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さて、今回は最終章である、第7章「主イエスのよろこび」から学んでいきたいと思いますm(_ _)m
マーリンさんは、二十年も胃が悪くて苦しんでいたと言います。多くのお医者さんにかかり、あらゆる薬を飲んでも効かず、神さまが癒してくださると信じ、癒しの伝道で有名な方や、祈りのグループの友人たちにも祈っていただきましたが、癒されなかったと言います。
>>軍を去る前に、医師たちは私の胃を手術することに決めました。ところが切開してみたところ、私がその時まで数年間悩まされてきた苦しみの明白な原因を、医師たちは発見できませんでした。従って彼らは私の状態をよくするためにどうすればよいのか分からなかったのです。
手術後、病院のベッドに横たわっていた時、苦痛が以前になかったほど激しくなりました。鎮痛剤も麻酔薬も効きませんでした。何時間も眠れず、本当にその部屋の暗闇が押し迫ってくるかのように感じながら横になっていました。私はまわりをうろついている悪しき闇の力を身近に感じ、その恐怖に屈服しそうになる誘惑と必死に戦いました。死にたくはなかったのですが、このような惨めな姿で生きていることを恐れたのです。
(『讃美の力。―神の力を体験する道―』マーリン・キャロザース先生著、浜崎英一さん訳/生ける水の川出版)
このような惨めな姿で生きていることを恐れたのです……マーリンさんのこの言葉は、ヨブ記のヨブを思わせます。彼は頭のてっぺんから足の裏まで腫物で打たれ、奥さんにまで「神を呪って死になさい」と言われたのでした(あ、マーリンさんの奥さまのメアリーさんは素晴らしい方です!
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また、ヨブはこうも言っています。>>死を待ち望んでも、死は来ない、と。>>私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったらだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている……とも(ヨブ記、第3章21、25~26節)。
>>まことに神は今、私を疲れさせた。
私は安らかな身であったが、
神は私を打ち砕き、
私の首をつかまえて粉々にし、
私を立ててご自分の的とされた。
その射手たちは私を巡り囲み、
神は私の内臓を容赦なく射抜き、
私の胆汁を地に流した。
(ヨブ記、第16章7、12~13節)
>>神は大いなることを行なって測り知れず、
その奇しいみわざは数えきれない。
たとい神が私のそばを通り過ぎても、
私には見えない。
神が進んで行っても、私は認めることができない。
ああ、神が奪い取ろうとするとき、
だれがそれを引き止めることができようか。
だれが神に向かって、
「何をされるのか」と言いえよう。
(ヨブ記、第9章10~12節)
>>私はいのちをいといます。
私はいつまでも生きたくありません。
私にかまわないでください。
私の日々はむなしいものです。
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、
これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、
そのつどこれをためされるとは。
いつまで、
あなたは私から目をそらされないのですか。
私が罪を犯したといっても、
人を見張るあなたに、
私は何ができましょう。
なぜ、私をあなたの的とされるのですか。
私が重荷を負わなければならないのですか。
(ヨブ記、第7章16~20節)
けれどその後、ヨブの悩みが神さま御自身の顕現によって癒されたように――マーリンさんも同じような経験をされています。
>>その暗闇がいよいよ大きくなったと見えた瞬間、私は叫びました。「主よ何が起ころうとも、どのように惨めになろうともかまいません。このこと全部をあなたに感謝します。あなたがここから何かよいことを起こそうとしておられることを信じます」
その瞬間、病室の暗闇は太陽よりも輝く白光で破られ、追い払われました。その光は数年前、幻で見たのと同じような輝いた光でした。その時、聖霊がその幻を私に説明してくださいました。すなわち、陽の輝く牧場をおおうように黒雲がただよい、その雲の上には輝く白光があるのです。雲の上高く、キリストがすでに私たちのために確保してくださっているよろこびと祝福があるのです。しかしそこへ到達するためには、混乱と苦しみの黒雲を真っすぐに貫くはしごを上らねばなりませんでした。その雲の中は、私たちの普通の感覚――見、聞き、感じる――を用いても、方向を知ることができないのです。ただ信仰によって一段一段神を讃美することによってのみ、そのはしごを上ることができるのです。暗い雲を貫いて上っていく間に、感覚に頼る気持ちが取り除かれて、神のみ言葉に信頼することを学んでいくのです。讃美のはしごは私たちを高く天に引き上げ、そこでキリストと共なる座を与えてくれるのです。
この驚くべき輝く光に全身を包まれて病院のベッドに横たわっていた時、かつて幻であったものが今や現実になっていることを、私は突然悟りました。
神が私の苦しみを益とされていると信じて、信仰によって歩んできた数年間は、暗闇と不安の黒雲の中を上っていく数年間だったのです。その雲がなければ、私は自分の感覚と感情に頼る気持ちを捨てることを決して学ばなかったでしょう。今や、私はその黒雲をさらに大きくするすべての状況から神に感謝できるようになりました。他のどんな方法で私は徹底的に神に信頼することを学び得たでしょうか。他のどんな方法で私は、このようにうるわしい光と喜びにひたることを経験し得たでしょうか。
病院から退院した時、胃の状態についても神は何かをしてくださったことを知りました。かつては何時間もの苦しみにさらされたその食物にも、もはや悩まされなくなりました。何年もの間、遠ざけていたいちごも、りんごも、アイスクリームも今は安心して食べられるというこの新しい自由に私は歓喜しました。
過去数年間、他人のために祈れば、すぐにいやされたのです。けれども神は私をみ言葉に信頼させることによって私の信仰を強める道を選ばれたのでした。
(『讃美の力。―神の力を体験する道―』マーリン・キャロザース先生著、浜崎英一さん訳/生ける水の川出版)
過去数年間、他人のために祈れば、すぐにいやされたのです……わたしは思うのですが、「完全に癒される」のがもちろん一番いいのは間違いないのですが、自分の中に何か苦しみや悩みのある時ほど、人の同じそれに共感できることはありません。
以前、福音派の教会で、鬱病から快復した牧師さんの礼拝メッセージを聞いたことがありました。毎日神さまに祈り、牧師として模範的な牧会生活を送ろうと努力してきたとも思うのに、鬱病になって以来、布団から起き上がることさえつらかったそうです。そして、「神さま、何故ですか」と泣きながら思うこともあったということでした。
鬱病になった経験のある方は、快復された時、大体同じことをおっしゃると思うのですが――「鬱病になって良かった」とか、「鬱病の間はつらかったけど、快復した今はわかる。乗り越えることが出来た今は、アレがないよりもあったほうが良かった」といったように……この牧師さんも、意味としては大体同じことをおっしゃっておられ、割とお若い方だったのですが、メッセージの内容や言葉の端々に神さまの恵み、イエスさまの愛が感じられ、そのメッセージは聖霊さまの喜びに満ちていました。
判で押したような信仰生活……という言い方はなんですが、教会の求める必要最低限の奉仕や行事などを、決められたとおりにすべて行なう、というだけでも相当大変なことだと思います。そして、その「自由度があまりなく、決められたとおりにそれらすべてを行なう」といったことが続くうち、いつしか信仰生活が型に嵌まったものとなり、喜びが失われる――ということはありうると思います。
でも、鬱病でなくても、その他のなんらかの試練を通して、マーリンさんが黒雲を突き抜けて、その先の神さまの喜びの世界へ到達したように……讃美の梯子を登り切った先の世界というのが確かにあって、さらには黒雲の試練から落ちてしまう方の苦しみやつらさもよくわかる――という、そこまで信仰が引き上げられる世界というのが、確かに間違いなくあると思うんですよね(^^;)。
最終章のこの章には、関節炎で苦しんでいたご婦人の癒しや、生まれつき片手のない女性がそのことを感謝し、讃美するまでに変えられた証しなど、素晴らしい証しで満ちています。さらには囚人の方がマーリンさんの著作を読んで、すっかり変えられてしまったことなど……ヨブ記は、義人ヨブと、その三人の友人エリファズ、ビルダデ、ツォファル、それに彼らの話を傍らで聞いていたエリフの5人の、神さまに関しての問答が中心となっています。
この黒雲があるゆえに、実は神は人間の苦しみを見ていなかったり、悪人どもの悪しき活動についても、神の目は清らかすぎて目に入ってこないのではないか――といった問答も含まれていたと思います。けれど、結局のところ、
>>神に何と言うべきかを私たちに教えよ。
やみのために、
私たちはことばを並べることができない。
私が語りたいと、
神にどうして伝えられようか。
人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。
今、雨雲の中に輝いている光を
見ることはできない。
しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
北から黄金の輝きが現われ、
神の回りには恐るべき尊厳がある。
私たちが見つけることのできない全能者は、
力とさばきにすぐれた方。
義に富み、苦しめることをしない。
だから、人々は神を恐れなければならない。
神は心のこざかしい者を決して顧みない。
(ヨブ記、第37章19~24節)
この聖書の御言葉の中の、「黄金の輝き」がキィポイントです。
悩みや苦しみやつらさ、悲しみの黒雲に心が覆われている時、神さまの持つ、すべてを吹き清める黄金の輝きは見ることが出来ないかもしれません。けれども、信仰者にはその存在が間違いなく「ある」ということだけははっきりわかっています。
ヨブの苦しみは、試みにあう前はこの黄金の輝きに直接照らされているかの如き栄光に、彼の人生全体が包まれていたことに端を発します。ところが、今度はその栄えある人生から転落し、うじの土くれでも身に纏うかのような惨めさに彼は貶められたのです。
ヨブは叫びます。「神に自分のこの正しい訴えを直に伝え、その答えを聞きたい」と。最終的にヨブは、神さまの顕現をその目で見、神さまの応答に納得しますが、聖書の読者としてはこの点、多少難しいところがあるかもしれません(^^;)
けれど、これはあくまでわたしの場合ということですが――何度か読むうちに、「こうも読めるのではないか」、「ああいうことではないだろうか」といったように、色々考え方が変わってくるんですよね。つまり、人生のてっぺんから転落し、最下層に落ちるかの如き経験を通してしか学べないことが、確かにあるということです。
もちろん、こう書くからといって、わたしもヨブと同じ苦しみを与えられたなら、到底耐ええず、「神さま、何故ですか
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人生の苦難の象徴たる、黒雲を好きになることは、おそらく誰にも出来ません。けれど、その先に輝く黄金の光を心に感じる時、自分の内側のそれと神さまのそれとが磁石のように引き合って――問題を上と下から押し潰してしまう、という一点を通過すると、梯子の上に出られる確信とともに、その瞬間がやって来るのも早くなると思います。
>>あらゆる試みの中で神のみ手を見ることができるように、神からの恵みを叫び求めよ。また、直ちにみ手にゆだねることのできるように恵みを叫び求めよ。ゆだねることのみならず、それに黙って従うこと、それを喜ぶこと……そこまで来る時、おおむね問題は終わりにきていると私は思う。
(チャールズ・H・スポルジョン)
わたしも、本当にそう思います
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では、今回でとりあえず、マーリン・キャロザース先生の『讃美の力』についての学びの連載は一旦終わりとなりますが、神さまへの感謝&讃美は、エブリシング、オールウェイズです♪
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それではまた~!!
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