神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天の故郷と霊的土台。

2022年08月05日 | キリスト教
【サグラダ・ファミリア】


 随分前のことになりますが、次のような夢を見たことがありました。

 ええと、これもしかしたら前にもどこかに書いた可能性あるんですけど(汗)、わたし自身がすっかり忘れてしまってるもので(^^;)

 地震や津波などで、家が倒壊してしまった町の人々が、再び家を建てて、近所の人々とそのことを喜び祝っているのですが、そこを通りかかったわたしには、その建物のほとんどが土台がしっかりしてないため、いずれまたなんらかの不具合が住居に生まれてくるだろうことがわかっているわけです。

 でも、その人たちの「あ~、これで元の通りになって本当に良かった!」みたいに、喜び輝く顔を見ていると、なんにも言えないというか。もしわたしに本当に本物の親切心なるものがあるならば、「あんたんち、見た目は立派そうだけど、土台がまったくなってないからそこからやり直して建て直したほうがいいよ」とでも言えたのかもしれません。

 でも、そこに住んでる方のほとんどがようやく家を建て直して喜んでるのに、わたしにはとてもそんなことは言えないな……と思ってるところで目が覚めたというか(^^;)

 そんで、目が覚めたあとにわたしが思ったのは、エレミヤやエゼキエルといった旧約の預言者って、本当に大変だったろうな~ということだったかもしれません。

 何故かというと、神さまに選ばれた預言者として、神さまのおっしゃった通りのことを国の政治を司る人や民たちに伝えたというのに――結局、エレミヤやエゼキエルの言った「神さまの言葉」というのは、彼らにとって都合が悪い嫌なことであるがゆえに、投獄されたり軽蔑の目で見られたりと……割の合わないことこの上もない気がして仕方ないからです(^^;)

 神さまから与えられる啓示の素晴らしさと、現実のままならなさ……そのふたつの間で板挟みとなり、エレミヤといった預言者の人々はいかに苦しんだかと思います。


 >>私の生まれた日は、のろわれよ。
 母が私を産んだその日は、
 祝福されるな。

 なぜ、私は労苦と苦悩に会うために
 胎を出たのか。
 私の一生は恥のうちに終わるのか。

(エレミヤ書、第20章14・18節)

 また、旧約聖書のエレミヤの哀歌には、次のようにもあります。

 >>主はいつくしみ深い。
 主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

 主の救いを黙って待つのは良い。
 それを負わされたなら、
 ひとり黙ってすわっているがよい。

 口をちりにつけよ。
 もしや希望があるかもしれない。

 自分を打つ者に頬を与え、
 十分そしりを受けよ。

 主は、いつまでも見放してはおられない。
 たとい悩みを受けても、
 主は、その豊かな恵みによって、
 あわれんでくださる。

(哀歌、第3章25~32節)


 そもそも、イエスさまの弟子だった人々はその多くが殉教していたりと、「もし神も天国もないのであれば」、彼らは苦しんだ分だけ無駄だったのではないか……そう、ノンクリスチャンの方が思ったとしても無理はありません。

 けれど、信仰者の目から見ると、彼らの立場というのは地上にいた頃とは比べものならないほど高い位置――おそらくはイエスさまにより近い霊的な場所――にあり、イエスさまのために殉教した人々と、他の一般の信徒の人々の間には相当の違いがあるのではないかと想像されます。

 また、旧約聖書の預言者の時に悲惨とも言える生き様は、何より、のちに続く信仰者の信仰を鼓舞し、励ますものでもあります。「自分はここまで悲惨じゃなくて良かった」ということではなく……「報いなくして死ぬことの喜び」というのでしょうか。信仰を持たない人々の目にはそのように見えたり、そのことで嘲笑されたり、恥すら負うものであったにせよ、死後の報いがそれだけ大きいことに希望があるというか。

 わたしも昔は、「報いなくして死ぬなんて絶対やだな」と思ってましたし、「殉教かあ~。怖いなあ~」としか思っていませんでした。もちろん、殉教は今も怖いと思う気持ちに変わりないのですが、その頃に思っていた「この世的にもまあまあいい家を建てて住み、天国でもそこそこ住みよい家……ええと、小さくていいから、自分の信仰に見合ったそんな家にでも住んで、平和に暮らしたいな」なんて、漠然と思ってたわけです(^^;)


 >>これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

(ヘブル人への手紙、第11章13~16節)


 おそらく、この世的に成功して、今の人生でも素晴らしい住居に住み、立派な信仰を持っている方もたくさんいらっしゃると思いますし、そのように神さまが祝福されているクリスチャンの方もたくさんおられると思います

 でも、自分に関する限り、いい家に住むとか車を持つ……といったことにあまり興味がなかったせいもあると思うのですが、少なくとも「土台のなっていない見せかけだけ立派な家」に住んだりするよりは、一生仮住まいのままでも聖霊さまに満たされて幸せでいることのほうが大切というのでしょうか(^^;)

 これは、この世的に大成功して豪邸に住んで高級車を持つことは悪だ――とかいう話ではまったくなく(笑)、そうした形で祝福されている方もたくさんいるとは思うのです。でも、自分に関する限り、しっかりした信仰の土台だけ造って終わるといった人生でも、それが神さまの御心であれば、それでいいのではないかとその後思うようになった……といった感じのことだったりします。

 もちろん、これは信仰の問題に関しての比喩なので、「信仰の実を結ぶ者」になるためには、しっかりした土台の上にイエスさまが設計された通りのおうちを建てる必要があります。そして、これもクリスチャンあるあるなことのような気がするのですが、「神さま、この土台造りは一体いつ終わるのでしょう」、「どんな小さな家でも、まずはそちらを造り終わってから、こちらの作業をしたいのですが……」などなど、色々思うところはあるのですが、でもイエスさまの不思議なところは本当に――この建物の土台造りが本当に終わりとなって、次の工程へ移る頃には……何故そんなに苦労して時間をかける必要があったのかがわかるのと同時、その後の展開が極めて速く、神さまの栄光の現れのためにはそのすべてが必要だったことが、わたしのみならず他の人々にもよくわかることだったりします

 これは簡単にいうとすれば、目に見えるサグラダ・ファミリアや他の歴史的な教会堂や修道院が世界遺産に認定されるくらい壮麗で素晴らしいように――心にそのような信仰の建物を持つことは誰にでも可能だ、ということを意味していると思います。

 それではまた~!!






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