神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしは本当に惨めな人間です。

2018年01月02日 | キリスト教
【キリストの嘲笑】フラ・アンジェリコ


 >>私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行っています。

 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

(ローマ人への手紙、第7章15~25節)


 新年最初の記事がこのタイトルってどうなんだろうって自分でも思うんですけど(笑)、まあそんなことはどうでもいっか☆ということで、お話を進めます(^^;)

 他にパウロは、>>罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました(ローマ書、第5章20節)とも言っているのですが、でもだからといってもちろんこれは、「じゃあ神さまの恵みがますます溢れるために、もっともっと罪を犯そう」とか、そういうことではないわけです。


 >>律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

(ローマ人への手紙、第5章20~21節)


 >>それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは服従の奴隷となって義に至るのです。

 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法にすすみましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

(ローマ人への手紙、第6章15~23節)


 たぶんこのことは、こんなふうに例えたらわかりやすいのかなって思ったり。。。

 たとえば、わたしが自分の罪を足の裏からくるぶしくらいまでしか自覚してなかったとしたら、「なんだ。こんくらい☆」としか思わないでしょうし、膝くらいまで罪のどろ沼に嵌まっていたとしても――それでもまだ「自分の力でなんとか出来る」と思うかもしれません。

 けれども、この罪の泥沼にお腹のあたり、あるいは胸元、喉、あるいは口元まで嵌まりこんでいたとしたら……ある時点で自分の力ではもうどうにも出来ないと思うんですよね。

 仮に胸元のあたりまで人生の悩みや苦しみといったものが押し寄せていたとしても――家族や友人か誰かの力や協力によって救われることが出来るかもしれません。でも、「家族や親しい友人までもが自分を裏切り捨てたのに……最後の最後でイエスさまだけがわたしを助けてくださった」という、そうした経験を経てキリスト教徒になった、クリスチャンになったという方は多いのではないでしょうか。

 イエスさまはすべての人に捨てられ、十字架上ではさらに父なる神との霊的断絶すら経験されて、究極の孤独の中で息を引き取られ、そして三日後に甦られました。また、地上に生きる間、決して裕福な生活をされるでもなく清貧の極みともいうような生活を貫かれ、その上自分の弟子を含めた一度は自分をメシアであると持ち上げた民衆からさえも捨てられ、蔑まれ――「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま、救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから(マタイの福音書、第27章42~43節)」とローマ兵から恥辱の言葉を受け、唾をはきかけられ嘲弄され……十字架上では(わたしたちの罪のために)手足を打ち抜かれ、苦しみの極みのうちに死を経験されました。

 絵画の中では便宜上(?)、腰のあたりに白い布で覆いのあることがほとんどですが、イエスさまは実際には下着すらもローマ兵に取られて、本当の素裸の姿で十字架にかかられたのです

 これが「わたしたち人類の罪の贖いのためだった」と聞かされても、もしかしたらすぐにはピンと来ないかもしれません。けれども、このような苦難と恥辱と悲しみ、痛みの極みのすべてを神さまへの宥めの生贄として経験されたイエスさまであればこそ――わたしたち人間ひとりびとりのどんな種類・形態の苦しみであれ悲しみであれ、痛みであれ恥ずかしさであれ……そのすべてをイエスさまは理解し、関心を寄せ、さらには愛とともに救ってくださるのです。


 >>まことに、彼は私たちの病いを負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。
 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書、第53章)


 どうか、今年一年もこのことを起点として、イエスさまの愛と恵みのうちにすべての方の信仰生活が守られますように

 それではまた~!!





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