神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

信仰の本質。

2014年11月20日 | キリスト教
【救世主】ホセ・デ・リべーラ


 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。

 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。

「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」

 しかし、イエスは言われた。

「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
 人の子は安息日の主です」

 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。

 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか」と言った。これはイエスを訴えるためであった。

 イエスは彼らに言われた。

「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです」

 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

(マタイの福音書、第12章1~14節)


 イエスさまが言及されている、25節のダビデの行為は、サムエル記第一の第21章に記されています。


 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。

「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか」

 ダビデは祭司アヒメレクに言った。

「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。
 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい」

 祭司はダビデに答えて言った。

「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります」

 ダビデは祭司に答えて言った。

「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません」

 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

(サムエル記第一、第21章1~6節)


 ダビデはこの時、君主サウルに追われ逃亡をはかっているところで、部下ともどもお腹が相当ぺこぺこであったものと思われます(^^;)

 つまり、こうした緊急事態の際には、「戒めに戒め、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」という厳格さを信仰の本質に基づいて緩和しても良い……ということなのではないでしょうか。

 四福音書に出てくるパリサイ人と呼ばれる人々や律法学者たちの罪深さというのは、律法を厳格に守ることに腐心するあまり、信仰の本質を損なっているということなのだと思います。

 そしてイエスさまは、本来の神さまの教えから横道に逸れてしまっている信仰の道を再び真っ直ぐに整えるため地上へ来られたのだと思うのですが、最初に「主の通られる道を真っ直ぐにせよ」のところで書いたとおり、この「真っ直ぐにする」ということのうちには、人によって相当「アイテテテ☆」な思いをするということなのですよね(^^;)

 本来の道から逸れて曲がっているものを整体よろしく(?)真っ直ぐにするわけですから、信仰の本質から離れ、曲がった生活をしている人間ほど、それを元に戻される時に痛みを伴うわけです。

 前にも書いたとおり、わたしも聖書に関してはまだまだ勉強不足であり、当時の文化・習慣についてはわからないことが多いのですが(汗)、以前あるテレビを見ていたところ、当時のパリサイ人がどのくらい裕福だったかという描写があって、とても興味深かったのを覚えています。

 わたしの中ではそれまで、パリサイ人と呼ばれる方々というのは、宗教の権威者ではあるけれども、生活としては中産階級やそれより上くらい、また宗教的に上位にある人々だけが物凄く恵まれた生活をしている……と、なんとなくそうイメージしていました。ところがこのテレビ番組を見て、当時のパリサイ人がどのくらいいい屋敷に暮らしていたかなどを初めて知り、驚いたんですよね

 なんていうか、「そんないい所に住んで、裕福だったら、そりゃーイエスさまを殺してでも自分たちの権威や生活を守りたいわなあ」と、そう思ったというか。

 最初に聖書を読むと、パリサイ人や他の律法学者の頑なな態度っていうのは、少し(かなり?)不思議に思われます。

 何故といって、盲人の目が開き、中風の人が癒され、またここで片手のなえた人の手が癒されたというのに――ここまでの奇跡を目の当たりにしても、彼らはイエスさまのことを信じようとはしなかったのですから(^^;)

 これはなんていうか、ようするに「上下論争」みたいなものだったのかなって思います。

 もしイエスさまがパリサイ人の権威下に治まるような形で、彼らの許しの下である一定の奇跡を行ったのだったら、おそらく彼らも「自分たちの奉ずる律法が上で、その下におまえが入るというのなら認めよう」といった形で譲歩できたのかもしれません。

 けれど、イエスさまは神の子としてダビデよりも自分のほうが上なのだといったことまでおっしゃり、それでパリサイ人たちは激怒します。神に対する冒瀆だというのですね。実際には自分たちのほうが、信仰の本質から離れ、律法を文字通り守ることだけに腐心するあまり、それが神への冒瀆行為になっているとは、思いもしなかったわけです。

 
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
 人の子は安息日にも主です」

(マルコの福音書、第2章27~28節)


 ところで、この安息日という概念は、一般的にいって日本人にはわかりにくいもの……という気がします(^^;)

 たとえば、海外の小説やドラマ、映画を見たり読んだりしていると、「その日は安息日だったので、△△は□□したかったが出来なかった」であるとか、そうした描写が時々でてきます。でも、結構そうした箇所って「文化の違いだろう☆」くらいな感覚で読み飛ばして話の筋を追ってしまうんですよね。

 わたし個人が好きな小説でいうと、「大草原の小さな家」シリーズの第1作目に、ローラが安息日は何も出来なくてつまらない、といった子供の本音を吐露する場面があったと思います。あとは、「赤毛のアン」シリーズにもそうした描写があったと思いますし、ローラやアンの生きた時代というのは、今以上に安息日といったものが厳格に守られていたのですよね。

 わたしも最初に読んだ時には、「安息日だからという理由で、掃除も洗濯も料理も出来ないだなんて、おかしかない?」と感じたものでしたが、一度クリスチャンになってみると、こうした謎が一気に解けてしまうという(^^;)

 つまり、創世記を読むと、神さまが創世の業をされて七日目にその御手をお休めになったことが安息日の由来であり、旧約聖書では十戒をはじめ、この「安息日を守る」ということが何度も言及され、厳格に守るようにということが繰り返し言われています。

 現代ではもはや、日曜日に仕事するのは当たり前……といったような向きが大勢を占めているように思われますし、キリスト教国でも「安息日を守らなかったからといって、それがどうしたというのだ?」といった意見のほうが大きいような気がします。

 けれども、世俗的な事情で日曜日に礼拝を守れなくても、そうした方のために日曜以外にも礼拝を行なう教会もありますし(※異端的ということではなく)、そうした際にもっとも重要なのは何より、それが何曜日かということよりも、<真実心から神さまのことを礼拝する>ということなのだろうと思います。

 言うまでもなく、安息日には、父なる神が創世の業を終え、休みを得られたということの他に、イエスさまが十字架につけられ復活されたのが日曜日だったということがあるわけですが、100%すべてではないにしても、ほぼ全世界的に<日曜日は休む>という概念があることって、実はすごいことなんじゃないかな……とクリスチャンになったばかりの頃に思ったものでした。

 何故といって、一週間は七日あるといったことや、日曜日はお休みといったことは、「何故そうなのか」なんて小さい時にはまるで考えてみたこともなかったんですけど、実は知らない間にすでに神さまの支配下にすべての人は無意識の内にも置かれているように感じたからなんですよね(^^;)

 では、次回は再び「癒しと悪霊の追い出しについて」、マルコの福音書より続きをはじめたいと思います。

 それではまた~!!




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 裂けたことのない信仰。 | トップ | 再び、悪霊の追い出しと癒し... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事