まれてきて、幸いにも病院に縁がなかった家族の方が突然そうした状態に陥った場合――まず、心情的に納得できないのが普通と思います。

 そしてこの「納得」ということには時間が必要なのですが、その……なんていうか、日本が移植医療について「遅れている」と言われるのは、たぶんこのあたりのことなのかなって思ったりします。まず、啓発運動(?)っていうんでしょうか。たぶん、アンケートみたいの取ったら、「脳死と植物状態の違いってわかりますか?」って聞いたら、「えっと、よくわかんな~い♪」みたいな感じの方とか、結構今もいるんじゃないかなって思います(^^;)

 なので、「脳死」のお話のことになると、「脳死」がどういうことなのかをすべての人が理解している……という前提で専門家の方などは話されるわけですけど、一般庶民の皮膚感覚(?)とそれはまずちょっと違うものだと思います。多くの方が、家族が救急車で運ばれて、お医者さんから「いずれ脳死ということになると思います」みたいに説明され、ショックを受けつつ初めて「脳死」ということについて考える……ということのほうが多いんじゃないかなっていう気がします。

 いえ、この記事の主旨は「脳死についてみんなもっと考えよう!」といったことではなく、柳田先生が息子さんの洋二郎くんの生前の意思を尊重されて、「名も知れぬ人間の密かな自己犠牲」という思想を息子さんと共有し、それで腎提供することを決意されたというそのことなんですけど、つい話が長くなってしまいました(^^;)

 わたしも、この本を読む前から、大体似たことを考えて骨髄バンクに登録し、その後、日本臓器移植ネットワークのほうに登録もしました。ただ、わたしの場合、登録カードを携帯してはいないのですが(汗)、でもネットを通して登録しましたので、脳死に至った際にはそちらと照会して「移植の意思がある」ということになると思っています。

 ただ、わたしの場合、洋二郎くんのように思想的にとても深いことを考えていたわけでもなんでもなく、そもそも最初から自分の体を大切にしていないといったことがあり、「まあ、こんなもんでも人の役に立つのであれば」という、動機としてはかなり単純なものなんですけど(^^;)

 では、次回は『犠牲』の表紙にもなっている「よだかの星」のことからはじめたいと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!





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