神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

どうしたら人を赦せるか。

2016年11月07日 | キリスト教
【この人を見よ】ミハリ・ムンカシー


 ええと、<和解>ということをテーマに記事を書いていましたら、何やら少し難しい論調になってしまったので(汗)、少し別の語り口から大体同じことについて書いてみることにしました(^^;)

 わたしには以前、その人が自分にしたことを思うと到底「赦せない!!」と感じる人がいました。

 結局のところ、今は赦していると思うのですが、その人のことを実際にある程度赦すことが出来るようになるまで、十年かかったと思います(苦笑)ある程度ということは、完全には赦していないのか……と思われるかもしれませんが、実際この十年の過程のことを思うと、わたしが相手を完全に赦しているかどうかというのは神さまだけがご存じなんじゃないかという気がするのです(^^;)

 なんでかっていうと、聖書では「悔い改めた相手に対しては七度を七十倍するまで赦せ」と言われており、わたし自身この聖書の御言葉とマーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の実践によって――相手との関係がある程度良好な時には「よし、わたしはもうこの人のことを赦している」と思えることが何度となくあったからです。


 >>イエスは弟子たちにこう言われた。

「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。

 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼(いしうす)を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」

(ルカの福音書、第17章1~4節)


 とにかく毎日のようにこのことでは「赦せるように」神さまに祈っていましたし、わたしも何度となく「赦せている」とか「赦した」と感じることがありました。ところが、相手との関係が悪くなるとですね、そもそもの喧嘩の原因になったことに遡り、「結局のところあの人はなんにもわかってない!」みたいになって元に戻るのですよ(ちなみに相手の方はクリスチャンではなく、ノンクリスチャンの方です)。

 実際、その方のことを赦せるようにと祈っている間にも過去の色々な事柄が思い浮かんで、それ以上祈ることが出来なくなるということも、何度かあったと思います。まあ、このように事は「神さまが聖書でそうおっしゃっておられるから」といったような理性で解決できる問題ではなく、本当にリアルな感情の問題として扱う必要があるというのでしょうか(^^;)

 もちろん、聖霊さまが強く働いてくださって、普通ならば到底赦せないことも赦せるようになる……というのは、本当にあることです。わたし自身、そうした方のお証しを教会でお聞きしたりですとか、あるいは『雲の間にある虹』などのキリスト教系の雑誌などでいくつも読んできましたし、わたし自身も経験のあることです。

 でも、「赦したいが赦せない」という事柄があった場合、どうしたら良いのだろうということは、その十年もの間、わたしも随分考えました。そしてある時、牧師さんのお話か何かで「赦せなかったとしたら、それは赦す<時>がまだ来ていないということだ」という言葉と出会ったのです。だから、その「<赦せる時>を待ちましょう」というのが、長く父親のことを赦すことが出来ないと言っていた方に対する、牧師さんの答えだったのです。

 その言葉と出会った時、わたしの中で「ああ、そっか」とすとんと来るものがありまして、「無理をして赦す」とか「最大限努力して赦す」とかいうのは、そもそも無理がある。「赦せない」っていうのは、ある意味怒りのエネルギーが心の奥底でマグマみたいに溜まってるようなことだから、表面上「赦した」ということにしたとしても、何かちょっとしたことが原因でまたマグマが底から沸き出てくるということになる……じゃあ、そのエネルギーを健全に生かして昇華するとか、それでも時々ドカン!!と爆発することがあっても――その頃のわたしにはすでにわかっていたのです。「それもやがて過ぎ去る」ということが(^^;)

 そしてそれから何年か時が流れて、ふとある時自分の中でこのマグマ溜まりが沈静化してなくなっていることに気づいた……というのが今の状態といっていいと思います。その方とは今も時々連絡しあいますが、問題が起きる前ほど親しくつきあわなければ特にどうということもない――といったくらいになったと思います。ただ、わたしのほうで「それ以上その柵を越えてくるんじゃねえよ!」というように警戒してつきあう必要があるという、ただそれだけです(口が悪くてすみません

 で、わたしのほうではもうその方に対して怒りとかなんとか、そんなものはないのですが、問題が起きる前と同じようには親しくつきあえない、というのであれば、それは本当には赦してないんじゃないのか?と言われると、「そうなのかねえ☆」とぼんやり思うという、何かそんな感じです。

 う゛~んなんというか、わたしの中で問題だったのはとにかく、怒りのループ化現象だったのです。その方がわたしに対してかつてこう言っただの、ああいう不愉快な目に合わされただの、そのせいで人に誤解されて極めて迷惑だっただの……そんなことが何度も展開されてくると、とにかくその時に感じた腹立ちが復活してくるという、この脳内のループ化をどう断ち切るかというのが問題だったのでした。

 それで、一度何かをきっかけにしてそれが起きると、自分にとって何か楽しいことをしている時でもその楽しみが半減したり、その行為自体を中断せざるをえないといったことが起きてきたりと――まあ、大袈裟な言い方をすれば、過去のトラウマが心の中で再び復活するようなものですよね。

 以前、何かでこうした状態のことを、パソコンで自分にとって必要な画面を開いている時に、いつでも平行してその余計な画面が同時に開いているようなものだ……といったように聞いて、妙に感心したものでした。実際まったくそのとおりだったからです(笑)

 そして他にも、こうしたわたしと同じようなことで悩んでいる人のこともたくさん知りましたし、そこでも「ああ、わたしだけじゃないんだな。いや、わたしなんてまだ少しはいいほうじゃないか」なんて思うことでも救われたと思います。

 ただ、わたしはキリスト教徒ですから、最終的にそこから受けた力が大きいというのは、まず間違いなく絶対といっていいと思います(^^;)

 そもそもイエスさまは、父なる神さまと我々罪人である人間(全人類)を和解させるためにこそ、この世に来られ、十字架上で血の贖いの完成をなしてくださいました。そのイエスさまの御生涯のことを思うと、「こんな小さなことも赦せないわたしをお赦しください」といったように思いますし、「赦しの祈り」といったものも、結局はそこからはじまって、そこへ帰っていくという感じなのです。。。†

 そしてこのイエスさまの<和解>の務めは、わたしたちひとりびとりにも委ねられていることですよね。


 >>キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

(エペソ人への手紙、第2章14~18節)


 いえ、日本は平和ボケしていると言われて久しいですが、他の国で起きている民族紛争というのは、個人レベルのことに置き換えてみたほうがむしろわかりやすいのではないか……と思うことが、時々あります。

 何故といって、わたしに怒りのマグマ的エネルギーがあった時、それをぶつける矛先があったとすれば、まず間違いなくそちらに向かっただろうと思うからです。何分、「自分が正しい」と心から信じているわけですし(薄々そうとは言い切れないと気づいていながらも)、と同時にそのエネルギーをぶつけられる先があればなんでもいいっていう部分もあるわけですよ

 そしたらもう……腹に弾薬巻きつけるくらいのことはするんじゃないかと、自分でも思うというか(^^;)

 まあ、こんなこと書いてると「怖い奴だな、こいつ」という感じですが、わたしがこんなに誰か人を赦せないとかそんなふうに思ったのはその人ひとりだけですし、それ以外のことについてはまあ大体「この時の暗黒状態に比べたら、大したことないなあ☆」という感じで、多くのことはやりすごすことが出来るのです(笑)

 ではでは、聖書の教えやキリスト教の神学的な部分の説明が不十分でビミョウなのですが(汗)、今回はこんなところで……m(_ _)m

 それではまた~!!





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