神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

祈りのポイント。

2017年05月26日 | キリスト教
(マーリン・キャロザースさんの『讃美の力』。重要参考図書ですm(_ _)m)


 昔、牧師さんのお証しの中で、「祈っている時にちり紙交換の車が通りかかって気が散るので、ちり紙交換の車が通りかからないようにしてください」と祈ったらその通りになりました……ということがありました。

 もちろん、こう書いても多くの方が「なんだそんくらい☆」とか「ただの偶然でしょう」と思うかもしれません。

 でもわたし、教会へ通いはじめてそんなに経ってなかったので、そのお証しに少し驚いたんですよね。

 というのも、信仰初心者みたいな人がその場にいる場合(集まってる方も少人数だったので余計に)、もっと立派に聞こえる証しをして、イエスこそまことの神であることを確信してもらおう……というのではなく、この素朴なお証しを確かにわたし自身のほうでも今に至るまで覚えているということです(笑)

 祈りが聞かれたと聞くと、「たまたまだろう」とか「偶然だろう」とか、あるいは「祈っても祈らなくても結局結果は同じだったのでは?」と思う方がたくさんおられるかもしれません。

 けれども、信仰の原則というのは「ちり紙交換の車が通りませんように」と祈る時も、「末期がんの癒し」を祈る時にも、実は適応させる信仰の力というのは質として同じものだと思います。

 たとえば、「末期がんが癒された」と聞いても、多くの方はあまり信じないでしょうし、そのために「こんなふうに神さまに祈り求め感謝しました」という証しを聞いても、「じゃあ、他の祈っても聞き入れられなかった人とあなたとで、一体何が違ったというんですか?」といったように、少し意地悪な物思いを持ったりと、そんな反応のほうが多いかもしれません。

 ここでまず、ちり紙交換の件に少し戻りたいと思います。

 まあ、ちり紙交換の車自体、今はあまり見かけなくなって久しいと思うのですが(笑)、あれは大体のところ物干し竿を売る車か石焼き芋の車と同じくらいうるさいものですよね(そして最近は物干し竿売りもすっかり見かけないようなww^^;)

 祈ってる時って精神というか、心のほうが鋭敏になりますから、小さな物音でも普段以上に大きく感じるものですし、これが仏教系とかインド系(?)の宗教ということになると、そんなこともシャットアウトできるくらいに深く神、あるいは「大いなる存在」と意識をひとつにするかのように祈る必要がある、ちり紙交換の音がうるさいということは、そのような精神状態に到達していないからだ……と言われるかもしれません。


 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

(コロサイ人への手紙、第2章20~23節)


 この世界には、毎日滝に打たれるですとか、たとえばインドのアシュラムのような場所で修行を積むですとか、そうしたことで非常に高い精神世界に到達される方がいるというのは事実だと思います。わたし自身、そうした精神世界に到達した結果、気功を操れるようになったですとか、そういったことはあるだろうと思っています。

 ただ、わたし自身が何か特殊な精神修養を積み、炎の上を歩いて足の裏が焼けなかったとしても、神さまに祈らないなら、「まあ、大道芸人として稼いだらいいんじゃない?」くらいの話で終わってしまうと思うんですよね。

 そうではなく、あくまでも一部の人が到達できるそうした領域に頑張って近づくことが神さまへ奉仕することだというのではなく――イエスさまが望まれた方法というのは本当にシンプルで単純かつ、病気で意識不明にでもなっていない限りは、誰にでも毎日行える素朴な方法でした。

 まず、この場合は「ちり紙交換の車が通らなくなりますように」という祈りを聖霊さまを通してイエスさまは聞かれたと思うのですが、主の十字架クリスチャンセンターでは「問題・困難を感謝すること」というマーリン・キャロザースさんの教えを徹底しているので、「このうるさい物音を感謝します」、「でもこのうるさい車が通らなくなったら祈りに専心できてもっといいです」と祈ることがポイントとなるのではないでしょうか。

 また、末期がんですとか、その他「この問題についてはいくら祈ろうと絶対無理だ」ということでも、まずはその許された困難や問題に徹底して感謝し、神さまを賛美してゆきます。わたし自身もそうですが、今現在の間、進行形でまさに起きている苦しみや痛みやつらいことについて感謝するというのは、難しいことです。


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一、第5章16~18節)


 けれど、撤退感謝、徹底讃美と平行して祈ることを続けていくと、神さまにあって最善の結果が現されるというのは本当のことだと思います。

 すると、末期がんであっても癒されたり、癒されなくても小康状態が長く続くことによって、その間にすべてのことを心おきなく行い、周囲の人々に喜びとともに見とられてお亡くなりになるですとか(クリスチャンにとって天国に召されるというのは最善のことでもあります)、その方にとっての神さまがお選びになった栄光が現されていくのではないでしょうか。

 また、その方によっては、自分は死ねばイエスさまとともにいられるのでそれでいいが、「三人いる兄弟のうち、次男の△□だけがイエスさまのことをまだ信じていない……そのことが心残りだ」といったことがあった場合、その方が末期の病気だということを契機にその次男がイエスさまを信じ受け容れたとすれば、これ以上のことはないと思うんですよね。

 つまり、末期がんと聞くと、癒されることが最善の祈りとつい思ってしまいますが、人によって主の栄光の現れには違いがありますし、これはちり紙交換の件に関してもそうです。

 祈ってからちり紙交換の車が通りかからなくなった……というより、もしかしたら「ちり紙交換が一日に何度家の前を通りかかろうともまるで気にならず、祈りに専心できるようになった」ということのほうが、主のみこころである可能性もあるということです。

 何分、人間は弱いものですから、不治の病いといった大きなことでなくても、「人がいつもじろじろ見ている気がする」とか「いつも誰かが自分の悪口や噂話をしている」とか、それが精神の病いにまで高まるほどのものでなくても、わたしたちはそうした小さなことで傷ついては悩むという、とても弱い生き物です。

 けれど、こうした事柄についても「ちり紙交換が通りかからないように」と祈るのと同じ気持ちで祈っていくと、まるで心に小さなバリアが張られたように前ほど小さなことを気にしなくなったり、くよくよしなくなるというのは本当のことですし、とにかく聖霊さまを通してイエスさまに祈っていくと、適宜「その人にとって相応しい、最善の」結果について示しが与えられるというのは本当のことだと思います。

 それではまた~!!





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