神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

心のともしび。

2022年08月10日 | キリスト教

 割と最近(1月くらい前でしょうか)、ラジオで朝の5時から5時5分まで5分間、カトリック教会の『心のともしび』という番組が放映されていると知りました。

 ネットで軽く調べてみると、もう半世紀以上もの歴史のある番組のようで、そのことをまったく知らなかった自分にまったく驚いてしまったというか

 放送を聴いていて、クリスチャンになろうと思った、そう決意した……という方がどのくらいおられるかはわからないのですが、それでも、「早朝の心洗われる5分間」という感じで、ノンクリスチャンの方でもお好きな方は多いのではないかと想像します


『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』


 番組のほうは、『心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない』という聖パウロの言葉によってはじまります。新約聖書、コリント人への手紙第一、第13章の愛に関する一連の御言葉を連想させますが、訳の違いということなのかどうかはわかりません。たぶん、パウロの残した愛の言葉の中で、もっとも有名でないかと思われるのが――「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」……本当に、とても美しい言葉だと思います

 それで、これはカトリック批判ということではまったくなく(汗)、ただ、最初に聞いた時、半分寝ぼけていたせいもあって――少しだけ笑ってしまったのです(嫌な意味での笑いではありません!

『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』……こちらの言葉のほうに関しては、聖書の『あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々すべてを照らします』(マタイの福音書、第5章15節)というイエスさまの御言葉を連想するのですが、そのう……なんと言いますか、自分的に「いつでもあかりをつけられる人ばかりではないのでは……」と、ちょっとだけ思ってしまったというか。

 いえ、その後結構聴ける機会があって、個人的に「とてもいい番組だなあ。「朝から心が洗われるようだ」と感じる方が、クリスチャン・ノンクリスチャンの方両方にいるんじゃないかな」と、そのようには本当に思っておりますm(_ _)m

 また、クリスチャンの方であれば、イエスさまの霊的あかりのことが連想されるでしょうし、その他、聖霊のともしびといったように感じられる方もたくさんおられることでしょう。ですので、繰り返しになりますが、これは決して番組批判ということではなく――一般的に言って、未信者の方が聞いた場合、「気の持ちようによって、心を暗くするのではなく、明るくすることは出来るのではありませんか?」と、そのように言われているように感じる方も多いのではないか……と、そう思ったんですよね(^^;)

 でもまあ、時刻は朝の5時です。この時間、起きていてラジオ聴いてる方というのは、「やれやれ」とばかり寝ぼけ眼で起きてきて、ブツブツ☆思いつつも朝ごはんの仕度をはじめるお母さんや、こちらも会社へ行くために(あるいは漁師の方や農家の方など、色々おられると思います^^;)あくびしながら起きてきて、ぼんやり新聞読みはじめるお父さんや……ここのブログで推奨(?)されてるのは、そんな時にも「イエスさま、ありがとうございます!今朝も目覚めることが出来てまったく感謝です」とか、「眠くてしょうがないことを感謝します」とか、「ああ、会社へなぞ行かずに、このまま眠ってたいぜ、ええい、くそ!……じゃなくて、こうした不満もすべてイエスさまにお委ねし、神さまを賛美します」とか、「弁当作んのめんどくせーな。じゃなくて、主人が怠け者でもなく、毎日働いてくれてることを感謝します。今日も家族全員、健康元気なことでイエスさまを賛美します」――といったものなので、気違い度という意味では、プロテスタントのこちらのほうが気違いじみてるとは思いますが、それはさておき。。。

 朝、明るい気持ちになれない時、どうしたらいいか、ということ。

 たとえばそれが、天気が曇っていて、なんとなく気分的に暗くなるといった、気分障害的なものであればともかく、「会社行きたくない」、「学校行きたくない」、「こんな毎日が続くのであれば死んでしまいたい」というものである時――人間、気の持ちようではなんとも仕様がありません(しつこいようですが、こんなことは番組作っておられる方々もよくよく承知の上のことと思ってますので、ゆえに番組批判ではないのです)。

 もし、外が曇っていて、「なんか心がモヤモヤする」くらいのことであったら、そんな時に『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』と言われたとしたら……「うん、そうだな。人生気の持ちようだ」と思えるかもしれません。でも、学校でいじめにあってるとか、「職場へ行こうと思っただけで、胃がひきつったようになる……でも、がんばって出社しなきゃ」といった事情がある場合――「『暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう』だって?ふざけんなっ!!」となっても不思議はない気がする、というか(^^;)

 さて、この『暗さ』とはなんでしょうか。聖書には、イエスさまのおっしゃった「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(マタイの福音書、第6章22~23節)という御言葉があります。確かに、わたしの視界が眼の病気などで濁っていたとすれば、何かのフィルターでもかけたように、少し暗くなるかもしれません。けれどもイエスさまはこのことを、霊的な意味でおっしゃったのです。すなわち、霊的な意味で視野の明るい人は、その目に映るものすべてが明るいでしょう、と。

 いじめを学校での人間関係がうまくいかないことに含めますと、その他、神経性胃炎になりそうになりながら会社へ行くということも――大体問題は肉体的かつ心、精神に属する問題です。イエスさまはおっしゃいます。それらの問題を、わたし(神)の霊的光によって照らしなさい、と。そうすることで、そのようにした瞬間に問題が1秒後に解決するとは思えないかもしれませんが、問題が神さまの霊的光に照らされる時……何がしかの変化を感じる方は多いと思います。

 それはもしかしたら、「そこまでの犠牲を払ってまで、学校や会社へ行かなければならないのだろうか?」という根本的なことかもしれませんし、あるいはそうした問題をイエスさまの光に照らしていただくことで……いじめという、絶対解決しないと思っていた問題がなくなったり、職場の人間関係や問題が変えられるということもあるかもしれません。

 信仰とは、おそらく究極的に、そのようなイエスさまの愛に信頼しきるということに尽きると思うのですが、イエスさまのそうした愛や光に何かの蜂蜜漬けのように浸る時(聖霊さまの満たしを受ける時)、肉体や心・精神といった問題は残るかもしれないにせよ、魂・霊的領域では、すでに解決がついていると知るのです。

 そして、眼差しを光のほう――魂・霊的領域に向け、目を離さない時、その方はイエスさま、神さまの栄光のみそばで輝き、この世ではどのような問題が許されていようとも、人生で何が大切といって、この方から目を離さないことのみが大切であることがわかると思います。

 肉体的努力によって、いじめという問題があるのに、職場に何がしかの嫌な問題があるのに、心を無理に明るくしよう……というのではありません。わたしたちの肉の努力にはどう考えても限界があります。そして、イエスさまも神さまもそのことをよくご存知です。ですから、「わたしの肉の努力によってではこれが限界です。どうすればいいか、イエスさまが教えてください」と祈りましょう。あるいは教会の方などに祈っていただきましょう。誰か人に自分が抱えている問題を話せただけでも、一歩前進です。神さまの光以上に大切なものはこの世に存在しません。何故なら、それは真夜中に停電になった時にも、唯一人の使える心の、霊的な光であり輝きだからです。

 そして、すべての人がこの光にあってひとつになることが出来ます。ですから、すべての人の心に、今、真昼でもすべてが暗く見える方にも、このイエスさまのあかりが見えるよう、そちらに導かれてくることが出来るよう、心から祈りたいと思います

 それではまた~!!






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