神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

裂けたことのない信仰。

2014年11月07日 | キリスト教
【カナの婚礼】パオロ・ヴェロネーゼ


「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです」

(マルコの福音書、第2章21~22節)


 聖書のこの箇所を読む時、わたしがいつも思いだすのが、エミリー・ディキンスンの次の詩だったりします。


 ちぎれちぎれになった信仰を元通り直すのに
 いい縫い針があるのですよ
 見たところ針に形はありません
 糸は空の中で刺すのです

 裂けたことがない信仰ほどには
 永持ちしないでしょうけれど
 それでもほんとうに着心地はよろしいし
 前と同じでゆったりしていますよ

(エミリ・ディキンスン詩集「自然と愛と孤独と」第4集、中島完さん訳/国文社刊より)


 果たして、長くクリスチャン生活、信仰生活を送っている方で、「わたしの信仰は一度も裂けたことがない」とおっしゃる方が、ひとりでもいらっしゃるものでしょうか(^^;)

 わたしはクリスチャンになるのと同時に、マーリン・キャロザース先生の「感謝と讃美の実践」ということをずっとしてきているのですが、マーリンさんはそのベストセラーである著書の中でこう書かれていらっしゃいます。

 長くなってしまうので、第5章の「雀が地に落ちる時」より、一部抜粋させていただくと、

(どんなに神に感謝し、日々祈ろうとも)「無邪気な小さい子供が、酔っ払い運転の車にはねられて死に、愛する者がガンにおそわれ、熱心な祈りにもかかわらず死んでいく」といったことは起きる、ということを、わたしたちの誰もが知っていると思います。

 けれども、では神はそうした事柄に関して冷たく無関心でおられるのか……というのは違う、とマーリンさんは書いておられます。

 わたしの未熟な文章では、このあたりのことを説明するのは難しいので、興味を覚えた方は是非、マーリンさんの「讃美の力」「獄中からの讃美」、その他の御著書をお手にすることをお薦めいたしますm(_ _)m

 交通事故や突然の災害など、「神がいるのなら何故」といったことや、「こんなことをなさるなんて、神さまはなんて意地悪なんだろう!」といった事態は、人の誰もが経験するもので――その不幸や悲劇の度合いがあまりに高すぎると、人が時に信仰を捨てるということはありうるだろうとわたし自身もそう思います。

 そしてここでまたもうひとつ、エミリー・ディキンスンの詩を紹介させていただくと、


 ひどい苦しみのあとに 堅苦しい感情がやってくる
 神経はいかめしく坐る 墓石のように
 こわばった心はたずねる 「耐えたのはあのひと?
 そして昨日? それとも幾世紀も前のこと?」

 足は機械的に歩きまわる
 地面でも空でも 所かまわない
 ぎこちない動作
 石に似た石英質の満足

 いまは鉛の時間――
 もし生き残れたら思い起される
 凍死するひと達が雪を思いだすように
 始めは寒気 つぎに麻痺 それから完全に気を失う――

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)


 エミリー・ディキンスンは19世紀に生きたアメリカの詩人なのですが、彼女の生きた時代というのは現代以上によく人が死んだ時代だった……という言い方はおかしいのですが、病気などで若くして身近な人が亡くなるということが、今以上にありふれていたのですよね。

 彼女はそうした<死>という名の強奪者に出会うたびに当惑し、詩の中でも<死>をテーマにしたものを数多く書いています。

 つまり、彼女自身そうした形で「信仰が張り裂ける」という経験を何度となくしてきたからこそ、こうした表現が生まれえたのだと思うのですが、エミリーはそのたびにおそらく、裂けた信仰をもう一度<空の針>によって縫い合わせてきたのでしょう(時には涙で指を震わせながら……)。

 そして「裂けたことがない信仰ほどには永持ちしない」ということは、逆にいうとこれは、「何度も裂けたことのある信仰ほど、永持ちするものはない」ということなのだと思います(^^;)

 わたし自身も、自分の人生において「もうダメだ」とか「今度こそ駄目だ」、「本当にもう今度こそ終わりだ」ということは何度もありました。けれど、その度に神さまに祈り、感謝するということをずっとし続けていると、なんというか、「信仰の筋肉」のようなものが鍛えられ、そうした過程を踏んだからこそ、あるいはそうした過程を経なければ決して得られなかったものを随分得たと思います。

 この箇所のイエスさまの教えは、古い皮袋=モーセに代表される旧約聖書の教え、そして新しいぶどう酒というのは、イエスさまの説かれた新しい教えを差すといったように理解されると思うのですが、<信仰>といったものの本質そのものがそうした側面を持っていると思うんですよね。

 つまり、日々何ごともなく平穏で、毎日「神さま、今日も平安かつ幸せな一日だったことを感謝します」(というのが、わたし個人の理想なのですが^^;)……という日々を送ったとしたらば、ある部分信仰というのは純化されずに腐っていく側面がある、というか。

 もちろんこれは、人間というものは日々苦悩すべきであり、そうしてこそ成長し続けるとか、そんな厄介なことを言いたいのでなく、イエスさまが「あなた方は地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう」とおっしゃったことと関連のあることなんですよね。

 無味無臭の塩けのない、味気のない信仰といったものを神さまは求めておられず、純金とごろ石をふるいにかけてより分けるように――人が苦難に遭ったそのあと、どういった対応をするのか、何が残るのか、腹の底まで探りだされる過程というのを、信仰者は誰もが通っていかなければならない、というか(^^;)

 こうしたことは、信仰生活における厳しい側面といえると思うのですが、神さまは人が苦難に遭う時に「人生はなんて不平等なんだ!」と感じるのに反して、別の一面では恐ろしく公平で平等な方であり、神さまの提示される原則に則した生活を送っていると、「(神さまの)時が満ちた瞬間」に豊かに祝福されたり、それまで苦労した分に見合ったどころかその倍も祝福してくださったりするんですよね。

 ただ、「そこまで行く」のは本当に大変だなと、わたし自身も思います。旧約聖書のハバククではありませんが、なんといっても、人間にとって<神さまの時>というのは遅すぎるように感じるものですから(もちろん、神さまが迅速にすぐ事をなしてくださることもあるとはいえ^^;)

 なんにしても、聖書のこの箇所は、イエスさまの新しい教えが旧約聖書の規範や律法を超えたものであることを教えている箇所だと思います。イザヤ書28章の10節や13節に、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」とあるように、律法を忠実に守ることのみにもし人が腐心したとすれば、信仰といったものは容易にパリサイ化してしまう、というか。

 イエスさまは信仰の形式よりも、その実質のほうを重んじるべきだということをこのあとも説いていかれると思うのですが、このあとに出てくる安息日についてのパリサイ人とのやりとりも、つまりはそうしたことなのだと思います。

 では次回は、再びマルコの福音書の第2章より、続きをはじめていきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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