神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

キリストの復活。

2016年02月18日 | キリスト教
【万聖節】ウィリアム・アドルフ・ブグロー


 墓に葬られた人々は
 等しく朽ちるのだろうか
 私は信じている
 ある種族は確かに生命を持つと――

 私はそれを証言しよう
 私が死んではいないと否定するのと同じくらい確かだと――
 そして頭の上のタンクから
 その証しとして 私の肺を満たすのです

 イエスはおっしゃった あなた方に言おう
 死を味わうことのない者が
 ここに立っていると――
 もしイエスが これを心から言われたのなら

 もう議論はしたくない
 主のお言葉に
 論争の余地はありません
 主はおっしゃったのです 死は死んでしまったと――

(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集~』中島完訳/国文社刊)


 マズローの欲求五段階説というのを、なんとなーく聞いたことがある……という方は多いと思います。

 1.生理的欲求

 2.安全の欲求

 3.社会的欲求/愛と所属の欲求

 4.尊重(承認)の欲求

 5.自己実現の欲求


 簡単に説明したとすれば、1.の「生理的欲求」は、衣食住に関することや睡眠など、人間の基本的な欲求のことですよね。

 そして、2.の「安全の欲求」は、衣食住や睡眠といったことが十分保障されるためには、百パーセント完全ではなかったにしても、ある程度安心して暮らせる社会、その中で自分の人生をある程度見通して計画を立てることが出来るためには、この安全・安心ということが必要になってくるかと思います(たとえば、戦争などで明日どうなるかもわからないといった場合には、この欲求がほとんど満たされていないということになります)。

 3.の「社会的欲求/愛と所属の欲求」は、わかりやすいかと思います。

 自分が社会である一定の役割を求められ、それに応えることが出来る時、人は「生きている」ことを実感するものですし、そこに生き甲斐ややり甲斐などを見出す方はとても多いと思います。

 また、それが家族愛でも、友人や恋人に対するものでも、とにかく「愛」というものが大切……というのは特に説明いらない気がするので省くとして(^^;)、所属の欲求というのは、人間には本能的にどこかに属していたいという帰属本能がある、ということらしいです。

 つまり、「俺は一匹オオカミのアウトロー。一般社会に帰属するなんてごめんだぜ」という方がいらしたとして、ここでよく言われるのが「そんな人でも無人島でひとりきりになった場合は、むしろどこかに帰属したくなるものだ」ということでしょうか。

 仮に「俺には愛など必要ない」と思う方がいらしたとしても、やはり無人島で孤立無援状態に置かれた場合は、「誰でもいいよう。オイラとお話してくれよーう」という状態になるのに、一か月もかからないものと思われます。

 そのくらいだったら人間やはり、多少居心地が悪かったり、窮屈だったとしても、何人かでまとまって助けあって暮らしたほうがいい……と説明されると、「愛と所属の欲求」は理解が簡単になるかと思います。

 4.の「尊重(承認)の欲求」もたぶんわかりやすいと思います。

 ↑の続きとして、仮に無人島で何人かで暮らすことになったとして、そこで狩りをして何か動物を取ってきたり、魚を釣ってきたという場合……みんなからめっちゃ賞賛されることになると思うんですよね

 あるいは、ある一定の社会的役割を果たすことで、世間様に認められたいといったこともこの範疇に含めていいかと思います。

 5.の「自己実現の欲求」も、読んで字の如しという感じがします。

 特に、今の日本の社会だと、1と2は満たされていて当たり前という状態だと思います。

 今社会問題になっている「引きこもり」ということや親子の問題を考えてみても、3以上からが欲求の満たしとして難しくなってくると思うのですが、仮にこの3と4が満たされたとしても、人間は時に「虚しさ」を感じる生き物らしく。。。 

 そして、この5の自己実現ということが出来た時に、その虚しさを感じる心の穴のようなものを埋めることが出来る……と説明すると、ここはわかりやすいでしょうか。


 ところでわたし、ホスピスなどで働いた、あるいはボランティアをした経験があるわけではないのですが、寝たきりで意識不明であるとか、植物状態といった方のおられるところで働いたことがあって、そのあとにホスピスに関する本を色々と読んでいたことがあります。

 そして、このマズローの五大欲求の他に、いずれ時が至れば間違いなく死ぬとわかっている、死が間近い方にとっては、スピリチュアルな欲求というのがあると、ホームヘルパーの講習か何かで聞いたことがありました。

「人は死んだらどうなるのか」という患者さん/入所者さん/利用者さんの不安を出来るだけ解消するためには、周囲の人々はどう関わったらいいのか……というのは、その患者さん(入所者さん/利用者さん)によって、物凄く個別性のあることですよね。

 たとえば、仏教を信じている方、あるいはキリスト教を信じてるいる方でも、割合自分にとっての「死後のイメージ」がすでに出来上がってる方にとっては、比較的このスピリチュアルな欲求というのは満たされている傾向が強いかもしれません。

 けれども、日本の多くの方は基本的に葬式仏教徒ですし、自分が極楽浄土へ行くのか、それとも天国へ行くのか、よくわからない……そもそも自分の死が近づくにつれて、本当にそんなところがあるかどうかさえあやしくなってきた……となるのが普通ではないだろうかと、わたしなどは想像します。

 わたしの知り合いの方で、特にこれといった宗教を信じてなく、それが創○学会でもエ○バでもモ○モン教でも、布教の方が玄関口に現われたとしたら、唾を吐いて追い返す……といった感じの方が、末期癌で亡くなられたことがありました。

 どんな宗教もマユツバものだという方は多いと思うのですが、そうした方でも死が近くなった時には割合あっさりキリストのことを信じたりする――とは聞いていたので、わたしも「イエスさまのことをお伝えする機会はないだろうか」と思いつつ、結局伝えられずに終わってしまったのです(ちなみにエ○バとモ○モン教は、キリスト教の正統的な主流派からは異端視されているそうです)。

 けれど、この方が「今夜が峠だ」、「危ない」という時、彼女はある種の夢を見たというか、臨死体験のようなものをされたそうなんですね。いわゆるよくいうお花畑とか、そうしたイメージがバッバッと出てきて、目が覚めた時に「前まではそんなんあるんやろか」くらいの気持ちだったけれど、「本当にあるんだな~」と思ったということでした。

 そして、この時の体験から「死ぬのがあまり怖くなくなった」といったようにお話されていたそうです。

「人間にはちゃんと死ぬことのできる力が備わっている」という言葉をどこかで聞いたことがあるのですが、これもそういうことだろうか……と思ったりしました。特定の宗教を特別信じていなくても、人が死後行き着くところはみな同じ――なのかどうかはわたしにはわかりませんが、せめてもこの方が「死」というものへの恐れが少なくてお亡くなりになられたのなら……と、そんなふうに思ったりもしたんですね

 ところで、スピリチュアルペインに対するスピリチュアルなケアというのがあって、スピリチュアルな痛みというのは、訳すと「霊的な痛み」ということになるでしょうか。もちろん、人は仮に死が間近に迫っていなかったとしても、「自分は何故今ここにこうして生きているのだろう」、「自分が生きていることに何か意味はあるのか」、「結局のところ最後は死ぬのなら、何故人は生まれてくるのだろう」……といったことは、人間誰しも時には考えることですよね。

 けれども、病気などによってその<死>が間近いことがはっきりすると、今までは時折ぼんやり考える程度であったことが、精神的に深く掘り下げられていくのだと思います。そしてこうした患者さん(入所者さん/利用者さん)が「死んだら人はどうなるの?」、「どうしてわたしはよりにもよって<今>病気になって死ななければならないの?」、「自分は死ぬのは怖くない。でも人から忘れられるのは怖い」……といった事柄に、スピリチュアルなケアを行う人というのは、うまく答えなくてはいけない側面があると思うんですよね。

 もちろん、「わたしにもわからないけど、きっと~~じゃないかな」とか、ただ黙ってうんうんと頷き返すとか、どの対応が正しいとか、そういうのはおそらくないと思うのですが、仮にもしある特定の宗教を信じていなくても、仏教やキリスト教の教えにある程度通じているですとか、あるいはそうした事柄について哲学者はなんて言っているかということについて学んでおく必要があるのだろうなという気はします。

 そうした事柄について、仏教はこう言っている・キリスト教ではこう信じられている・哲学者の△□の教えではこうだ……ということについて、知っているだけでもかなり違うというか。もちろん、それを応用して相手にうまく伝えられるかどうかっていうコミュニケーション技術というのも関わってくるので、本当に難しいことだなとは思うのですが(^^;)

 今回はちょっとキリスト教寄りというより、宗教的に中立(?)な記事なんですけど、人の死生観というのは本当に様々だなあと思います。「人は生まれ変わる」と信じることが、その人にとって<死>の力を弱める効果を持つこともあれば、仏教とキリスト教の合いの子のような思想を持つことが当人にとっての思想的な救いとなることもあり……あと、わたしが「人によって<死>というものに対する考え方が随分違う」ということで結構驚いたのが、「死ぬことは怖くない。でも、自分という存在が消滅することは恐ろしい」とおっしゃっていた方がいらしたことでしょうか。

 わたしが死ぬことを考えていた時というのは、何より願っていたのが、その「自分という存在が消滅」することこそ救いだと思っていたことかもしれません(^^;)

 けれど、この方は不治の病いによって、このままでは周囲にも迷惑をかけるといったことから、自殺することを考えていたそうです。でもいざ実行することを考えると、死ぬこと自体が怖いというより、このまま自分という存在が消えてなんになるのだ?と思い、一念発起して体が動くうちに出来ることをしようと思われたということでした。

 このお話を聞いた時に思ったのが、人の<生きる>力というのは物凄いということだったかもしれません。

 その<生きる力>を、時に<死>の持つ力、死への恐れ、恐怖といったものが圧倒的に凌駕する一点というのがあると思うのですが、わたし個人の死生観では、そのような時にこそ、イエス・キリストが来られて、<死>そのものを打ち砕いた御力でもって信者のひとりひとりを守り、また死後には天国で安らうことが出来るということだったでしょうか。


 >>わたしは黄泉の力から、彼らを解き放ち、
 彼らを死から贖おう。
 死よ。おまえの棘はどこにあるのか。
 黄泉よ。おまえの針はどこにあるのか。

(『ホセア書』、第13章14節)


 イエスさまが十字架にかかって三日後に復活されたことを信じるなら、誰でも死の持つ棘を除いていただけます。

 本当は今回は<キリストの復活>について主眼を置いた記事を書こうと思っていたはずなのに、話が中立地帯(?)に逸れてしまってすみません(^^;)

 それではまた~!!





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