
【神にひとり息子のイサクを捧げようとするアブラハムとそれをとどめる天使】ロラン・ドゥ・ラ・イール
>>そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイの福音書、第6章31~33節)
もし神さまが御自身の義を人間に知らせようとされなかったら、人は「神を第一にする」という規範に沿って行動しようと思うでもなく、その目や行動は肉の欲や思いを満足させてくれるもの、自分にとって快いもの、得をさせてくれるもの……そうした欲望が常に第一だったのではないでしょうか。
この間、とあるバラエティ番組をテレビで見ていて、そこに出てくる某芸能人の方の行動があまりに利己的で、少し笑ってしまったことがありました(^^;)
もちろん、人は誰しも利己的な生き物とは思います。けれども、「流石にここまでだと周囲の人からの評価が下がるな」と思い、ある程度のところで歯止めがかかったりといった理性による抑制というものがあると思うんですよね。
けれども唯一、「これだけはどうしても欲しい!!」と、自分にとって物凄く執着するものについては、その理性が働かず、周囲の人々の評価が下がったり、「それって人としてどーなの?
」とまわりに思われることを覚悟で突っ走って行動してしまうものなのかもしれません。
そして、神さまの教えというのはそれとはまるきり逆で、究極、自分が食べるものを貧しい人に与え、他人に良い服を与えて自分は襤褸をまとう、自分のもっとも欲するもの(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など)を他の人にくれてやって、そうしたものを第一とせず、神さまの義を第一にするなら……そうした人々には「パンと魚の奇跡」がちょうどそうであるように、「すべての人が満腹して、なお余った」ということが実現するのだと思います。
もちろん、こうした教えを聞いて「うえっ」とか「ゲロゲロ☆
」と思う方も多いと思うんですよね(^^;)では、この<神の義>とは、神の義を第一にするというのは、どういうことなのでしょうか。
>>「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」
さらに仰せられた。
「あなたの子孫はこのようになる」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記、第15章5~6節)
イエスさまの十字架の救いについてわかりやすく言うとすると……それは「勲(いさお)なくして(神の目に)義と認められる」ということであり、勲、つまり、わたしたちがあれやこれやの善行を神さまの御前に積み上げたからではなく、イエスさまの十字架の血潮によって罪の贖いがなされ、罪なしとされたことにより――イエスさまを信じた者は神さまに義とされ、天国へ行けるということなのです。
もちろん、思いますよね。「え?なんでそーなるの?
」と、普通に論理的に考えた場合はそうかもしれません。神さまの目に義とされるということは、簡単にいうとすれば、「わたしはあなたになんの罪も認めない」と神さま御自身がそう宣告してくださることであり、それはイエスさまが十字架上で流された血潮の力により、その無代価の血の贖いこそが、神さまの恵みにして恩寵、神さまが何より人間を愛しておられるという証拠といっていいと思います。
「無代価の血の贖い」なんて聞くと、これもまたさらにややこしい言葉(?)のような気がしますよね。イエスさまはその御生涯においてなんの罪を犯されず、ただ父なる神の御心のみを行なった清い方だったのですが、神さまはこの御自身のひとり子を、あえて十字架刑という恐ろしい刑罰にかけられました。これは人間でいっても、自分の愛する息子や娘、あるいは仮にそれが愛するペットでも、十字架にかけたいなどとは誰も思いません。けれども、イエスさまが十字架上で痛みと苦しみ、さらには父との霊的断絶すらも経験し、その極みを味わわれたことで――彼を信じる者はみな救われ、死後に天国へ行けるという道が開かれました。イエスさまが十字架上で死を経験されてのち、三日後に復活されたように、わたしたちもその復活の恵みに与ることが出来るという道が……。
わたしたちは、神さまの目に義としていただくために、なんの代価も支払いませんでした。また、贖いとは、仮にわたしが誰かに誘拐されたとして、その時には身代金がおそらく必要となるでしょう。けれども、イエスさまが本来わたしたちが自分の罪に対して支払うべきこの身代金を、御自身の愛と恵みのゆえに、十字架上で血という霊的代金によって支払ってくださったことによって――そのイエスさまの血潮を信じる者はすべて、神さまに義とされ、また神さまが罪を認めない者はすべてみな天国へ行けるよ……という、これがキリスト教の原理といっていいのではないでしょうか。
罪ある者はすべて、神さまの御前に立つことが出来ません。神さまはあまりに聖いお方なので、本来であればどのような小さな罪もお見逃しになることが出来ない方なのですが、イエスさまの血の証印を受けた者には、彼の血の贖いを信じる者には一切罪をお認めにならないと、そうお約束してくださっているわけです。
ところで、イエスさまがお生まれになったのがクリスマスでないことは明らかなのですが、過越しの祭りの頃に十字架におかかりになったというのは、確かな歴史的事実と思います。
そして、この過越しの祭りとは、モーセの時代に神さまが鴨居と二本の門柱に血を塗りつけた家は過ぎ越される、その家の初い子を殺すことなく通りすぎられるということの記念として、今も祝われているとお聞きします(エジプトにおける第十の災い)。
また、黙示録にはこうあります。
>>この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
(黙示録、第7章1~4節)
この救いの印は、イエス・キリストの十字架の血の贖いを信じている者だけに与えられる特権です。
また、こうなると、「クリスチャンを自称していても、信仰の堕落している人というのもたくさんいるのでは?
」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、神の義というのはようするに――アブラハムがその信仰を義とされ、神さまと契約を結ばれたように、神さまと信仰的に正しく、健全な関係にある者が義とされる、ということなのです。つまり、イエスさまのことを信じ、その罪の贖いに浴し、その恵みについて毎日聖霊さまによって喜び祝う者にとっては……正直なところをいって、毎日がイエスさまの御誕生をお祝いする奇跡の日といってもいいのではないでしょうか。
>>神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
(コリント人への手紙第二、第6章2節)
>>そして、日と月と星には前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。
(ルカの福音書、第21章25~28節)
からだをまっすぐにするというのは、信仰の道をまっすぐにするということでもあると思います。「この曲がった時代から救われなさい」と聖ペテロも言っているとおり、人はそれぞれ自分の欲に溺れて神さまへと続く真っ直ぐな道から、自らそうと望んで己の欲望と罪の道へと落ち込んでゆきます。
けれども神さまは、人間がそのような罪深く弱い存在であるとわかっていました。「よいことをしたいと思う心はあるのに、実際には大してよいことなど行なえない自分」……そんな惨めさに、今年の暮れも(わたしも含めて)どれほど多くの人が溜息をついていることでしょう。
でも、喜んでください!父なる神もイエスさまもそんな弱いわたしたちをご存じであり、そのような弱く惨めな存在であるところのわたしたちを、なんの価値もないように見える人間のことを買い取り、天国へ挙げてくださると約束してくださっているのですから。
また、悪魔や悪霊という存在が逃げ去ってゆくのもこのことのゆえです。
彼らは罪の道に迷いこんだわたしたちを、「よく来たな。もうおまえは逃げられないぜ☆
」というようなことを言って縛りあげますが、イエスさまの血潮がその罪の縄目にかかった途端、彼らは神さまの命令によってその罪の人質とした者を手放さざるをえないのです。
罪の道、曲がった道から救われましょう。
また、神さまはわたしたちがイエスさまにあって救われてのち、さらにそのような場所て悪魔や悪霊のような存在と対面しても――何度でも贖い金を彼らに支払って、買い戻してくださるお方なのですから!
それではまた~!!
>>そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイの福音書、第6章31~33節)
もし神さまが御自身の義を人間に知らせようとされなかったら、人は「神を第一にする」という規範に沿って行動しようと思うでもなく、その目や行動は肉の欲や思いを満足させてくれるもの、自分にとって快いもの、得をさせてくれるもの……そうした欲望が常に第一だったのではないでしょうか。
この間、とあるバラエティ番組をテレビで見ていて、そこに出てくる某芸能人の方の行動があまりに利己的で、少し笑ってしまったことがありました(^^;)
もちろん、人は誰しも利己的な生き物とは思います。けれども、「流石にここまでだと周囲の人からの評価が下がるな」と思い、ある程度のところで歯止めがかかったりといった理性による抑制というものがあると思うんですよね。
けれども唯一、「これだけはどうしても欲しい!!」と、自分にとって物凄く執着するものについては、その理性が働かず、周囲の人々の評価が下がったり、「それって人としてどーなの?

そして、神さまの教えというのはそれとはまるきり逆で、究極、自分が食べるものを貧しい人に与え、他人に良い服を与えて自分は襤褸をまとう、自分のもっとも欲するもの(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など)を他の人にくれてやって、そうしたものを第一とせず、神さまの義を第一にするなら……そうした人々には「パンと魚の奇跡」がちょうどそうであるように、「すべての人が満腹して、なお余った」ということが実現するのだと思います。
もちろん、こうした教えを聞いて「うえっ」とか「ゲロゲロ☆

>>「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」
さらに仰せられた。
「あなたの子孫はこのようになる」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記、第15章5~6節)
イエスさまの十字架の救いについてわかりやすく言うとすると……それは「勲(いさお)なくして(神の目に)義と認められる」ということであり、勲、つまり、わたしたちがあれやこれやの善行を神さまの御前に積み上げたからではなく、イエスさまの十字架の血潮によって罪の贖いがなされ、罪なしとされたことにより――イエスさまを信じた者は神さまに義とされ、天国へ行けるということなのです。
もちろん、思いますよね。「え?なんでそーなるの?

「無代価の血の贖い」なんて聞くと、これもまたさらにややこしい言葉(?)のような気がしますよね。イエスさまはその御生涯においてなんの罪を犯されず、ただ父なる神の御心のみを行なった清い方だったのですが、神さまはこの御自身のひとり子を、あえて十字架刑という恐ろしい刑罰にかけられました。これは人間でいっても、自分の愛する息子や娘、あるいは仮にそれが愛するペットでも、十字架にかけたいなどとは誰も思いません。けれども、イエスさまが十字架上で痛みと苦しみ、さらには父との霊的断絶すらも経験し、その極みを味わわれたことで――彼を信じる者はみな救われ、死後に天国へ行けるという道が開かれました。イエスさまが十字架上で死を経験されてのち、三日後に復活されたように、わたしたちもその復活の恵みに与ることが出来るという道が……。
わたしたちは、神さまの目に義としていただくために、なんの代価も支払いませんでした。また、贖いとは、仮にわたしが誰かに誘拐されたとして、その時には身代金がおそらく必要となるでしょう。けれども、イエスさまが本来わたしたちが自分の罪に対して支払うべきこの身代金を、御自身の愛と恵みのゆえに、十字架上で血という霊的代金によって支払ってくださったことによって――そのイエスさまの血潮を信じる者はすべて、神さまに義とされ、また神さまが罪を認めない者はすべてみな天国へ行けるよ……という、これがキリスト教の原理といっていいのではないでしょうか。
罪ある者はすべて、神さまの御前に立つことが出来ません。神さまはあまりに聖いお方なので、本来であればどのような小さな罪もお見逃しになることが出来ない方なのですが、イエスさまの血の証印を受けた者には、彼の血の贖いを信じる者には一切罪をお認めにならないと、そうお約束してくださっているわけです。
ところで、イエスさまがお生まれになったのがクリスマスでないことは明らかなのですが、過越しの祭りの頃に十字架におかかりになったというのは、確かな歴史的事実と思います。
そして、この過越しの祭りとは、モーセの時代に神さまが鴨居と二本の門柱に血を塗りつけた家は過ぎ越される、その家の初い子を殺すことなく通りすぎられるということの記念として、今も祝われているとお聞きします(エジプトにおける第十の災い)。
また、黙示録にはこうあります。
>>この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。
(黙示録、第7章1~4節)
この救いの印は、イエス・キリストの十字架の血の贖いを信じている者だけに与えられる特権です。
また、こうなると、「クリスチャンを自称していても、信仰の堕落している人というのもたくさんいるのでは?

けれども、神の義というのはようするに――アブラハムがその信仰を義とされ、神さまと契約を結ばれたように、神さまと信仰的に正しく、健全な関係にある者が義とされる、ということなのです。つまり、イエスさまのことを信じ、その罪の贖いに浴し、その恵みについて毎日聖霊さまによって喜び祝う者にとっては……正直なところをいって、毎日がイエスさまの御誕生をお祝いする奇跡の日といってもいいのではないでしょうか。
>>神は言われます。
「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
(コリント人への手紙第二、第6章2節)
>>そして、日と月と星には前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。
(ルカの福音書、第21章25~28節)
からだをまっすぐにするというのは、信仰の道をまっすぐにするということでもあると思います。「この曲がった時代から救われなさい」と聖ペテロも言っているとおり、人はそれぞれ自分の欲に溺れて神さまへと続く真っ直ぐな道から、自らそうと望んで己の欲望と罪の道へと落ち込んでゆきます。
けれども神さまは、人間がそのような罪深く弱い存在であるとわかっていました。「よいことをしたいと思う心はあるのに、実際には大してよいことなど行なえない自分」……そんな惨めさに、今年の暮れも(わたしも含めて)どれほど多くの人が溜息をついていることでしょう。
でも、喜んでください!父なる神もイエスさまもそんな弱いわたしたちをご存じであり、そのような弱く惨めな存在であるところのわたしたちを、なんの価値もないように見える人間のことを買い取り、天国へ挙げてくださると約束してくださっているのですから。
また、悪魔や悪霊という存在が逃げ去ってゆくのもこのことのゆえです。
彼らは罪の道に迷いこんだわたしたちを、「よく来たな。もうおまえは逃げられないぜ☆

罪の道、曲がった道から救われましょう。
また、神さまはわたしたちがイエスさまにあって救われてのち、さらにそのような場所て悪魔や悪霊のような存在と対面しても――何度でも贖い金を彼らに支払って、買い戻してくださるお方なのですから!
それではまた~!!

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