【受け狙いで被りものをしてきたのに、誰からも無視され戸惑う牛ガール】
「合わせるのに疲れた症候群」という言葉は、とりあえずわたしが勝手につけたものなんですけど……かなり前に、大体のところ次のような新聞の記事を見かけたことがありました。
簡単にまとめていうと、日本の子供っていうのは「空気を読める子」が「いい子」とされる風潮が他の国の子供と比べても高いそうで、家庭では「親が自分に期待している空気」を読む、学校へ行くと、今度は「友達の間で空気を読み、期待されている役柄を演じる」、また部活をしている子だったら、コーチその他の大人や他の部員たちの「空気を読んでがんばる」――この傾向があまりに強いために、早い子であればまあ、中学くらいで無気力に疲れたり、いじめや何かがきっかけで、高校でそんなふうになってしまったり、あるいは志望大学に入学して、親はこの上もなく喜んでいるのに「やめる」と突然言い出したり、大学までは無事卒業したにも関わらず、そこでエネルギーを使い果たしたみたいになってしまい、一流企業に就職したにも関わらず、半年もしないでやめてしまった……などなど、そういったことの書かれた記事を読んでいて、それはたぶん「合わせるのに疲れた症候群」なんだろうなあ、なんて思ったわけです(^^;)
「人に合わせるばかりでもう疲れた」という経験は、ほぼ間違いなく誰でもあると思います。
でも、簡単にいえば小さい頃からの蓄積ですよね。そのあたりって、ほぼ無意識によるところも多いため、自分自身でもどうにも出来ない。そして、心療内科へカウンセリングに連れていってみると、「今そういう子って増えてるんですよね」なんて言われたりする。
また、子供ばかりでもないですよね。お父さんだったら、仕事場で上司やら同僚やらに「合わせて疲れて」帰ってくる、お母さんだったら「旦那に合わせるのに疲れる、パート先の人たちに合わせるのに疲れる、近所の人や親戚に合わせるのに疲れる」などなど、そんなにマイナスなことばっかりじゃなかったとしても、「あー、わかるわかる。疲れるよねー」というのは、親しい友人たちの合言葉。。。
お父さんはお父さんで、自分なりに問題を抱えて家に帰って来、お母さんはお母さんでなんやかや色々ある、子供は子供で、そんな両親を見ているため、「せめて自分だけでも負担をかけないようにしなきゃ」なんて思い、学校で何かあっても「何もない振り」をする。
こんなことはたぶん、80~90年代くらいからすでに普通にあったことのような気はするものの(それとももっと前から?)、その後、インターネットやスマートフォン、SNSといったものの登場により、いい意味でも悪い意味でも、さらに色々なことがややこしくなっているのかもしれません
この間、今の10代後半くらいから20代前半くらいの子にアンケート調査したところ、「3人にひとりがSNSに疲れている」、「3人にひとりがSNSなんてなければいいと思っている」……みたいな結果が出た、というのを聞きました。
自分的に、結構これ、驚きでしたもちろん前から、フェイスブック疲れとか、ツイッター疲れとか、インスタ疲れ……みたいな話はたま~にちらっと聞いたことはあったものの、やっぱり、普段言えない自分の本音を発信したりするはずの場所が、ハッと気づくとかなりのところ息苦しいものになってるとか、たぶん結構あるあるなんだろうなと思ったというか(^^;)
いえ、今のそのくらいの世代の子って、もう生まれた時から両親がスマホを片手に持って操作してるのを見て育つので、そもそも「自分で選べない」と言いますか、周囲の子供たちがみんなスマホを持ち出したら、当然仲のいい友達とのやりとりが活発になって、最初はものすごく楽しい。
そうなんですよねー。これ、みんな絶対経験ある気がする(笑)。ところが、この最初は楽しいはずのものが、学校だったらいじめの元にも十分なるものだったりして、学校の保健室の先生の話によると、「その部分で最初は傷つけあって、その後どのくらいのことならラインに書いてもいいかとか、そのあたりを学んでいく」ということらしく。。。
簡単にいうと、ラインのメッセージとか(昔はこれ、メールだったのですが、今はもう懐かしい)、普段口では言えないことをつい書いてしまったりする。で、そのことが原因で喧嘩になったりして、「直接本人を目の前にしたら言えないのであれば、ラインにだけ書くのは良くない」とか、そのあたりの匙加減を学んでいく……といったことみたいで、このあたりを通って「残る言葉の文字によって相手を傷つけてはいけない」ということを学んでいくそうです。
時々、「片手で人殺しの出来る時代」なんて言葉を聞いてドキッ☆としますが、もしかしたら有史以来、今ほど「言葉」というものが軽視されている時代というのもないかもしれません。
長くなりましたが、ここはキリスト教について何か書くというブログです
>>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネの福音書、第1章1~5節)
前にも似たようなことを書いた気がするのですが、イエスさまは「言葉でもあられる方」です。創世記は神さまによるこの世界の創造からはじまるわけですが、神さまが「光よ、あれ」と仰せられた時、その「言葉によって」光が出来、イエスさまは霊的な光の源泉そのものでもあられる方です。
ある意味、「言葉を粗末にする」というのは、そのようなイエスさまに対する冒瀆行為にも当たるわけですが、わたしもそんなに普段いい言葉ばっかりしゃべってないので、反省することしきりだったり
でも、話す時には、ある部分それは瞬間的なことだから、ついうっかり不用意なことを口にすることもあるわけですけど、せめても書き言葉であれば、少し考える時間もあるし、携帯の文面などでは出来るだけそういうことを書いたりしないよう、これからも心がけたいと思っています
それではまた~!!
「合わせるのに疲れた症候群」という言葉は、とりあえずわたしが勝手につけたものなんですけど……かなり前に、大体のところ次のような新聞の記事を見かけたことがありました。
簡単にまとめていうと、日本の子供っていうのは「空気を読める子」が「いい子」とされる風潮が他の国の子供と比べても高いそうで、家庭では「親が自分に期待している空気」を読む、学校へ行くと、今度は「友達の間で空気を読み、期待されている役柄を演じる」、また部活をしている子だったら、コーチその他の大人や他の部員たちの「空気を読んでがんばる」――この傾向があまりに強いために、早い子であればまあ、中学くらいで無気力に疲れたり、いじめや何かがきっかけで、高校でそんなふうになってしまったり、あるいは志望大学に入学して、親はこの上もなく喜んでいるのに「やめる」と突然言い出したり、大学までは無事卒業したにも関わらず、そこでエネルギーを使い果たしたみたいになってしまい、一流企業に就職したにも関わらず、半年もしないでやめてしまった……などなど、そういったことの書かれた記事を読んでいて、それはたぶん「合わせるのに疲れた症候群」なんだろうなあ、なんて思ったわけです(^^;)
「人に合わせるばかりでもう疲れた」という経験は、ほぼ間違いなく誰でもあると思います。
でも、簡単にいえば小さい頃からの蓄積ですよね。そのあたりって、ほぼ無意識によるところも多いため、自分自身でもどうにも出来ない。そして、心療内科へカウンセリングに連れていってみると、「今そういう子って増えてるんですよね」なんて言われたりする。
また、子供ばかりでもないですよね。お父さんだったら、仕事場で上司やら同僚やらに「合わせて疲れて」帰ってくる、お母さんだったら「旦那に合わせるのに疲れる、パート先の人たちに合わせるのに疲れる、近所の人や親戚に合わせるのに疲れる」などなど、そんなにマイナスなことばっかりじゃなかったとしても、「あー、わかるわかる。疲れるよねー」というのは、親しい友人たちの合言葉。。。
お父さんはお父さんで、自分なりに問題を抱えて家に帰って来、お母さんはお母さんでなんやかや色々ある、子供は子供で、そんな両親を見ているため、「せめて自分だけでも負担をかけないようにしなきゃ」なんて思い、学校で何かあっても「何もない振り」をする。
こんなことはたぶん、80~90年代くらいからすでに普通にあったことのような気はするものの(それとももっと前から?)、その後、インターネットやスマートフォン、SNSといったものの登場により、いい意味でも悪い意味でも、さらに色々なことがややこしくなっているのかもしれません
この間、今の10代後半くらいから20代前半くらいの子にアンケート調査したところ、「3人にひとりがSNSに疲れている」、「3人にひとりがSNSなんてなければいいと思っている」……みたいな結果が出た、というのを聞きました。
自分的に、結構これ、驚きでしたもちろん前から、フェイスブック疲れとか、ツイッター疲れとか、インスタ疲れ……みたいな話はたま~にちらっと聞いたことはあったものの、やっぱり、普段言えない自分の本音を発信したりするはずの場所が、ハッと気づくとかなりのところ息苦しいものになってるとか、たぶん結構あるあるなんだろうなと思ったというか(^^;)
いえ、今のそのくらいの世代の子って、もう生まれた時から両親がスマホを片手に持って操作してるのを見て育つので、そもそも「自分で選べない」と言いますか、周囲の子供たちがみんなスマホを持ち出したら、当然仲のいい友達とのやりとりが活発になって、最初はものすごく楽しい。
そうなんですよねー。これ、みんな絶対経験ある気がする(笑)。ところが、この最初は楽しいはずのものが、学校だったらいじめの元にも十分なるものだったりして、学校の保健室の先生の話によると、「その部分で最初は傷つけあって、その後どのくらいのことならラインに書いてもいいかとか、そのあたりを学んでいく」ということらしく。。。
簡単にいうと、ラインのメッセージとか(昔はこれ、メールだったのですが、今はもう懐かしい)、普段口では言えないことをつい書いてしまったりする。で、そのことが原因で喧嘩になったりして、「直接本人を目の前にしたら言えないのであれば、ラインにだけ書くのは良くない」とか、そのあたりの匙加減を学んでいく……といったことみたいで、このあたりを通って「残る言葉の文字によって相手を傷つけてはいけない」ということを学んでいくそうです。
時々、「片手で人殺しの出来る時代」なんて言葉を聞いてドキッ☆としますが、もしかしたら有史以来、今ほど「言葉」というものが軽視されている時代というのもないかもしれません。
長くなりましたが、ここはキリスト教について何か書くというブログです
>>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネの福音書、第1章1~5節)
前にも似たようなことを書いた気がするのですが、イエスさまは「言葉でもあられる方」です。創世記は神さまによるこの世界の創造からはじまるわけですが、神さまが「光よ、あれ」と仰せられた時、その「言葉によって」光が出来、イエスさまは霊的な光の源泉そのものでもあられる方です。
ある意味、「言葉を粗末にする」というのは、そのようなイエスさまに対する冒瀆行為にも当たるわけですが、わたしもそんなに普段いい言葉ばっかりしゃべってないので、反省することしきりだったり
でも、話す時には、ある部分それは瞬間的なことだから、ついうっかり不用意なことを口にすることもあるわけですけど、せめても書き言葉であれば、少し考える時間もあるし、携帯の文面などでは出来るだけそういうことを書いたりしないよう、これからも心がけたいと思っています
それではまた~!!
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