神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしなら、赦せるだろうか。

2021年10月26日 | キリスト教

 以前、クリスチャンの方のお証しで、旦那さんがギャンブルによって結構な借金を抱えていたことが発覚した……のを赦した、みたいに書いてあったのを読んだことがあります

 細かい部分については忘れてしまったのですが、奥さまはもちろん、このことに物凄くショックを受けるのと同時、教会ではマーリン・キャロザース先生の「すべてのことを(良いことも悪いことも)神さまに徹底感謝する」ということが言われているので、まずは感謝できないながらもそのことを感謝することにした……でももう、感情としては絶対許せないし、「自分はなんでこんな人と結婚してしまったんだろう」とか、色々こみあげてくるものがあったそうです。

 また、キリスト教では、イエスさまが「人を裁くな(何故ならあなた方も裁かれないためである)」とおっしゃっていますし、「七度を七十倍まで赦す」という言葉もあることから――怒鳴って怒りたい気持ちをぐっと抑え、旦那さんのことを許すことにした。ところがその後、借金を返すメドも立ちそうだという頃、再び別口で旦那さんがギャンブルで借金のあることがわかった……わたしも読んでいて、「確かにこれはもう許せないなあ」みたいに思いました。

 金額について書いてなかったと思いますが、それでも数十万単位でなく、百万単位だったと思いますから、これはとても奥さまとしては許しがたい裏切りと思うわけです。

 また、人のおうちの家庭のことなら、誰でもなんとでも言えたりもするわけですよね。「ギャンブルっていうのは病気だからね」とか、「そういう専門の病院に一度、旦那さんを連れていったほうがいいよ」など、色々……。。。

 でも、奥さまはやっぱり、教会にしっかり繋がってイエスさまを信じておられる方なので、頭が爆発しそうなほどの怒りを覚えながらも――「離婚」ということもちらと頭をよぎりつつ、やはり旦那さんを赦すことにしたということでした。

 いえ、本当によくお赦しになられたなあと思いますし、わたし自身、このお証しを読んでいて、心に恵みを受けた覚えがあります。何故かというと、わたしにも「あいつのアレが許せない」とかいう、ほんっとーにちっぽけなことなんかがありまして……でも、この方の「旦那さんの赦せない所業を赦す気持ち」、「面白くない気持ちを抱えながらも、それでもごはんを作ってあげたり、その他日常の色々をし続けてあげたのだろう」といったことを思うと、自分のそういったことなど、本当につまんないことだなと思ったのです。


 >>そのとき、ペテロがみもとに来て言った。

「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」

 イエスは言われた。

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」

(マタイの福音書、第18章21~22節)


 いえ、「人を赦す」というのは、言うは易し、行うは難しで、本当にとても難しいことだと思います。また、単発で一度くらい何かの罪を許した……というのではなく、相手が「おまえ、またかよっ!」みたいなことを二度どころでなく、三度も四度も同じことを繰り返してきたとしたら――今度は向こうがあやまってきても、「ほんとに悪いと思ってんのかよ!?」みたいにもなるような気がします。

 この七度を七十倍というのは、言うまでもなく、490回までは赦して、491回目以降は赦さなくてもいいよ、ということではなく、本当に心から向こうが悔い改めてあやまってきたのなら赦してあげなさい……ということですよね。制限を設けることなく、何度でも。

 また、それが「神さまの人間に対する赦し」ということでもあり、自分自身もそのくらい(イエスさまの十字架の血潮の力によって)罪赦された存在であることを覚え、同じように相手のことも許してあげなさい――ということなのだと思います。

 まあ、わたしなどは修行が足りないので、「人間、たまには怒ることも必要だろう」と思う部分があったりもするのですが(不信仰☆)、本当に、イエスさまに対する徹底感謝の必要性について感じるものです。


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一、第5章16~18節)


 マーリン・キャロザース先生の『獄中からの讃美』とか、『讃美の力―神の力を体験する道―』(ともに、生ける川の水出版より)といった本には、「どんな感謝できないことも、特に聖書のこのふたつの聖句を根拠に、徹底感謝し、神さまを讃美し続けたところ、その後人生の色々なことが変わってきた……」といったことについてたくさん書いてあります。マーリンさんの本の中にあるエピソードではありませんが、わたしの頭に今パッと思い浮かんだお証しだと、横暴な上司のことを感謝していたら、その人がクビになって別の部署に移動になったとか、あるいは神さまにお祈りすることで、心がまったく折れることなく、相手が何を言ってこようと「カーン!カーン!」と金属バットでボールを弾き返す感じで、むしろ強い態度に出れるようになった……などなど、「あんな人が絶対変わるわけがない」という人が自分に対してだけ何故か態度が変わった、自分の心が強められ、相手に不安感や緊張を感じなくなった――などなど、その後、事態が良いほうへ変わったといったようなことです。

 また、これも今思いだしましたが、クリスチャン同士でご結婚されてるご夫妻で、お互いにマーリン・キャロザース先生の感謝と讃美の教えを日々実践している……ところがですね、ある時旦那さんが奥さまに言ったわけです。「△□が□△じゃないのは、おまえがそのことを本当は感謝してないからじゃないか」みたいに。このお証しも読んだ時、「うわー。絶対そんな言い方されたらムッタリするな」と思いましたが、この奥さまは謙虚なんですね、きっと。そうかもしれないと思い、感謝できないことを感謝するようにした――ということだったと思います。

 そのですね、自分的にマーリン・キャロザース先生の感謝と讃美の実践は素晴らしいと思ってますが、でも人に強要したり、そのことで「あんたがちゃんと神さまに感謝してないから、問題の背後にある問題解決の手を見ないんじゃないのか」みたいに、裁こうとはまったく思わないわけです。ある意味当たり前のことですけど(^^;)

 また、「うちの旦那があーでこーでそーで、もーっほんっとにアッタマにくる!!」とか、巷では本当にもうあるあるです。相手の方がクリスチャンでもそうでなくても、ただ共感してうんうん言って相槌を打ってたらいいんしゃないかな~と思ったりもします。

 あとは、相手の方が「ゆるせな~いっ!!」と言ってても、それはそれで全然いいと個人的には思うんですよね。「そりゃ許せなくて当たり前だって」ということのほうが大半でしょうし、話を誰かにありのまま聞いてもらえるだけでも、ストレスの緩和には役立つわけですから。

 わたし自身は相手がクリスチャンの方で激しい怒りを誰かに燃やしていても、結構その「ありのまま」の感情も大切じゃないかな、くらいの感覚かもしれません(=「あんた、それはクリスチャンとしてどうなの」みたいに、態度で示唆しようとすら思わない)。これは他のところでも書いたことですが、「赦そうと思っても赦せない」ことは誰しもあります。祈りの中でそのことをもイエスさまに感謝し、神さまに賛美し、聖霊さまにすべてをお委ねする……でも感情的に気が狂いそうになりながら一生懸命「赦す、許す、でも許せな~い!!」とか、歯ぎしりしつつ、不健全に頑張り続けるよりは――「今、わたしは絶対許せないと思ってる。でも、それは許せる時が来てないからで、このまま許せるよう祈りは継続しつつ、『その時』が来るのを待とう」というのも、大切な姿勢ではないでしょうか(先に、「最終的には赦す」というゴールだけ指し示すのではなく、その過程にある葛藤については共感的な態度で一緒に受け止めたほうがいいということです)。

 大切なのは、「今現在」その自分にとって害になる感情をなるべく遠ざけて、自分自身の思考にとって毒にならないよう、どこか横に置いておき、もっと他の楽しいと思えることや嬉しいと思えることについて、ポイントポイントで増やしていく……ということだと思います。今、サウナとか流行ってますけど、温泉いったりして、「あ、今少しの間だけど、あいつのした悪行をわたしは忘れていたぞ、うん」といった方向に話を持っていくとか、そうしたアプローチも大切なことですよね。

 誰かを赦すよう努力することと、誰をも裁くなということは、おそらくセットになっていることではないかと思います。

 それではまた~!!






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