>>1989年4月11日(火)
Y先生の言葉四回目。(1)対等性がない――自分と同じ年代の人と同じ生活感覚をもてない――ということは、治療において重要なポイントである。(2)幼児性のあるきみは、友人関係において<親>づくりでなく<友人>づくりをすることが重要である。友人にしがみつくのではなく、大人としてのつきあいかたをする。
1989年4月12日(水)
目を覚ました。12時に出かけないと、3時までのFクラブの新入生勧誘には参加できない。そう考えて、内心、どうせきみは行く気がないのだろうと改めて思う。あと一年くらいでおまえの大学、いやFクラブの生活も終わり、残すはとてつもない孤独と仕事。なぜ、おまえは参加しない。ぼくは踊るように着がえて、頭がくさくなったり、目が醜悪なこわばりを示したり、手がくさくなったり、頭痛がしたり、胃腸の調子がわるくなっておならが出たり、吐き気がしたりするのを承知の上で家を飛びだした。
友だちをつくり、友だちに会い、孤独な異端者から解放されるという、いつもとかわらぬ目的をもって、ぼくは学校へ向ったのだ。だが、どうして異端なのだろう。ぼくは車の車種を知らない。ファッションを知らない。草木を知らない。色彩感覚がない。人々の目を知らない。アルバイトを知らない。一人暮らしを知らない。生きる喜びを知らない。友人を知らない。ぼくはやはり普通ではないようだ。根なし草の無国籍者が厚木のホームにおりてから学校行きのバスターミナルまでかける。ぼくは見られるいたみに耐えて歯をむきながら、この完全なる分離された隔絶感、大衆のうねる大波のエネルギーをうけとめる以外になかった。
バスに乗ってようやくFクラブの新入生勧誘の場にたどりついた。当然ぼくは、声を出したくないから勧誘は行なわず、M子の仕種ばかり気にしていた。しかし、それにしても紅潮したすばらしい笑顔といい、性格のよさといい、M子はやさしさと残酷さをそなえた十九歳の女性らしさを感じさせた。対人恐怖が出てくる秒よみ段階で、S君やH君と出会えたのは、ほんとうにラッキーだった。
ぼくは、彼らのお茶のみに懲りもせず参加した。H君の車に新一年生三人とS君とぼくが乗る。ぼく以外の五人がトランクに乗ったS君の奇態ぶりに笑う。だが、ぼくはまた、一人異国の星の子であった。他人の笑うときに笑い、他人の泣くときに泣くような機知をぼくはそなえていなかった。ついに調子をくずし、先に帰ってしまったS君をうらやみ、いっしょに帰ってくれたI君に友情を感じ、リーダー役のM子には何か気まずさを感じ、帰宅し、やっと人心地がついたようなていたらくであった。
<A大学に入ってすでに二年留年し、三年目の四月を迎えた洋二郎は、休学届けを出していたものの、孤独をおそれて、Fクラブにだけは出かけていた。しかし、大学というところは、年ごとに確実に世代が新しくなっていくところだから、入学当時に知り合った同年齢の友達が卒業して散ってしまう時がくるのは、避けられないことだった。だから洋二郎は、Fクラブに出かけられるのは、この年いっぱいが限度だという危機感を抱いていた>
(『犠牲(サクリファイス)~わが息子・脳死の11日~』柳田邦男先生著/文春文庫より)
洋二郎くんの精神科医の先生による診断名のほうは「神経症」ということだったのですけれども、たぶん、これは1989年当時はまだ「社会不安障害」っていう言葉がなかったと思うので、「神経症」ということだったのかな……と思ったりもします。
もちろん、この「社会不安障害」というのも、大きな枠組みとしては「神経症」に分類されるわけですけれども、おそらく自殺することばかり考えていて、睡眠時間も少なくあまり眠れていない……という状態で、「神経症」に加えて洋二郎くんは「鬱病」でもなかったかと思われます。
そして、この「神経症」って一般の方に説明するのはとても難しいのではないかという気がしています。「神経症」っていう名前だけ聞くと、「とても神経質な人がなる病気?」といったイメージですけれども、たぶん「神経症」の中でよく知られている症状としては、「何度も手を洗う(何度手を洗っても汚れているように感じる)」、「鍵をかけ忘れたのではないかと繰り返し疑う」といった強迫性障害(強迫神経症)があるかもしれません。他に高所恐怖症や先端恐怖症なども「神経症」に含まれますし、こうして見ていくと「なんとなくわかる気がする」という方もたくさんおられるのではないでしょうか。
わたしもそうだったんですけど、十代の頃に学校の集団生活のことで「つまずく」と、何かに<こだわりを持つ>という症状が出てくることがあると思うんですよね。なんとなく数名のグループに属し、とりあえずそこにいれば安心だ……といった「安心感」をある程度持って毎日登校できるといいんですけど、こうした「安心感」を持てる所属グループがなかった場合、毎日が不安の連続になると思うんですよ(^^;)
何かのことで班分けをするといったことがあるたびに、自分はどこかに入れてもらえるだろうかとか、こうした「不安」って、たぶん大人になってから社会に出て、何かのセミナーへ参加し、講師の方が「では、いくつか班に分かれて話しあってください」……という時に「自分の意見をうまく表現できるだろうか」といった不安とは、自分的に別物だなという気がしています。
やっぱり、十代の思春期の頃に持つ「不安」や「緊張」には独特のものがあると思うんですよね。仮にもし「いじめ」といったものにあっていたとしても、「そんならもっと早くなんで親とかまわりの人に言わへんかったの!」と言われても……十代の頃って特に、「それをどう言葉で表現したらいいのか」がわからないというか、喉に言葉が詰まって出てこないというか、頭や心は悩みでいっぱいなのに、それを表現する適切な言葉を見つけられない――というのでしょうか。そして、ある音楽のワンフレーズ、あるいは漫画などで自分と似た状況の登場人物の言葉に共感し、「これ、わたしのことだ!」みたいなことがあると、その曲や漫画を繰り返し聞いたり読んだりって、誰もが経験のあることだと思います
洋二郎くんはお父さんの職業も影響してか、文学青年だったように思うのですけれども、やっぱり文学世界に救いを求めるっていうのは、そうした「自己表現」とも関わりがあるように感じます。やっぱり、自分の悩みとリンクする物語を読むと、そうした絶望の中にあっても光や救いを求めることには意味があるとか、あるいは主人公が悩みの中で仮に死ぬにしても、物語の中の<彼>が死んだからこそ、自分は生きなければならないとか……心の中で色々な想像の羽ばたきがあると思うんですよね。
そしてそうした想像の羽ばたきが、「とりあえず明日も生きよう」、「生きてみよう」という力になることがある――これはたぶん文学が持つ力の中でも、かなり大切な役割だろうと思います。
「神経症」ということに話を戻したいと思うのですが、神経症の症状の中には、対人恐怖や視線恐怖や表情恐怖といったことも含まれます。これは「人が自分をどう思うか」ということでもあるわけですが、やっぱり、十代の頃にあったことが原因でこうした病いを発症すると、それはもうほとんど本能的なもの、反射神経とも結びついているくらいのものになるので、「治る」とか「治す」といったことは、本人にはほとんど不可能のようにしか思えない強い症状として出てくると思います。
対人恐怖や視線恐怖、表情恐怖といった話になると、多くの方が誰かしらに対して大なり小なり同じものを感じられることがあると思うので、こうして考えていくと「神経症」といった病気も共感できる、わかりやすいもののように感じられると思います。
簡単に説明したとすれば、自分の親との関係が良好であった場合、親や他の家族などにはあまり「恐怖」や「緊張」を感じなかったとしても、友人に対しては1~10段階で表現した場合、1とか2くらいの「恐怖」や「不安」はあるかもしれない……という場合があるのではないでしょうか。つまり、同じクラスの友達でも、あまり仲の良くないグループの子と話したり、何か共同作業をするといった時には、「緊張」や「不安」が3とか4とか、場合によっては5~7くらいまで上がることもありますよね。そして、友達がいなかったりすると、常にこの「恐怖」と「不安」が9とか10なんですよ(^^;)
そうした精神状態で毎日学校へ通うというのは、はっきり言って「地獄」です。ただ、わたしもそうでしたけれども、きっと洋二郎くんも「こんなのは本当の地獄じゃない。世の中にはもっと大変な人や苦労している人がいる。こんなことくらいでへこたれちゃいけない」……みたいに思っていたのではないでしょうか。でも、そうした状況がいつまでも改善されないと、やっぱりなるんですよ。「もっと大変な地獄がこの世には存在しうるだろうけど、自分にとっては今のこの状態こそが<地獄そのもの>だ」といったように。
そして、こうした「恐怖」や「不安」や「緊張」が常に9~10くらいでいると、どう普通に考えても、やっぱりなんらかの症状が精神と体の両方に出てくるものなのだと思います
「神経症」もそうだと思うんですけど、他に「鬱病」や「統合失調症」などにしても、他の身体の病気と違って「共感してもらえない」とか「理解してもらえない」といった意味で、二重の不幸というか、苦しみがあると思うんですよね。わたし自身も不謹慎ですけど、それが何か死ぬほどの病気であったとしても、「ああ、そんな病気になって可哀想に!」みたいになってもらえるなら、そういう種類の苦しみを苦しみたかったなと思ったことがよくありました。
わたしが昔、カウンセリングにかかっていた頃、先生が「神経症」の症状のひとつとして、「ごくりと唾を飲みこむ音が気になるあまり、強い対人恐怖を持つ場合がある」と話されていたことがあったんですけど……たとえば、物を食べる音の咀嚼音とか、一度人に「あんた、食べる音汚いなあ」とか言われると、仮にそれほどでなかったとしても、口臭や体臭が自分ではわかりにくいように、「人から見た場合そうだったらどうしよう」みたいになりますよね。
十代の頃に10段階で9~10くらいの「不安」や「恐怖」や「緊張」にさらされていた場合、その中でちょっとしたことがきっかけで、「自分は臭いのではないか」とか「(実際にはそうでなくても)口臭がするのではないか」……といったことが強迫観念にまで高まり、絶えずその症状がいつでもまといつき、それが病院で相談すると「神経症」と呼ばれるくらいに強いものだと、本当に治るんだろうかと思うと思います。
わたしも結局のところ「心身症」は治りませんでしたし、ただ、自分の行動が制限されたり、人間関係が制限されるのを「あるがまま」に受けとめるようになったというそれだけでした。柳田先生御自身も書かれていたように「三十歳を越えるとこうした精神病の症状というのはやわらぐ」みたいなことを、わたしも聞いたことがありました。
でも、わたしの場合はまったくやわらぎませんでしたし、単に自分に出来ないことが増え、活動範囲がどんどん狭くなっていくのを「あるがままに」受けとめた、ようするに諦めることにすることがようやく出来たというだけでした。
これがどのくらい大変かというと、自分で「もっと努力すべきだ」、「まだ努力できるのではないか」と追い込む時期が過ぎ、「ここまで頑張っても自分に出来たのはここまでだった」と受け止め、「じゃあ、自分はこれとこれは出来ない」、「でもこちらに関してはまだ出来る余地がある」といったように分析し、「本当はもっとこうしたい」、「病気じゃなければもっとこうも出来たのに」といったことは一切手放すということです。
いえ、ここまでならまだしも、精神に関する病気って周囲の理解を長期に渡って受けるというのが難しいので、「あんたなんかまだ全然努力してない」とか「もっと努力できるはずだ。ほら、そこのクリーニング工場では身体障害の子がたくさん働いてるけど、ああした人たちをあんたも見習え」……的なことを言われり、心の中で思ったりする人がたくさんいる、というのが実際の現実なのではないでしょうか(^^;)
では、次回はまたこうしたお話の続きからはじめたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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