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(作者様と症状的に被るところはないんですけど、でも心情としてまったく同じなので、この間本屋さんで見かけて一気に読み終えてしまいました
同じ種類のことで悩んでいる方にとっては「わたしだけじゃないんだ
」と、とても励まされる本だと思います![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book2.gif)
)
「犠牲(サクリファイス)~わが子、脳死の11日~」は、タイトルのとおり、洋二郎くんが自殺をはかったあと、脳死の状態へ至ったその過程などについて詳細に書き綴られているのですけれども、わたし的に「脳死」ということについては、「脳死とラザロ」、「はるかな国の兄弟」といった記事に書いたことがわたし個人の考えということでよろしくお願いしますm(_ _)m
それで、今回は「犠牲(サクリファイス)」のことに関連して、キリスト教のことについて少し書いてみたいと思いました。。。
そのですね……洋二郎くんは友人との交流を求めて教会へ通っていたのであって、御自身はクリスチャンではなかったということなんですよね。でも、わたしも自分がもし仮に悩みの渦中にあった時、神を信じられたかといえば――それは本当に「NOOOOO!!
」という感じだったと思います。
前にもどこかに書いたとおり、やっぱり生きるか死ぬか、また自殺するとしたらどういった手法で死ぬか……といったことばかりぐるぐる考えてる時って(しかも、外向きの顔としては家族にも友人、同僚にもニコニコしてるくらい、精神的にギャップのある状態)、結局、神なんていてもいなくても関係ないっていうところにわたしの場合は落ち着きました。
つまり、仮にこの世界に神さまがいたのだとしても、宇宙の彼方あたりにいて、自分個人の悩みに関心を持ってくれないのであれば、いてもいなくてもそんなの同じじゃん☆という。。。
あとは、蟻がぱらぱら歩いているのを見て、その一匹の足をもいで地面に戻したとしても――わたしはそんな残酷をしていながら、たぶんそんなことすぐ忘れて、家に帰って美味しいもの食べてテレビ見ながら笑ってますよね。それと同じように、神さまっていうのは、人間ひとりひとりがそういう酷い目にあっていても、特に何かしてくれる存在ではない……だったらいてもいなくても同じだ――みたいに、わたしは一度結論づけました。
それで、一度自殺未遂っぽいことをして、「『人間、いざとなったら死ねばいい』とかずっと思ってたけど、これはそう簡単には成功しないな
」ということがわかり、となると今度は死ぬ方向にではなく、生きる方向にベクトルを変えて今度はそちらにエネルギーを使うしかないんですよね。そして、その時に最初に就職したのが某デパート内にある本屋さんでした。で、そこは売場が割と狭い本屋さんだったので、そこより売場面積の広い本屋さんでパート従業員を募集していた時に、そちらへ移るということにしたのです。。。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book2.gif)
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で、この時わたし、心身症とかまったく関係なく、熱が出てずっと下がらなくて体がだるいという謎の症状が続いて、心の中では「わたし、本大好きだし、職場の人間関係もいいほうだから、もうここで絶対がんばろう!」とか思ってたにも関わらず、辞めることになってしまったんですよ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_deject.gif)
それで、病院へ行ってその症状が治ったあと、「さて、そろそろまた仕事探さねば……
」ということで、その後はじめて某病院で看護助手という仕事をしました
そしてこの時にわたし、たぶん人生が変わったのかなと思います。寝たきりの状態の方の多い病院だったのですが、「こんなわたしでも多少なりとも人の役に立てている」という実感を得られたことから、自分の生に対する肯定感っていうんですかね。そういうものが出てきて、ここで働いている時にイエスさまのことを素直に信じることも出来て、ここから以降は死ぬとか自殺するっていうことは頭の中から一旦かなり遠くへ行ったと思います。
でもこの時はもう、自分の悩みとか苦しみについて、大分客観的に眺めて分析できるようになっていましたし、そうしたことをある程度乗り越えたあとにイエスさまのことを知ったから受け容れられたのであって――でも、死ぬしかないとか自殺するとかそういうことばっかりぐるぐる考えている時に、イエスさまの福音について伝えられても……たぶんまずもって信じられなかったと思うんですよね。そういう時の心理としては、「自分の悩みを100%解決してくれる神以外は本当の神などではない」みたいな、そんな感じだから。
そして、わたしが「キリスト教」というもののどういった点に「救い」、もっというなら「魂の救済」といったものを感じたかといえば、洋二郎くんと同じように「人知れぬ苦しみ」というもの――これを評価できる存在がもしこの世にいるとすれば、それは神(イエス・キリスト)しかいないというその点だったでしょうか。
洋二郎くんも「この苦しみや悩みに意味はあるのか」といったことで悩み、苦しんでいたと思うんですけど、>>「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在」となっていることに悩んでいた、と本の中にあるように……精神の病いって自分で自分のために他人にわからない自分の苦しみを苦しむ、みたいなところがあって、その苦しみのエネルギーをせめても、誰か人のために苦しむものにしたい――って、やっぱり多くの方が思うものだと思うんですよね。
つまり、「わたしはあなたのためにこれだけ苦しんでますよ」といったことではなくて、その相手はその人のためにこちらが苦しんだり悩んだりしていると、知らなくていいんです。ただ、自分で自分のために苦しみに苦しみ、悩みに悩むって相当不毛なことですから、この深い苦しみと悩みのエネルギーを他の人のために使えたらっていうんでしょうか。でも現実には、洋二郎くんもそうであったように、ボランティアしようにも、何度も吐いたりとかそのくらいのプレッシャーに耐えながら「せめても何か誰かのために」という精神で接する……でもやっぱり、そうした状態で週四日というのは相当キツかっただろうなって、本当にそう思います![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
わたしも、このことに関しては自分がクリスチャンになってからもなかなか答えは出ませんでした。でも、ある時ふとこう思ったんですよね。わたし的に、日曜日に礼拝を守るというのもつらい。だけど、神さまはここに来るだけでもつらいというわたしの状況を知っている……そして、昔は「それを知っているのに何故神さまはこうした状態を改善してくださらないのだろう」の一点張りだったと思います(^^;)
でもある時、こう思ったんですよね。たぶん、少し傲慢な言い方をしたとすれば……「わたしはこの中でもしかしたら一番強く礼拝を守っているのかもしれない」って。いえ、「あー、今日はもう礼拝とか守るの超めんどいわー☆」とか、わたしも自分が病気とかじゃなかったらそう思うこともあったんじゃないかなって想像します![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0200.gif)
でも、「ただなんとなく散漫に」とか「ただ惰性による習慣で」という方も、中にはもしいるのだとしたら(もちろん日曜礼拝は、「<教会>という場所に来る」という信仰の態度さえあったら、その信仰の行為自体が祝福されるものなのですけれども^^;)……自分のほうが死ぬほど必死に礼拝を守っているかもしれないと思ったことがあって。
ええとですね、そのことをわたしがあとからふと思ったのは、その日の礼拝の中で牧師さんが、礼拝の奉仕のことについて触れていたからだったりします。つまり、わたしは教会員として正式に登録しているわけではなかったので、そこの教会で礼拝当番的なものが回ってくることはなかったわけですけど……場合によってはあるらしいんですよね。「あの人よりもわたしばっかりが○△の仕事をしてばかりいる」とか、そうしたことが(^^;)
そして、心から奉仕する心でそうしたことを行わないなら、神さまからも恵みを受けられないだろう……といった主旨のお話を牧師さんがお説教の中でされていたと思います。だから、「わたしがもし病気じゃなかったら、どれほど奉仕にも熱心になるか、神さまはご存じなはずだ」といった気持ちがあって、でも、わたし自分がそうした病気じゃなかったら、こんなにも神さまのことに熱心になることはなかったという、この部分はものすごい矛盾した点なんですよね。。。
洋二郎くんも、そうした種類の自分の苦しみや悩みを「活かす道」はないのかどうか、思索的に相当考えたと思いますけれども、今、洋二郎くんの苦しんだ苦しみ、悩んだ分のつらさといったものは、お父さんの手によってより多くの方に伝えられ、ちょうどわたしがそうであったように、「犠牲」という本を読んだことで洋二郎くんのことを知って救われた思いを感じたり、あるいは洋二郎くんのことを魂の友だちのように感じる方というのが、きっとたくさんいることと思います。
では、次回はまたこの続きについて書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
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「犠牲(サクリファイス)~わが子、脳死の11日~」は、タイトルのとおり、洋二郎くんが自殺をはかったあと、脳死の状態へ至ったその過程などについて詳細に書き綴られているのですけれども、わたし的に「脳死」ということについては、「脳死とラザロ」、「はるかな国の兄弟」といった記事に書いたことがわたし個人の考えということでよろしくお願いしますm(_ _)m
それで、今回は「犠牲(サクリファイス)」のことに関連して、キリスト教のことについて少し書いてみたいと思いました。。。
そのですね……洋二郎くんは友人との交流を求めて教会へ通っていたのであって、御自身はクリスチャンではなかったということなんですよね。でも、わたしも自分がもし仮に悩みの渦中にあった時、神を信じられたかといえば――それは本当に「NOOOOO!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_lose_m.gif)
前にもどこかに書いたとおり、やっぱり生きるか死ぬか、また自殺するとしたらどういった手法で死ぬか……といったことばかりぐるぐる考えてる時って(しかも、外向きの顔としては家族にも友人、同僚にもニコニコしてるくらい、精神的にギャップのある状態)、結局、神なんていてもいなくても関係ないっていうところにわたしの場合は落ち着きました。
つまり、仮にこの世界に神さまがいたのだとしても、宇宙の彼方あたりにいて、自分個人の悩みに関心を持ってくれないのであれば、いてもいなくてもそんなの同じじゃん☆という。。。
あとは、蟻がぱらぱら歩いているのを見て、その一匹の足をもいで地面に戻したとしても――わたしはそんな残酷をしていながら、たぶんそんなことすぐ忘れて、家に帰って美味しいもの食べてテレビ見ながら笑ってますよね。それと同じように、神さまっていうのは、人間ひとりひとりがそういう酷い目にあっていても、特に何かしてくれる存在ではない……だったらいてもいなくても同じだ――みたいに、わたしは一度結論づけました。
それで、一度自殺未遂っぽいことをして、「『人間、いざとなったら死ねばいい』とかずっと思ってたけど、これはそう簡単には成功しないな
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0200.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book2.gif)
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で、この時わたし、心身症とかまったく関係なく、熱が出てずっと下がらなくて体がだるいという謎の症状が続いて、心の中では「わたし、本大好きだし、職場の人間関係もいいほうだから、もうここで絶対がんばろう!」とか思ってたにも関わらず、辞めることになってしまったんですよ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_deject.gif)
それで、病院へ行ってその症状が治ったあと、「さて、そろそろまた仕事探さねば……
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でもこの時はもう、自分の悩みとか苦しみについて、大分客観的に眺めて分析できるようになっていましたし、そうしたことをある程度乗り越えたあとにイエスさまのことを知ったから受け容れられたのであって――でも、死ぬしかないとか自殺するとかそういうことばっかりぐるぐる考えている時に、イエスさまの福音について伝えられても……たぶんまずもって信じられなかったと思うんですよね。そういう時の心理としては、「自分の悩みを100%解決してくれる神以外は本当の神などではない」みたいな、そんな感じだから。
そして、わたしが「キリスト教」というもののどういった点に「救い」、もっというなら「魂の救済」といったものを感じたかといえば、洋二郎くんと同じように「人知れぬ苦しみ」というもの――これを評価できる存在がもしこの世にいるとすれば、それは神(イエス・キリスト)しかいないというその点だったでしょうか。
洋二郎くんも「この苦しみや悩みに意味はあるのか」といったことで悩み、苦しんでいたと思うんですけど、>>「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在」となっていることに悩んでいた、と本の中にあるように……精神の病いって自分で自分のために他人にわからない自分の苦しみを苦しむ、みたいなところがあって、その苦しみのエネルギーをせめても、誰か人のために苦しむものにしたい――って、やっぱり多くの方が思うものだと思うんですよね。
つまり、「わたしはあなたのためにこれだけ苦しんでますよ」といったことではなくて、その相手はその人のためにこちらが苦しんだり悩んだりしていると、知らなくていいんです。ただ、自分で自分のために苦しみに苦しみ、悩みに悩むって相当不毛なことですから、この深い苦しみと悩みのエネルギーを他の人のために使えたらっていうんでしょうか。でも現実には、洋二郎くんもそうであったように、ボランティアしようにも、何度も吐いたりとかそのくらいのプレッシャーに耐えながら「せめても何か誰かのために」という精神で接する……でもやっぱり、そうした状態で週四日というのは相当キツかっただろうなって、本当にそう思います
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
わたしも、このことに関しては自分がクリスチャンになってからもなかなか答えは出ませんでした。でも、ある時ふとこう思ったんですよね。わたし的に、日曜日に礼拝を守るというのもつらい。だけど、神さまはここに来るだけでもつらいというわたしの状況を知っている……そして、昔は「それを知っているのに何故神さまはこうした状態を改善してくださらないのだろう」の一点張りだったと思います(^^;)
でもある時、こう思ったんですよね。たぶん、少し傲慢な言い方をしたとすれば……「わたしはこの中でもしかしたら一番強く礼拝を守っているのかもしれない」って。いえ、「あー、今日はもう礼拝とか守るの超めんどいわー☆」とか、わたしも自分が病気とかじゃなかったらそう思うこともあったんじゃないかなって想像します
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0200.gif)
でも、「ただなんとなく散漫に」とか「ただ惰性による習慣で」という方も、中にはもしいるのだとしたら(もちろん日曜礼拝は、「<教会>という場所に来る」という信仰の態度さえあったら、その信仰の行為自体が祝福されるものなのですけれども^^;)……自分のほうが死ぬほど必死に礼拝を守っているかもしれないと思ったことがあって。
ええとですね、そのことをわたしがあとからふと思ったのは、その日の礼拝の中で牧師さんが、礼拝の奉仕のことについて触れていたからだったりします。つまり、わたしは教会員として正式に登録しているわけではなかったので、そこの教会で礼拝当番的なものが回ってくることはなかったわけですけど……場合によってはあるらしいんですよね。「あの人よりもわたしばっかりが○△の仕事をしてばかりいる」とか、そうしたことが(^^;)
そして、心から奉仕する心でそうしたことを行わないなら、神さまからも恵みを受けられないだろう……といった主旨のお話を牧師さんがお説教の中でされていたと思います。だから、「わたしがもし病気じゃなかったら、どれほど奉仕にも熱心になるか、神さまはご存じなはずだ」といった気持ちがあって、でも、わたし自分がそうした病気じゃなかったら、こんなにも神さまのことに熱心になることはなかったという、この部分はものすごい矛盾した点なんですよね。。。
洋二郎くんも、そうした種類の自分の苦しみや悩みを「活かす道」はないのかどうか、思索的に相当考えたと思いますけれども、今、洋二郎くんの苦しんだ苦しみ、悩んだ分のつらさといったものは、お父さんの手によってより多くの方に伝えられ、ちょうどわたしがそうであったように、「犠牲」という本を読んだことで洋二郎くんのことを知って救われた思いを感じたり、あるいは洋二郎くんのことを魂の友だちのように感じる方というのが、きっとたくさんいることと思います。
では、次回はまたこの続きについて書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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