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【悔い改めるマグダラのマリア】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
後悔とは記憶が目覚めること
すると仲間がいっせいに起きだして
済んでしまった行いが
窓やドアのところに姿を見せる
過去が魂の前に並べられ
マッチの光りで照らされる
魂が眼を通しやすくし
信念が働きを続けるのを助けるため――
後悔は癒されることがない
神さえ治すことの出来ない病い――
なぜなら後悔は神の定めで
地獄にふさわしいものだから
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集~』中島完訳/国文社刊)
わたしの知り合いの方に、「夜寝る前になると、死んだら人間は一体どうなるのだろう」ということを考えることがある……という方がいました(ちなみにクリスチャンの方ではなく、いわゆる葬式仏教徒的な方で、他に何か強く宗教を信じるとか、そうした傾向のある方でもありません)。
その方がおっしゃるには、「夜眠る前になると」色々なことが頭に思い浮かんでくるということでした。
たとえば、職場にいるある方の悪口を、別の仲のいい方と散々言いたい放題言ったこととか、そうしたことで夜眠る前に良心が痛むことがあるんだけれども、結局翌日になれば同じことを繰り返している……また、こうしたことをつらつらと考えたあとに「わたしは悪い人間だな」と思い、「人間は死んだらどうなるのだろう」と考えたりすることがある、ということでした。
どうも、わたしの聞く限りにおいて、こうした感じの方というのは多いみたいです(^^;)
それで、自分でもそうした方の話を聞いていて結構びっくりしたというか。
何故といって、わたしの場合、そうしたことで悩んだことがほとんどないからなんですよね(^^;)
夜、眠る前にその時悩んでいることや困っていることが頭に思い浮かぶとか、そのことが頭から離れていかないといったことは、当然誰でもあると思います(わたしもそうです)。でも、そういう時にはとにかく神さまに困っていることを寝ながら祈って相談すればいいので(笑)、そうこうしているうちに寝てしまうことが多いというか![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/z1.gif)
ところで、イエスさまの生涯について書かれた新約聖書の四福音書には、預言者ヨハネによる悔い改めのことが書かれています。
>>そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ』」
と言われたその人である。
(マタイの福音書、第3章1~3節)
また、ペテロは使徒の働きのところで、こう言っています。
>>「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
(使徒の働き、第2章38~40節)
すべての人は罪人である、という言葉は、おそらく誰もが聞いたことのあるものだと思います。
わたしも自分がキリスト教徒になる前は、「言われてみれば確かにそやな☆
」と思ったくらいなもので、それ以上どうこう思うことはなかったような気がします。
けれども、クリスチャンになってからまず祈りの中でしたことというのは、この悔い改めということだったかもしれません。
教会の方や牧師さんなどに、「信じたあとは、まず罪の悔い改めの祈りをしないと☆
」などと促されたということもなく、それまで自分なりに小さい頃から祈っていたというのがあったので、「どんなふうにお祈りすればいいのでしょう」といったようにも聞いたりしませんでした。
ただ、自分でなんとなくそう感じて悔い改めの祈りというのをしていたと思いますし、また牧師さんのお説教の中で「悔い改めの大切さ」ということも聞いたことがありましたので、そこでますます「悔い改めって大切だな」と思い、日常的に犯す(あるいは犯してしまったかもしれない)罪については、「自分で知らずに犯してしまった罪までも」許してくださるようにといったようにお祈りしていたような気がします。
今も祈る時には、「今日も祈りを導いてくださってありがとうございます」、「きのうが祝福された一日であったことを感謝します。また今日もそのような一日でありますように、また明日も神さまによって祝福された一日でありますように」と祈ったあとは、まず悔い改めの祈りです。それから、今こういうことで困っている人がいるので助けてくださいですとか、教会の群れ全体のことなど、また病いの癒し、最後にその他自分が叶えてもらいたいと思っている祈り……などといったように続いていきます。
祈り方は人それぞれだと思いますので、わたしも特に自分で「正しい祈り方」をしているとは思わないのですが、やっぱり、具体的に叶えてもらいたい祈りの前に、必ずくるのが「悔い改めの祈り」だと思います。
もちろんわたし自身、そう祈っているからといって、「じゃあお宅は必要最低限罪を犯さぬような清らかな人生を送っとるのだね☆
」と誰かに聞かれたとすれば、100%そういうことは絶対にないと思うんですよね(^^;)
つまり、もしかしたら逆にわたしが「必要最低限罪を犯さぬような清らかな生涯」なるものを送っていたとすれば、むしろ自分の罪といったものに対して無自覚で、「悔い改める必要性」みたいなものはまるで感じなかったかもしれません。
言ってみれば、人の悪口を言うといったようなことは誰もがしていることであり、わたしもそうだけど、それが何か?……とでもいうのでしょうか。でも、↑に書いた方のように、やっぱり時には「悪い」と思うこともあれば、「あれは言いすぎだった」と反省することもある――けれど、翌日になると昨夜寝る前にそう思ったこともすっかり忘れ、また同じことを繰り返す……というのでしょうか。
>>「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
義と認められたのは、自分の罪を自覚しているがゆえに、「こんなにも悪い人間であるところの私を許してください」と祈った取税人のほうでした。
もちろん神さまは無条件でわたしたち人間のひとりひとりを愛してくださる方なのですが、それと同時にもし神さまに愛される条件のようなものがあるとしたら、この「悔い改め」というのは条件のひとつとして絶対にあるような気がします(^^;)
その後、わたしは教会で時々「これまであなた(イエス・キリスト)のことを信じていなかったことをお許しください」というお祈りの言葉を聞いたのですが、もちろんその場にノンクリスチャンの方がいたとしたら、「?
}」と思ったかもしれません。
というのも、わたし自身そうでしたが、日本の葬式仏教徒的な一般家庭に育ってしまうと、イエスさまの福音を知る機会というのはほとんどないと言っていいと思います。時々、黒い看板に黄色い文字で「世界の終わりは近い・聖書」などとあるのを見て「キリスト教って頭おかしいんじゃね?」と思うくらなもので、そうした誤解が蔓延している結果として、時折街中で十字架のある建物を見ても、「近づいてはいけない宗教団体☆」といううさんくさい目で見られてしまうのだと思います。
つまり、「信じる機会を与えられなかったにも関わらず、そのことを許してください」だなんて、ちょっとおかしーんじゃねえの?」という、人間的な理屈としてはそうかもしれません(^^;)
けれど、心の底から「自分はよくない人間だ」とか「恥かしい人間だ」、「この状態から救われたい」、「助けてほしい」というくらいに切迫感のある人にとっては――神さまに関することで、細かい理屈はどうでもいいと感じるようになっていくと思うんですよね。
特にそれは、神さまの霊(聖霊さま)が注がれることによって、間違いなくそうだと思います。
>>なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(『ローマ人への手紙』第10章9~10節)
わたしがノンクリスチャンだった頃は、キリスト教徒になりたいと思ったことは一度もありませんでした。
でもそれでいて、文学作品や欧米の映画などを見ていて、<キリスト教の思想>には通じるようになりたいとは思っていたのです(^^;)
けれど、それで自分が実際にクリスチャンになってみると、今は思います。「キリスト教というのものは基本的に理屈では信じられないように出来ている」と。そしてこの「基本的に理屈によっては信じることが出来ないもの」を信者たちが何故どうやって信じているかといえば、やはり「聖霊によって」としか答えようがない気がするのです(^^;)
神さまのことを信じるにあたって、まず理屈は後回しです。旧約聖書の伝道者の書に「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」とあるとおり――まずはイエス・キリストが十字架にかかった意味といったことはわからなくても、訳がわからないながら口で告白して救われ、そのあとに聖霊さまが注がれると、目からまるで覆いが取れたように色々なことがわかってくるという、わたしの救われる過程というのは何かそんな感じのことだったと思います。
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
後悔とは記憶が目覚めること
すると仲間がいっせいに起きだして
済んでしまった行いが
窓やドアのところに姿を見せる
過去が魂の前に並べられ
マッチの光りで照らされる
魂が眼を通しやすくし
信念が働きを続けるのを助けるため――
後悔は癒されることがない
神さえ治すことの出来ない病い――
なぜなら後悔は神の定めで
地獄にふさわしいものだから
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集~』中島完訳/国文社刊)
わたしの知り合いの方に、「夜寝る前になると、死んだら人間は一体どうなるのだろう」ということを考えることがある……という方がいました(ちなみにクリスチャンの方ではなく、いわゆる葬式仏教徒的な方で、他に何か強く宗教を信じるとか、そうした傾向のある方でもありません)。
その方がおっしゃるには、「夜眠る前になると」色々なことが頭に思い浮かんでくるということでした。
たとえば、職場にいるある方の悪口を、別の仲のいい方と散々言いたい放題言ったこととか、そうしたことで夜眠る前に良心が痛むことがあるんだけれども、結局翌日になれば同じことを繰り返している……また、こうしたことをつらつらと考えたあとに「わたしは悪い人間だな」と思い、「人間は死んだらどうなるのだろう」と考えたりすることがある、ということでした。
どうも、わたしの聞く限りにおいて、こうした感じの方というのは多いみたいです(^^;)
それで、自分でもそうした方の話を聞いていて結構びっくりしたというか。
何故といって、わたしの場合、そうしたことで悩んだことがほとんどないからなんですよね(^^;)
夜、眠る前にその時悩んでいることや困っていることが頭に思い浮かぶとか、そのことが頭から離れていかないといったことは、当然誰でもあると思います(わたしもそうです)。でも、そういう時にはとにかく神さまに困っていることを寝ながら祈って相談すればいいので(笑)、そうこうしているうちに寝てしまうことが多いというか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/z1.gif)
ところで、イエスさまの生涯について書かれた新約聖書の四福音書には、預言者ヨハネによる悔い改めのことが書かれています。
>>そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
この人は預言者イザヤによって、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ』」
と言われたその人である。
(マタイの福音書、第3章1~3節)
また、ペテロは使徒の働きのところで、こう言っています。
>>「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
(使徒の働き、第2章38~40節)
すべての人は罪人である、という言葉は、おそらく誰もが聞いたことのあるものだと思います。
わたしも自分がキリスト教徒になる前は、「言われてみれば確かにそやな☆
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_full_s.gif)
けれども、クリスチャンになってからまず祈りの中でしたことというのは、この悔い改めということだったかもしれません。
教会の方や牧師さんなどに、「信じたあとは、まず罪の悔い改めの祈りをしないと☆
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ただ、自分でなんとなくそう感じて悔い改めの祈りというのをしていたと思いますし、また牧師さんのお説教の中で「悔い改めの大切さ」ということも聞いたことがありましたので、そこでますます「悔い改めって大切だな」と思い、日常的に犯す(あるいは犯してしまったかもしれない)罪については、「自分で知らずに犯してしまった罪までも」許してくださるようにといったようにお祈りしていたような気がします。
今も祈る時には、「今日も祈りを導いてくださってありがとうございます」、「きのうが祝福された一日であったことを感謝します。また今日もそのような一日でありますように、また明日も神さまによって祝福された一日でありますように」と祈ったあとは、まず悔い改めの祈りです。それから、今こういうことで困っている人がいるので助けてくださいですとか、教会の群れ全体のことなど、また病いの癒し、最後にその他自分が叶えてもらいたいと思っている祈り……などといったように続いていきます。
祈り方は人それぞれだと思いますので、わたしも特に自分で「正しい祈り方」をしているとは思わないのですが、やっぱり、具体的に叶えてもらいたい祈りの前に、必ずくるのが「悔い改めの祈り」だと思います。
もちろんわたし自身、そう祈っているからといって、「じゃあお宅は必要最低限罪を犯さぬような清らかな人生を送っとるのだね☆
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_full_s.gif)
つまり、もしかしたら逆にわたしが「必要最低限罪を犯さぬような清らかな生涯」なるものを送っていたとすれば、むしろ自分の罪といったものに対して無自覚で、「悔い改める必要性」みたいなものはまるで感じなかったかもしれません。
言ってみれば、人の悪口を言うといったようなことは誰もがしていることであり、わたしもそうだけど、それが何か?……とでもいうのでしょうか。でも、↑に書いた方のように、やっぱり時には「悪い」と思うこともあれば、「あれは言いすぎだった」と反省することもある――けれど、翌日になると昨夜寝る前にそう思ったこともすっかり忘れ、また同じことを繰り返す……というのでしょうか。
>>「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
義と認められたのは、自分の罪を自覚しているがゆえに、「こんなにも悪い人間であるところの私を許してください」と祈った取税人のほうでした。
もちろん神さまは無条件でわたしたち人間のひとりひとりを愛してくださる方なのですが、それと同時にもし神さまに愛される条件のようなものがあるとしたら、この「悔い改め」というのは条件のひとつとして絶対にあるような気がします(^^;)
その後、わたしは教会で時々「これまであなた(イエス・キリスト)のことを信じていなかったことをお許しください」というお祈りの言葉を聞いたのですが、もちろんその場にノンクリスチャンの方がいたとしたら、「?
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というのも、わたし自身そうでしたが、日本の葬式仏教徒的な一般家庭に育ってしまうと、イエスさまの福音を知る機会というのはほとんどないと言っていいと思います。時々、黒い看板に黄色い文字で「世界の終わりは近い・聖書」などとあるのを見て「キリスト教って頭おかしいんじゃね?」と思うくらなもので、そうした誤解が蔓延している結果として、時折街中で十字架のある建物を見ても、「近づいてはいけない宗教団体☆」といううさんくさい目で見られてしまうのだと思います。
つまり、「信じる機会を与えられなかったにも関わらず、そのことを許してください」だなんて、ちょっとおかしーんじゃねえの?」という、人間的な理屈としてはそうかもしれません(^^;)
けれど、心の底から「自分はよくない人間だ」とか「恥かしい人間だ」、「この状態から救われたい」、「助けてほしい」というくらいに切迫感のある人にとっては――神さまに関することで、細かい理屈はどうでもいいと感じるようになっていくと思うんですよね。
特にそれは、神さまの霊(聖霊さま)が注がれることによって、間違いなくそうだと思います。
>>なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(『ローマ人への手紙』第10章9~10節)
わたしがノンクリスチャンだった頃は、キリスト教徒になりたいと思ったことは一度もありませんでした。
でもそれでいて、文学作品や欧米の映画などを見ていて、<キリスト教の思想>には通じるようになりたいとは思っていたのです(^^;)
けれど、それで自分が実際にクリスチャンになってみると、今は思います。「キリスト教というのものは基本的に理屈では信じられないように出来ている」と。そしてこの「基本的に理屈によっては信じることが出来ないもの」を信者たちが何故どうやって信じているかといえば、やはり「聖霊によって」としか答えようがない気がするのです(^^;)
神さまのことを信じるにあたって、まず理屈は後回しです。旧約聖書の伝道者の書に「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」とあるとおり――まずはイエス・キリストが十字架にかかった意味といったことはわからなくても、訳がわからないながら口で告白して救われ、そのあとに聖霊さまが注がれると、目からまるで覆いが取れたように色々なことがわかってくるという、わたしの救われる過程というのは何かそんな感じのことだったと思います。
それではまた~!!
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