神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

アガペーの愛。

2016年08月11日 | キリスト教
【キリストへの嘲笑】フラ・アンジェリコ


「あがぺーって何?あっかんべーの仲間??」といった感じですが(笑)、ギリシャ語では一言で<愛>と言っても、他にフィリアー(友愛、恋愛感情を含まない友への愛)、エロス(恋人同士の間に見られるような愛)、他にストルゲー、家族愛といったように、表現する言葉が違うとのことでした。

 そして、アガペーの愛というのは、隣人に対する愛、神さまがわたしたちを愛してくださる愛、無償の愛、犠牲的な愛……といったことを意味するようなのですが、わたしがその昔牧師さんからお説教を聞いていて印象的だったのが、アガペー=<理性の愛>ということだったでしょうか。

 フィリアーやエロスやストルゲーについては、あまり説明がいらないような気がするのですが、アガペーの愛って少しわかりにくいですよね(^^;)わたしが牧師さんのお説教で聞いた文脈としては、たとえば、お姑さんがお嫁さんを気に入らないとか、お嫁さんがお姑さんを気に入らないといった場合、その「気に入らない」という感情はそのままでいいから、アガペーによる愛、理性による愛によって相手と接することが大切なのだ……といったことでした。

 つまり、今にして思えばそれこそがイエスさまがわたしたち人間に対して捧げてくださった愛だと思うのですが、まあ、わたしたちが同じように自分にとって「価値がない」、「その存在自体をマイナスに感じる」といった人に対して、アガペーの愛で接するというのは――ようするに「自分に死ぬ愛」ということですよね(^^;)

 もう少し具体的なたとえ話をするとしたら、たとえば老人福祉施設に入っているおじいちゃんやおばあちゃんに毎週会いにいく……といったことでもあるかもしれません。もちろん、喜びをもって毎週そのようにしているという方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしが人からお話を聞く限り、「面倒くさいけど会いにいく」とか、そうした方のほうが多いような気がします。

 でも自分的に「行きたくないけど、嫌々ながらも会いにいく」というこのことこそがアガペーの愛にも近いものだと思うんですよね。

 もちろん御本人は「無償の愛っていうようなご立派なもんじゃないよ」とおっしゃるかもしれません。でも、愛というのは……実際そういうものなのではないでしょうか。時に「嫌々ながらも一緒にいる」という、その「一緒にいる」ということが愛というものなのだと思います。

 つまり、クリスチャンとしてはそのような気持ちですべての人と接することが大切なのかもしれません。

 本能的に「あの人、あんまり好きじゃないな」、「ソリが合わないな」、「顔見てるだけでなんかムカつくな」……と感じたとしても、まずは悪口としてそうしたことは口に出しては言わないようにするというのが理想的ですし、また、そうした本能的に感じる気持ちは一旦脇に置いておいて、「よし、こんな時こそアガペーの愛だ!」と思い定めて相手と接するようにすることが大切、というか(^^;)

 もちろんこれは、文字で数行こうして書くほど簡単に実行・実践できることではないですし、やっぱり祈りの中で「わたしはあの人のことが気に入りません。けれども微笑みをもって接することが出来るようわたしを変えてください」ですとか、そのように自分から変わりたいと神さまに切に願うとか、そうした中で少しずつ変わっていくこともあるし、その後もやっぱりイライラするけど相手と接してゆくとか、そんな感じのことかもしれません。

 とりあえず、相手がクリスチャンの方でもノンクリスチャンの方でも、突然祈っている対象の方が自分に対して態度を変えた……といった経験は、わたし自身はあまり経験したことがないのです(^^;)

 いえ、他の方のお証しとしては、「それまで自分に対し態度の悪かった方が、祈っていく中で変わっていった」――といったお話は聞いたことがあるにしても、わたし自身は唯一人間関係に関してのみは祈りが聞かれる率が低かったりします

 なんというか、それ以外のことでは神さまが祈りを聞いてくださっていると実感できる経験っていうのはかなりあるのですけれども、人間関係というのは何分自分だけでなく相手の存在がありますので、神さまは人間ひとりひとりの自由意志を尊重されるという見地から見て、なかなかその部分に関しては難しいのかな……と思うことがあったり。。。

 なんにしても、神さまは当然わたしたち人間とは違いますから、この世界のどんな人のことをも深い愛で愛してくださっているという意味において、一生懸命歯を食いしばって我慢して犠牲的にわたしたち人間を愛する……というのではなく、当たり前のようにアガペーの愛によってわたしたちを包んでくださっているわけです。けれど、わたしたち人間のほうでは自分たち同胞を愛そうとする場合に、イエスさまと同じように出来ることが理想とわかっていながらも、感情的な問題としてなかなかそう出来ない――ということが問題なのだと思います。

 イエスさまは、御自分にとって価値がない、取るに足りないと思われて当然の人々に嘲られ、唾をかけられ、辱めを受けて十字架にかかってくださいました。それもまた全人類にとって自分の血の贖いが必要との、御自分の使命をまっとうするため、そのように耐え忍んでくださったのでした

 そのことを思えば、地上のどのような人々とも兄弟愛で結ばれるべきじゃないか……いや、イエスさまの苦しみを思えばどんなことだって出来るはずだ――と思うのですけれど、マハトマ・ガンジーが「キリスト教徒が全員キリスト教徒らしかったとしたら、インドにヒンズー教徒はひとりもいなかったことだろう」と言ったように、神さまのアガペーの愛を実行・実践するというのは、本当にとてもとても難しいことだと日々痛感するものです。。。

 ただ、「そのような者とならせてください」と祈ることは出来ますし、にも関わらず、今日こんなことがありました、きのうあんなことがありました……なんていうふうにイエスさまに聖霊さまを通して御報告しつつ、常にへりくだって謙遜な心がけで生きる……というのが、とりあえず今の自分にできる精一杯のことかなあという気がします(^^;)

 ではでは、次回は「神さまの御前に土台を確かにする」というタイトルで何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!





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