
【悩み】ヨゼフ・イスラエルス
>>私も妻も、彼が心を病んでいたことを、中学高校時代には愚かにも気づかなかった。
その最初の兆候は、退院直後にすでに出ていたように思う。退院で眼の検査や投薬を受けていたのだが、主治医から「もうほとんどよくなりました」といわれても、洋二郎は、「右眼の視野の中央付近に、黒い点があって邪魔になる」といっていた。ある日、年輩の男の医師が代診で外来を担当していたとき、洋二郎が「黒点が消えないんです」というと、その医師はもう一度検眼鏡をのぞいてから、「眼球にはもう傷はないんだから、そんな黒い点なんか見えるはずがない」といい切った。
「でも、黒いのが見えてうるさいんです」と、洋二郎は繰り返した。
「ないものはないんだ。気のせいだよ。そんなこと気にしちゃ駄目だ」
医師は叱りつけるような口調になっていた。
洋二郎は黙ってしまった。
いまなら私は医師に対し、「患者が黒いものが見えるといっているんだから、ほんとに気のせいなのか、気のせいならなぜそう見えるのか、ちゃんと調べて説明してください」と議論を吹っかけるだろうが、その頃はそうするだけの知識も勇気もなかった。帰り途、洋二郎は、「あんな奴、医者じゃない」と怒りをぶちまけていた。
あの黒点が何なのか、検眼鏡には見えないほど小さな傷が残っていたのか、それとも失明恐怖という心理的な傷がそういう黒点をつくっていたのか、いまとなってはどちらなのかはわからないが、その後半年ほど続いたあの黒点への彼のこだわり方に、神経症の徴候を読み取るべきだったのかもしれない。実際、その時期を境にして、それまで天真爛漫で明るかった彼の性格が、内向的で暗い方向に急速に変わって行ったのだから。やがて高校三年になった頃には、いつもどこかぼーっとしていて、受験勉強も手につかないようになっていた。
心の病いがはっきりと表面化したのは、一浪の後にA大学に入り、年も明けて二月になってからだった。1988年、20歳の春だった。クリスチャンではないがキリスト教のサークルに入り、その修養の合宿とかで、伊豆のほうに二泊三日の旅行に出かけて帰った日の翌日の午後のことだった。私は仕事で外出中で、家には妻と長年来ていたお手伝いさんがいた。
洋二郎は合宿中に対人関係で辛かったらしく、そのことを二階の部屋に顔を見せたお手伝いさんに話していたのだが、お手伝いさんが台所に下りた直後に、日頃体力をつけるために自室で使っていた鉄アレイを窓に投げつけてガラスを壊し、そこから飛び降りようとしたのだ。物凄い音にお手伝いさんと別室にいた妻が駆けつけて、洋二郎を力づくで押さえ続けた。三十分後に帰宅した私は、破れたガラス窓をとおして見える西日に向って、「太陽に向って走るんだ!」と叫んでいる洋二郎の精神状態のただならぬことを理解し、すぐに親しい精神科医のM先生に電話をかけて、指示を仰いだ。
その日は、駆けつけてくださったM先生が安定剤の注射をし、翌日になってから洋二郎をH市のA病院に入院させた。こうして、洋二郎の精神科の治療が始まったのだが、なんではやく気づいてやれなかったかと、断腸の思いはいまも消えない。「中学・高校時代は生きられた時間がなかった」と、その後、洋二郎から何度いわれたことか。
(『犠牲(サクリファイス)~わが息子・脳死の11日~』柳田邦男先生著/文春文庫より)
引用が長くなってしまい申し訳ないのですが(汗)、>>「中学・高校時代は生きられた時間がなかった」という言葉……個人的によくわかります
わたしの場合、中学時代は楽しく、高校時代は暗黒だったというパターンなのですが、その両方が「生きられた時間がなかった」ということは、相当に苦しいことだと想像できます。
人にもよるかもしれないのですが、中学時代に何か躓きがあって学校が楽しくなかったり嫌だったりした場合……そしてそれが高校へ進んでも似た状態が続いた場合、途中で挫折するのが普通と思います。というか、どんなに自分で頑張って学校へ通おうとしても、体か精神、あるいはその両方になんらかの異変があって気力が続かないというのが普通じゃないかな……と思うんですよね。
それを六年以上にも渡って親に隠し続けた――この気力は本当に凄いものだと思います。まず、第一は親御さんに心配をかけたくないという一心だったのではないでしょうか(わたしもそうでした)。その次か三番目くらいに来るのがたぶん、「仮に学校を中退したらその後どうしたらいいのか」というのがあると思います。
洋二郎くんはわたしより年上ですから、この年代、今みたいにフリースクールとか、大学へ進学するための高校卒業認定資格を取得してそちらに進むとか、一般的でなかったと思うんですよね。わたしの時代でもそうした情報ってまわりにほとんどありませんでしたから、高校を卒業したという認定資格を受けることが出来る通信制の高校とか……なんとなく聞いたことあるような、ないようなという、そんな感じでした
なので、わたしより上の世代の洋二郎くんは、「ここで中退して人生の落伍者になるわけにはいかない」といった気持ちがより強かったのではないかと想像します。。。
たとえば、中学時代に(いじめその他のことで)人間関係で躓いても、高校時代はその失敗を踏まえて友達も出来、それなりにまあまあ、あるいはまあまあ以上の学校生活をエンジョイできたとかだといいと思うんですけど……この思春期という特別な時期に精神を病んだりすると、その後の回復というのが難しい気がするんですよね。
ええとですね、わたしも高校時代に心身症になり、そのことが原因で働いたり出来なくなったため、転職を繰り返してどん詰まりの状態になった時、初めて母にはそのことを話しました。でも、柳田先生もおっしゃっているように、わたしの母も>>「そのことにまったく気づかなかった」と言いました。
たぶん親にとってこれは相当つらいことで、そもそもの問題の原因になった思春期の頃に相談したりしていたら良かったかもしれないんですけど……親としては「今さらそんなこと言われても
」という部分もあり、わたしは直接的にそういう言い方はしなかったものの、「あの時親が何かを察して助けてくれていたら、今わたしはこんなことになっていない」というのでしょうか(^^;)
でも、本を読んでいると、柳田先生は凄いなって思いました。何故かというと、こうした形で息子さん、あるいは娘さんと向き合うことの出来る親御さんって少ないんじゃないかなって思うので……ちなみに、うちの両親はふたりとも、この件とは向きあうことをせずに速攻逃げました
というのも、うちの父は若い頃より浮気を繰り返すといった感じの人だったため、わたしがある程度大きくなると、大体中学生くらいの頃から父の浮気に対する愚痴や、仕事の人間関係である愚痴などを全部話して聞かせる……という母はそうした感じであったため、この話でいくと、娘が死ぬとか自殺するとか、そういうことばかり考えていた時期にもうちの両親はまったく態度が同じでしたから、「自分たちが悪い」、「自分たちに責任がある」というのが嫌だったのだと思います。
なんというか、わたしもその気持ちもわかるので、当時も今もそうしたことについて父や母を恨みに思う……という気持ちはほとんどないと思うんですよね。ただ、「自分が悪い」、「自分に責任がある」といったことからはとにかく全速力で逃げた――という、うちの両親は何かそんな感じでした。
でも、柳田先生は息子の洋二郎さんときちんと向き合い、なるべく「本質的なこと」についてたくさんお話されていたように思います。うちの両親もそうでしたけれども、これって出来る親御さんは少ないんじゃないかなって本当にそう思います(^^;)
そして、洋二郎くんが自死の道を選んだのが、25歳の時……その、これは一般に今引きこもりと呼ばれている多くの方がそうではないかと思うんですけど、「25歳」って物凄くターニングポイントなんですよね
仮に十八とか十九とか、そのくらいの頃に引きこもりを経験した場合、大体みんな思うんですよね。「それでも25までにはなんとか……」みたいに。わたしもそれまでは最大限努力して、それで今の状態が改善されないなら、それは死ぬしかないな、みたいにずっと思っていました。
そして実際に二十一~二歳とかそのくらいの頃に自殺未遂っぽいことをして病院に運ばれたんですけど、まあ薬の量が足りなくて助かったわけです。そして二十三歳の時にキリスト教と出会ってイエスさまに救われた――といったような道筋です。
「え?25歳まで最大限努力するとかいう話はどうしたの?
」と思われるかもしれないんですけど、わたしはその時点で「こんなことでは自分はとても二十五までなんてとても持たん
」と思ったということなんですよね。それに、今のこの状態があと数年すればなんらかの形で改善されるとも思われず……その二十五になるまでの3~4年の間、無駄にこれ以上苦しみたくないと感じたというのが、自殺することを選んだ一番の理由と思います。
わたしの場合は、「働けないような人間は死ぬしかない」という脅迫観念があったわけですけど、自分以外の他人には誰に対してもそんなふうには絶対思わないのに、何故自分に対してだけそんなに厳しいのか――と考える視野の広さといったものが当時は一切ありませんでした(洋二郎くんと同じように、一応病院のカウンセリングにはかかっていたんですけどね^^;)
自分の経験としては、死ぬとか自殺するっていうことを考えてる時って、とにかく人間視野狭窄に陥っているんだなっていうことかもしれません。「今の自分が少しでも楽になるには、他に道はない」……といった感じで、もう死とか自殺ということしか脳には見えなくなっているような精神状態というか。
わたしの両親もわたしがそういった状態になるまで何ひとつ気づかなかったと言います。これはまあある意味当然のことで、わたし自身その頃周囲にいた友達とか、勤め先である程度親しくなった人とか、もちろん家族の前でも普通に笑ってましたし、本当に「悩みなど特にない」といったふうにしか、周囲には見えてなかったと思います。
でも実際には、部屋でひとりきりになると、もう指一本動かしたくないというくらいの疲労に襲われていました。でも翌日には自動人形のようにニコニコ笑いながら仕事してたりとか、そういった感じだったので……なんというか、理性のほうでは「こうあらばならぬ」という規範に沿って行動するわけですけど、肝心の心のほうはジャイアンに殴られたあとののび太くんのようにボロボロ☆になっているというか、何かそんな状態だったと思います。
なんにしても、わたし自身こういった感じの人間だったので、『犠牲(サクリファイス)』という本を読んだのは出版されてかなり経ってからだったのですけれども、初めて読んだ時には、まるで自分のことが書いてあるようだ……と思い、びっくりしながら読み進めていったものです
何やらわたし個人の話が長くなってしまいましたが、次回はまたこの続きから始めたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
>>私も妻も、彼が心を病んでいたことを、中学高校時代には愚かにも気づかなかった。
その最初の兆候は、退院直後にすでに出ていたように思う。退院で眼の検査や投薬を受けていたのだが、主治医から「もうほとんどよくなりました」といわれても、洋二郎は、「右眼の視野の中央付近に、黒い点があって邪魔になる」といっていた。ある日、年輩の男の医師が代診で外来を担当していたとき、洋二郎が「黒点が消えないんです」というと、その医師はもう一度検眼鏡をのぞいてから、「眼球にはもう傷はないんだから、そんな黒い点なんか見えるはずがない」といい切った。
「でも、黒いのが見えてうるさいんです」と、洋二郎は繰り返した。
「ないものはないんだ。気のせいだよ。そんなこと気にしちゃ駄目だ」
医師は叱りつけるような口調になっていた。
洋二郎は黙ってしまった。
いまなら私は医師に対し、「患者が黒いものが見えるといっているんだから、ほんとに気のせいなのか、気のせいならなぜそう見えるのか、ちゃんと調べて説明してください」と議論を吹っかけるだろうが、その頃はそうするだけの知識も勇気もなかった。帰り途、洋二郎は、「あんな奴、医者じゃない」と怒りをぶちまけていた。
あの黒点が何なのか、検眼鏡には見えないほど小さな傷が残っていたのか、それとも失明恐怖という心理的な傷がそういう黒点をつくっていたのか、いまとなってはどちらなのかはわからないが、その後半年ほど続いたあの黒点への彼のこだわり方に、神経症の徴候を読み取るべきだったのかもしれない。実際、その時期を境にして、それまで天真爛漫で明るかった彼の性格が、内向的で暗い方向に急速に変わって行ったのだから。やがて高校三年になった頃には、いつもどこかぼーっとしていて、受験勉強も手につかないようになっていた。
心の病いがはっきりと表面化したのは、一浪の後にA大学に入り、年も明けて二月になってからだった。1988年、20歳の春だった。クリスチャンではないがキリスト教のサークルに入り、その修養の合宿とかで、伊豆のほうに二泊三日の旅行に出かけて帰った日の翌日の午後のことだった。私は仕事で外出中で、家には妻と長年来ていたお手伝いさんがいた。
洋二郎は合宿中に対人関係で辛かったらしく、そのことを二階の部屋に顔を見せたお手伝いさんに話していたのだが、お手伝いさんが台所に下りた直後に、日頃体力をつけるために自室で使っていた鉄アレイを窓に投げつけてガラスを壊し、そこから飛び降りようとしたのだ。物凄い音にお手伝いさんと別室にいた妻が駆けつけて、洋二郎を力づくで押さえ続けた。三十分後に帰宅した私は、破れたガラス窓をとおして見える西日に向って、「太陽に向って走るんだ!」と叫んでいる洋二郎の精神状態のただならぬことを理解し、すぐに親しい精神科医のM先生に電話をかけて、指示を仰いだ。
その日は、駆けつけてくださったM先生が安定剤の注射をし、翌日になってから洋二郎をH市のA病院に入院させた。こうして、洋二郎の精神科の治療が始まったのだが、なんではやく気づいてやれなかったかと、断腸の思いはいまも消えない。「中学・高校時代は生きられた時間がなかった」と、その後、洋二郎から何度いわれたことか。
(『犠牲(サクリファイス)~わが息子・脳死の11日~』柳田邦男先生著/文春文庫より)
引用が長くなってしまい申し訳ないのですが(汗)、>>「中学・高校時代は生きられた時間がなかった」という言葉……個人的によくわかります

わたしの場合、中学時代は楽しく、高校時代は暗黒だったというパターンなのですが、その両方が「生きられた時間がなかった」ということは、相当に苦しいことだと想像できます。
人にもよるかもしれないのですが、中学時代に何か躓きがあって学校が楽しくなかったり嫌だったりした場合……そしてそれが高校へ進んでも似た状態が続いた場合、途中で挫折するのが普通と思います。というか、どんなに自分で頑張って学校へ通おうとしても、体か精神、あるいはその両方になんらかの異変があって気力が続かないというのが普通じゃないかな……と思うんですよね。
それを六年以上にも渡って親に隠し続けた――この気力は本当に凄いものだと思います。まず、第一は親御さんに心配をかけたくないという一心だったのではないでしょうか(わたしもそうでした)。その次か三番目くらいに来るのがたぶん、「仮に学校を中退したらその後どうしたらいいのか」というのがあると思います。
洋二郎くんはわたしより年上ですから、この年代、今みたいにフリースクールとか、大学へ進学するための高校卒業認定資格を取得してそちらに進むとか、一般的でなかったと思うんですよね。わたしの時代でもそうした情報ってまわりにほとんどありませんでしたから、高校を卒業したという認定資格を受けることが出来る通信制の高校とか……なんとなく聞いたことあるような、ないようなという、そんな感じでした

なので、わたしより上の世代の洋二郎くんは、「ここで中退して人生の落伍者になるわけにはいかない」といった気持ちがより強かったのではないかと想像します。。。
たとえば、中学時代に(いじめその他のことで)人間関係で躓いても、高校時代はその失敗を踏まえて友達も出来、それなりにまあまあ、あるいはまあまあ以上の学校生活をエンジョイできたとかだといいと思うんですけど……この思春期という特別な時期に精神を病んだりすると、その後の回復というのが難しい気がするんですよね。
ええとですね、わたしも高校時代に心身症になり、そのことが原因で働いたり出来なくなったため、転職を繰り返してどん詰まりの状態になった時、初めて母にはそのことを話しました。でも、柳田先生もおっしゃっているように、わたしの母も>>「そのことにまったく気づかなかった」と言いました。
たぶん親にとってこれは相当つらいことで、そもそもの問題の原因になった思春期の頃に相談したりしていたら良かったかもしれないんですけど……親としては「今さらそんなこと言われても

でも、本を読んでいると、柳田先生は凄いなって思いました。何故かというと、こうした形で息子さん、あるいは娘さんと向き合うことの出来る親御さんって少ないんじゃないかなって思うので……ちなみに、うちの両親はふたりとも、この件とは向きあうことをせずに速攻逃げました

というのも、うちの父は若い頃より浮気を繰り返すといった感じの人だったため、わたしがある程度大きくなると、大体中学生くらいの頃から父の浮気に対する愚痴や、仕事の人間関係である愚痴などを全部話して聞かせる……という母はそうした感じであったため、この話でいくと、娘が死ぬとか自殺するとか、そういうことばかり考えていた時期にもうちの両親はまったく態度が同じでしたから、「自分たちが悪い」、「自分たちに責任がある」というのが嫌だったのだと思います。
なんというか、わたしもその気持ちもわかるので、当時も今もそうしたことについて父や母を恨みに思う……という気持ちはほとんどないと思うんですよね。ただ、「自分が悪い」、「自分に責任がある」といったことからはとにかく全速力で逃げた――という、うちの両親は何かそんな感じでした。
でも、柳田先生は息子の洋二郎さんときちんと向き合い、なるべく「本質的なこと」についてたくさんお話されていたように思います。うちの両親もそうでしたけれども、これって出来る親御さんは少ないんじゃないかなって本当にそう思います(^^;)
そして、洋二郎くんが自死の道を選んだのが、25歳の時……その、これは一般に今引きこもりと呼ばれている多くの方がそうではないかと思うんですけど、「25歳」って物凄くターニングポイントなんですよね

仮に十八とか十九とか、そのくらいの頃に引きこもりを経験した場合、大体みんな思うんですよね。「それでも25までにはなんとか……」みたいに。わたしもそれまでは最大限努力して、それで今の状態が改善されないなら、それは死ぬしかないな、みたいにずっと思っていました。
そして実際に二十一~二歳とかそのくらいの頃に自殺未遂っぽいことをして病院に運ばれたんですけど、まあ薬の量が足りなくて助かったわけです。そして二十三歳の時にキリスト教と出会ってイエスさまに救われた――といったような道筋です。
「え?25歳まで最大限努力するとかいう話はどうしたの?


わたしの場合は、「働けないような人間は死ぬしかない」という脅迫観念があったわけですけど、自分以外の他人には誰に対してもそんなふうには絶対思わないのに、何故自分に対してだけそんなに厳しいのか――と考える視野の広さといったものが当時は一切ありませんでした(洋二郎くんと同じように、一応病院のカウンセリングにはかかっていたんですけどね^^;)
自分の経験としては、死ぬとか自殺するっていうことを考えてる時って、とにかく人間視野狭窄に陥っているんだなっていうことかもしれません。「今の自分が少しでも楽になるには、他に道はない」……といった感じで、もう死とか自殺ということしか脳には見えなくなっているような精神状態というか。
わたしの両親もわたしがそういった状態になるまで何ひとつ気づかなかったと言います。これはまあある意味当然のことで、わたし自身その頃周囲にいた友達とか、勤め先である程度親しくなった人とか、もちろん家族の前でも普通に笑ってましたし、本当に「悩みなど特にない」といったふうにしか、周囲には見えてなかったと思います。
でも実際には、部屋でひとりきりになると、もう指一本動かしたくないというくらいの疲労に襲われていました。でも翌日には自動人形のようにニコニコ笑いながら仕事してたりとか、そういった感じだったので……なんというか、理性のほうでは「こうあらばならぬ」という規範に沿って行動するわけですけど、肝心の心のほうはジャイアンに殴られたあとののび太くんのようにボロボロ☆になっているというか、何かそんな状態だったと思います。
なんにしても、わたし自身こういった感じの人間だったので、『犠牲(サクリファイス)』という本を読んだのは出版されてかなり経ってからだったのですけれども、初めて読んだ時には、まるで自分のことが書いてあるようだ……と思い、びっくりしながら読み進めていったものです

何やらわたし個人の話が長くなってしまいましたが、次回はまたこの続きから始めたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!

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