神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

選択的うつ(鬱)。

2023年10月03日 | キリスト教
 漢字には色々ありますけど、およそ【鬱】という字と【癌】 という文字ほど、「そうそう!まさにそんな感じ!!」と、その本質を表している漢字もないような気がしたり(^^;)

 何故この漢字になったのかは、きっと由来があると思うんですけど、それはさておき、「選択的うつ」という話。引きこもりに関して少し書いてるうちにたぶん……家に籠もってるか、外に出るくらいだったら自殺したほうがいい――という二者択一で、その間の選択肢のないのが問題なのかな、という気がしたというか。

 その方によって引きこもることになった理由も、その背景にある問題もそれぞれと思うので、すべてのケースに当てはまらないとは思うものの、それでも大体「真面目に一生懸命働く『すみません人生』」を送ってきた方が多いような気がするんですよね。

 それで、選択的鬱っていうのは、不登校の子が「学校へ行かなくてもいい」ってなった途端、腹痛もやんですっかり元気になるっていうのにも似て、就労とか働くとか、職場の人たちとみんなでワイワイやってる振りだけする……であるとか、それに関連することさえ考えなければ、つまりそんなことさえなければ、引きこもっていても本人は比較的元気――ということがあると思います。

 なので、そうした本人の状況を見ている家族にしてみれば「働こうと思えばそう出来るはずなのに、怠けてるだけ」としか見えないでしょうし、にも関わらず、どんなに説教しようと「うちにだって、このままあんたを一生養えるような金はないんだよ」とか、色々言ってみても、本人にはそもそもわかってると思うわけです。働くとか就労だのいうことさえ考えなければ比較的元気でいられるものの、どこかの会社へ毎日行ってそこの人間関係に囚われ、無限にくよくよ悩むあの鬱的状況がまたはじまるとしたら――自分は頭がおかしくなってしまうだろうとか、それでその状況に耐えるにしてもそんなのはせいぜいが一年かそこらが限界だろうとか、そうしたことですよね。

 もちろん、周囲は言うとは思います。「そんなこと、やってみなけりゃわからない」みたいに色々。でも、それでも駄目だった場合、誰も責任は取ってくれませんし、それなのに無駄に苦しい思いをしてストレスを抱え込んだり、極限まで上司・同僚・店に来る客その他に気を遣ったりしても仕方がない……という、失敗のビジョンしか本人には見えてないんじゃないかな、という気がします。

 わたし自身は「これが限界だなあ」というところまで努力してドロップアウトしたところがあるのですが、その後、心療内科のようなところへ通院していた時、言われたことがあります。ようするに、そこでは就職する前にリハビリとして、パソコンを使っての仕事など、橋渡し的なことをしていたので、少しそこで働いてみませんか、ということだったんですよね。

 わたし、速攻で断りました。何故かというと、そうした場所でリハビリするのであれば、すぐにハローワークにでも行くか、あるいは求職雑誌とか、そうしたサイトを見て実際に働いたほうがいいからです。人によって、まず面接に行くのが大きなハードルだ……という場合も多いと聞いたんですけど、わたしの場合、それはなかったんですよね。だから、もちろんパソコンで新しい技能を獲得するとか、そうしたことは有益とは思うんですけど、それは自分で勉強すれば自宅でも出来ることだし、「あなたと同じようなことで悩んでる人はたくさんいるんですよ」といった仲間っていうのも特に必要なかった。というのも、わたしにとって怖いのはそうしたことじゃなかったからなんですよ。

 一応、誤解のないように書いておきますと、社会復帰するためのプロセスとして、その心療内科の先生は正しいことを言ってると思います。また、多くの引きこもりの方にとっても、まずは心療内科で先生に悩みを話したり、そうした同じような悩みを持つ人たちと擬似的な職場といったスペースで働いてリハビリしたりとか、大切なことだと思います。

 それで、そこの病院の待合室にいると、そうした場所が廊下の先の並びの部屋にあるらしく、よく拍手する音が聞こえてきたものでした。ところどころしか声は聞き取れなかったものの、ようするに何かあるごとに、その擬似的な職場で従業員してる患者さんを褒めてるってことみたいだったんですよね。わたし、これも大切なことだなって思いました。あるひとつの職場において上司からパワハラを受けたとか、色々なことが心の傷やトラウマになったりしてる方もいると思うので、それが仮に擬似的な場所でも、仲間となんとなく楽しくしゃべりながら仕事できたりとか、そうしたプラスの、ポジティヴイメージを養うのも大切なことなんじゃないかって。

 でも、ある時こんなことがあったんですよね。名前を呼ばれるのを待合室で待っていた時、その奥のほうにある部屋から二十代くらいの男の人がやって来て、「もう二度とここには来れないってこと、△□先生に伝えてもらえませんか」みたいに。それで、その病院は二階と三階に先生がそれぞれ診察室を持っていて、その方は三階の先生が担当だったらしい。そこは二階だったので、「次の診察の時にでも、そう話したら……」みたいに看護師さんが言っても、もうダメなんですよね。「いや、もう僕はここには来れません」みたいに言うだけで。看護師さんとしてはもっと詳しく話を聞くしかないっていうことで、この方が話すのに任せていると……わたしもよく聞こえなかったんですけど、「隣に座ってるなんとかさんがなんとかで……」みたいに、何か色々話してました。それで、わたし思ったんですよね。「ああ、やっぱりそうなんだな」って。

 何がそうなのかというと、たとえば、フリースクールってありますよね。みんな、同じように学校に対して何かの悩みを持っていて集まってるので、基本的にいじめということもなく仲良くやってたとしても……一方、そこでも適応できない子っていうのが出てくることがある。わたし、それから暫くたった時に、そういう患者さんはどうすればいいんですか、みたいにその先生に聞いてみたんですけど、どうもわたしの説明が下手すぎて通じなかったらしく、「ちょっと何言ってるかわかんないな」みたいな顔されて終わってしまいました。。。

 なんていうか、以前テレビでホームレスの方の施設のことを見たことがあって。食べる場所や眠る場所は与えてもらえる、でも協同作業してくださいね、みたいな感じなんですけど、同じ元ホームレス同士、仲良くやっていけるかといえば、そうでもない。やっぱり、同じホームレスの方でも「俺はおまえより偉いんだぞ」みたいな感じで序列を作ってボスになろうとする人がいたり、その人の下でガミガミ命令されるような感じだと、食べるところや眠るところがあったとしても、離れていってまたホームレスに逆戻りしたほうがマシだ……となる人が出て来たりするわけです。

 その~、息子さんや娘さんが引きこもってるご家族の方にとっては、その悩みの深さは理解できる一方、わたし自身はやっぱり思っちゃうんですよね。「引きこもってるって、実はそれでいいんじゃないか」って。とりあえず、社会復帰のプロセスとして、心療内科で相談しろと言われたから通うことにした、そこで職場復帰するためのリハビリをするのはどうですかと言われ、その通りにした……でも、そもそも引きこもった理由と同じようなことが出て来て躓いた、親に何があったのと聞かれても答えたくない、こうして再び自己に閉じこもる卵の殻は厚くなり、「僕はこれでいいんだ」と思うようにもなった、何故ならとりあえず、言われたとおり努力するだけのことはしたんだから、でも、そんな子は家に置いておけないと言われたので、外へ出て無理にでも働くようにしてみたものの、やっぱり駄目で、でも家には帰れないのでホームレスに。ホームレスの生活も流石につらいので、救援施設に頼ってみたものの、そこでの人間関係も耐えがたかった――でも、どうなんでしょうか。果たしてこれで、そこまでの経験のある人なら、そういう人だけは「引きこもり」になっても仕方ないんじゃない?という、問題はそこなんでしょうか。

 あ、それとわたし、家から出ずに引きこもってさえいれば、比較的元気そうに見える……と書いたんですけど、表面上本人がへらへらしてるようにしか見えなかったとしても、家族が何かとうるさいので、実際には心の中では針のむしろに座らされていると思ってるっていうことも、結構あるだろうなと思ってます。針のむしろが嫌なら外に出て働けってことになると思うんですけど、そちらはそちらでべつの針のむしろなので、どちらのむしろが良いかという選択で、部屋に篭もって出てこないほうを選んだ……ということも、きっとたくさんあるのではないでしょうか。

 それではまた~!!





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