【受胎告知】フラ・アンジェリコ
先日、テレビを見ていたら、とあるとても有名な芸能人の方が――「クリスチャンではないけれど、学校がミッションスクールだったので、聖書の勉強をよくしていた」といったようにおっしゃっていました
それで、深い意味はないんですけど、その時なんとなく思ったんですよね(^^;)
「こういう話、時々聞くことがあるような……」みたいに。つまり、通っていた学校がたまたまミッションスクールで、そこでキリスト教の教えに触れたけれども、べつにクリスチャンというわけではないとか、大学で哲学を専攻していて、そうなるとキリスト教のことを勉強するのが必須となるので、そうした意味で知識的には詳しいけれども、信仰を持っているわけではない……とか、何かそうしたことなんですけれども。
さらには、ずっとミッション系の学校に通っていたものの、キリスト教の思想よりも仏教の思想のほうに自分としては惹かれるものがあり、大学は仏教系のところを選んだ……という方もいます。
たぶん、こう書いてくると、とても不思議になるあるひとつのことがあるのではないでしょうか。
もしキリスト教の神が本当の神さまだというのなら――そうした過程のどこかでこうした人々に御自身をお示しになって、彼らをクリスチャンにならせたりしなかったのは何故なのだろう……といったような疑問です
そのですね、自分が今クリスチャンだから、キリスト教について学びながらもイエスさまを信じる機会だけがなかったとしたら、それはとても残念なことだ……といったことを言いたいわけではないんです
ただ、人が神さまを信じるには<時>があるものですし、「キリスト教を知識としてだけ学んでも、イエスさまこそがわたしの贖い主であり救い主」といったようになるとは限らないというのでしょうか(^^;)
わたしも、学校の世界史でキリスト教の歴史的なことは軽く学びましたけれども、1054年東西教会の分裂とか、1077年カノッサの屈辱とか、そういうのって歴史的出来事として一応学びはしても、「はて、それが本当の意味ではどういうことなのか」って、自分がクリスチャンでなかった当時は意味なんてまるでわかりませんでした。
簡単に言えば、テストの空欄に十字軍とは、(聖地エルサレム)を(イスラム教諸国)から奪還することを目的に派遣された遠征軍のことである……といったように埋めて点数をもらったあとはすっかり忘れてしまうといったことでしかありません
でもそうではなく――イエス・キリストのことを知識によってではなく、真実本当に知るというのはどういうことなのか、何故「この方こそが神さま、神の子である」と、今も十字架の前に身を投げだして信じる人が何万人となくいるのか、その<違い>は一体どこにあるのでしょうか。
これはあくまでわたし個人がそう思ってるっていうことなんですけど……やっぱりそれは、聖霊のバプテスマを受けるかどうかの違いだと思います。このバプテスマという言葉も日本語的に説明が難しい感じがしますが、聖書入門com.様より、引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>バプテスマ(洗礼)の本来の意味は、「一体化」ということです。布を染料液に浸けると、その色に染まります。それがバプテスマの意味です。
たとえば、バプテスマのヨハネの説いた「悔い改めのバプテスマ」とは、ヨハネの語る悔い改めのメッセージを受け入れ、同意したしるしとして受けるものです。これは、クリスチャンが受けるバプテスマとは違い、メシアを迎える心の準備のために受けるバプテスマです。
クリスチャンが受けるバプテスマが象徴する一体化とは、もちろん、「イエス・キリストとの一体化」です。「自分はイエス・キリストを信じた」、あるいは「イエス・キリストと一つになった」、ということを象徴的に表現するのが洗礼です。洗礼は、イエス・キリストを信じてクリスチャンになった人がキリストに従順な生活を始める第一歩です。
ただし、洗礼は救いの条件ではありません。すでに信仰によって罪を赦された者が、主イエスの命令に従って受けるのが洗礼です。
こうしたこともなんていうか、ノンクリスチャンの方が一応読むだけ読んでも「?」と感じるようなことだとは思うんですけど(汗)、一応しつこく説明だけ続けますと、聖書には以下のようにあります。
>>このイエスキリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血によって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
あかしするものが三つあります。
御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
(ヨハネの手紙第一、第5章6~11節)
この御霊(みたま)というのは聖霊のことですが、何故イエス・キリストは、水と血によって来られたのか……といった理屈については、一応聖書の欄外注には†水と血によって来られた方=この場合の水は、キリストの公生涯が始まる時にバプテスマのヨハネから受けたバプテスマを意味し、血は、公生涯の終わりに十字架で流された血を意味する。とあり――でも実は、大切なのはこうした理屈(?)ではないと思うんですよね。
ええと、話は少し飛びますが、以前わたし、キリスト教の慈善団体として有名なある場所で短い期間(三~四か月くらい☆)働いていたことがありました。そこで働いてみようかなと思ったのは(まあ、週に二回くらいのパートみたいなものですけど^^;)、キリスト教の慈善団体ということで、そこでクリスチャンの方と親しくできるといいな……と思ったからでした。
ところが、ですね。その部署の責任者の方自身がまず、「わたしはクリスチャンじゃないけれども、何分こうした施設なので、職員は全員聖書やキリスト教の教えについては定期的に学んでいるし、そうした勉強会の時間も持っている」と面接の時におっしゃっていたんですよね。そんでもって、職員全体のほとんどが実際はクリスチャンではない、でも元が海外から来たキリスト教の慈善団体が母体となっているので、そうしたキリスト教の思想についてはみんな学んでいる……ということだったんですよ。
そのお話を聞いた瞬間、わたしが思ったのは「……………」みたいなことでした。それで、その少数いるっていうクリスチャンの方とイエスさまのお話をしたりしたいので、どの職員の方がクリスチャンなのか教えてもらえないでしょうかってある時聞いたところ――「宗教や信仰の自由、またプライヴァシーといったことがあるので、そうしたことは教えられない」と言われました。
そのですね……こうした形で本当の意味での信仰が実を結ばない、いくらキリスト教について学んでも、イエスさまのことを自分の救い主として信じることだけは決してない――ということがあるということに、自分的にとても驚いたというか(^^;)
いえ、そうした勉強会を通してイエスさまに触れられたり、あるいは教会へ通われるようになってイエスさまのことを信じるに至ることが出来た……という方もおられると思うので、そのことをとやこう言いたいわけではないんです。
ただ、「救われる」というのは本当に神さまの一方的な恵みだということを、あらためて思ったといった出来事でした。何故といって、わたしの場合キリスト教について最初からとても知識があったとか、そういうことではなく――ただ、ある個人的な理由から「教会へ一度行ってみよう。それで、お金を変に要求されるとか、そうしたことがあった場合はキリスト教の神さまは本当の神でないとして、今後一切信じまい」みたいに思って教会へ行ったところ……「ここには確かに神さまがいる」というのか、「よく意味はわからないけれども、ここへ来なくてはならない」といった感覚があって、すぐに信じることが出来たのです。
あとにしてみれば、これこそが教会に働く聖霊であると自分でもわかるわけですけれども、こうした種類の――なんていうんでしょうか。聖霊さま(神さまの霊)にフワッと触れられたことで、「意味はよくわからないけれども、この方が神であることがわかる」というのか、こうしたことは知識や理屈ではなく、「感覚」や「体験」として起きることなので、この「救いの経験」に至るために、その前段階としてキリスト教についての知識がまず先に必ず必要になる……といったことではないんですよね。
わたしも、自分が信じるようになる前では、聖書というもの自体が不思議でした。何故といって、あんなに分厚いものを信者は全員読まなければいけないわけで、そうなると知的障害者の方などはどうするのだろう……といった、人間的な疑問があったりしたからです
けれども、実際は、聖霊さまが触れたことで、普段はまるで本など読まない人が聖書だけは熱心に読む……といったように変えられたり、賢い者の知恵を愚かにされる方が、知的障害を持つ方にも御自身の霊によって教えを授け、その方が喜びをもってイエスさまを熱心に信じる……といったことが起きてきたりするわけです。
ですから、実は神さまの御前にはすべてが「Never worry」というか、実際には何も心配する必要も、人間的に不安になったりすることもないんですよね。神さまは「わたしにあなたの愛をください。神さまの永遠のいのちをお与えください」と願う者には、いくらでも気前よくそれを与えてくださる方なのですから。
>>バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
(マタイの福音書、第11章12節)
>>神のことば生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(へブル人への手紙、第4章12~16)
どうか、すべての人が、天国を激しく求め、また大胆に神さまの恵みの御座に近づく者として変えられてゆきますように!またわたしも、そのような信仰の者として聖霊の火を絶やすことなく、心の燃えた者となることができるよう、イエス・キリストの御名によって願います。
それではまた~!!
先日、テレビを見ていたら、とあるとても有名な芸能人の方が――「クリスチャンではないけれど、学校がミッションスクールだったので、聖書の勉強をよくしていた」といったようにおっしゃっていました
それで、深い意味はないんですけど、その時なんとなく思ったんですよね(^^;)
「こういう話、時々聞くことがあるような……」みたいに。つまり、通っていた学校がたまたまミッションスクールで、そこでキリスト教の教えに触れたけれども、べつにクリスチャンというわけではないとか、大学で哲学を専攻していて、そうなるとキリスト教のことを勉強するのが必須となるので、そうした意味で知識的には詳しいけれども、信仰を持っているわけではない……とか、何かそうしたことなんですけれども。
さらには、ずっとミッション系の学校に通っていたものの、キリスト教の思想よりも仏教の思想のほうに自分としては惹かれるものがあり、大学は仏教系のところを選んだ……という方もいます。
たぶん、こう書いてくると、とても不思議になるあるひとつのことがあるのではないでしょうか。
もしキリスト教の神が本当の神さまだというのなら――そうした過程のどこかでこうした人々に御自身をお示しになって、彼らをクリスチャンにならせたりしなかったのは何故なのだろう……といったような疑問です
そのですね、自分が今クリスチャンだから、キリスト教について学びながらもイエスさまを信じる機会だけがなかったとしたら、それはとても残念なことだ……といったことを言いたいわけではないんです
ただ、人が神さまを信じるには<時>があるものですし、「キリスト教を知識としてだけ学んでも、イエスさまこそがわたしの贖い主であり救い主」といったようになるとは限らないというのでしょうか(^^;)
わたしも、学校の世界史でキリスト教の歴史的なことは軽く学びましたけれども、1054年東西教会の分裂とか、1077年カノッサの屈辱とか、そういうのって歴史的出来事として一応学びはしても、「はて、それが本当の意味ではどういうことなのか」って、自分がクリスチャンでなかった当時は意味なんてまるでわかりませんでした。
簡単に言えば、テストの空欄に十字軍とは、(聖地エルサレム)を(イスラム教諸国)から奪還することを目的に派遣された遠征軍のことである……といったように埋めて点数をもらったあとはすっかり忘れてしまうといったことでしかありません
でもそうではなく――イエス・キリストのことを知識によってではなく、真実本当に知るというのはどういうことなのか、何故「この方こそが神さま、神の子である」と、今も十字架の前に身を投げだして信じる人が何万人となくいるのか、その<違い>は一体どこにあるのでしょうか。
これはあくまでわたし個人がそう思ってるっていうことなんですけど……やっぱりそれは、聖霊のバプテスマを受けるかどうかの違いだと思います。このバプテスマという言葉も日本語的に説明が難しい感じがしますが、聖書入門com.様より、引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>バプテスマ(洗礼)の本来の意味は、「一体化」ということです。布を染料液に浸けると、その色に染まります。それがバプテスマの意味です。
たとえば、バプテスマのヨハネの説いた「悔い改めのバプテスマ」とは、ヨハネの語る悔い改めのメッセージを受け入れ、同意したしるしとして受けるものです。これは、クリスチャンが受けるバプテスマとは違い、メシアを迎える心の準備のために受けるバプテスマです。
クリスチャンが受けるバプテスマが象徴する一体化とは、もちろん、「イエス・キリストとの一体化」です。「自分はイエス・キリストを信じた」、あるいは「イエス・キリストと一つになった」、ということを象徴的に表現するのが洗礼です。洗礼は、イエス・キリストを信じてクリスチャンになった人がキリストに従順な生活を始める第一歩です。
ただし、洗礼は救いの条件ではありません。すでに信仰によって罪を赦された者が、主イエスの命令に従って受けるのが洗礼です。
こうしたこともなんていうか、ノンクリスチャンの方が一応読むだけ読んでも「?」と感じるようなことだとは思うんですけど(汗)、一応しつこく説明だけ続けますと、聖書には以下のようにあります。
>>このイエスキリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血によって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
あかしするものが三つあります。
御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
(ヨハネの手紙第一、第5章6~11節)
この御霊(みたま)というのは聖霊のことですが、何故イエス・キリストは、水と血によって来られたのか……といった理屈については、一応聖書の欄外注には†水と血によって来られた方=この場合の水は、キリストの公生涯が始まる時にバプテスマのヨハネから受けたバプテスマを意味し、血は、公生涯の終わりに十字架で流された血を意味する。とあり――でも実は、大切なのはこうした理屈(?)ではないと思うんですよね。
ええと、話は少し飛びますが、以前わたし、キリスト教の慈善団体として有名なある場所で短い期間(三~四か月くらい☆)働いていたことがありました。そこで働いてみようかなと思ったのは(まあ、週に二回くらいのパートみたいなものですけど^^;)、キリスト教の慈善団体ということで、そこでクリスチャンの方と親しくできるといいな……と思ったからでした。
ところが、ですね。その部署の責任者の方自身がまず、「わたしはクリスチャンじゃないけれども、何分こうした施設なので、職員は全員聖書やキリスト教の教えについては定期的に学んでいるし、そうした勉強会の時間も持っている」と面接の時におっしゃっていたんですよね。そんでもって、職員全体のほとんどが実際はクリスチャンではない、でも元が海外から来たキリスト教の慈善団体が母体となっているので、そうしたキリスト教の思想についてはみんな学んでいる……ということだったんですよ。
そのお話を聞いた瞬間、わたしが思ったのは「……………」みたいなことでした。それで、その少数いるっていうクリスチャンの方とイエスさまのお話をしたりしたいので、どの職員の方がクリスチャンなのか教えてもらえないでしょうかってある時聞いたところ――「宗教や信仰の自由、またプライヴァシーといったことがあるので、そうしたことは教えられない」と言われました。
そのですね……こうした形で本当の意味での信仰が実を結ばない、いくらキリスト教について学んでも、イエスさまのことを自分の救い主として信じることだけは決してない――ということがあるということに、自分的にとても驚いたというか(^^;)
いえ、そうした勉強会を通してイエスさまに触れられたり、あるいは教会へ通われるようになってイエスさまのことを信じるに至ることが出来た……という方もおられると思うので、そのことをとやこう言いたいわけではないんです。
ただ、「救われる」というのは本当に神さまの一方的な恵みだということを、あらためて思ったといった出来事でした。何故といって、わたしの場合キリスト教について最初からとても知識があったとか、そういうことではなく――ただ、ある個人的な理由から「教会へ一度行ってみよう。それで、お金を変に要求されるとか、そうしたことがあった場合はキリスト教の神さまは本当の神でないとして、今後一切信じまい」みたいに思って教会へ行ったところ……「ここには確かに神さまがいる」というのか、「よく意味はわからないけれども、ここへ来なくてはならない」といった感覚があって、すぐに信じることが出来たのです。
あとにしてみれば、これこそが教会に働く聖霊であると自分でもわかるわけですけれども、こうした種類の――なんていうんでしょうか。聖霊さま(神さまの霊)にフワッと触れられたことで、「意味はよくわからないけれども、この方が神であることがわかる」というのか、こうしたことは知識や理屈ではなく、「感覚」や「体験」として起きることなので、この「救いの経験」に至るために、その前段階としてキリスト教についての知識がまず先に必ず必要になる……といったことではないんですよね。
わたしも、自分が信じるようになる前では、聖書というもの自体が不思議でした。何故といって、あんなに分厚いものを信者は全員読まなければいけないわけで、そうなると知的障害者の方などはどうするのだろう……といった、人間的な疑問があったりしたからです
けれども、実際は、聖霊さまが触れたことで、普段はまるで本など読まない人が聖書だけは熱心に読む……といったように変えられたり、賢い者の知恵を愚かにされる方が、知的障害を持つ方にも御自身の霊によって教えを授け、その方が喜びをもってイエスさまを熱心に信じる……といったことが起きてきたりするわけです。
ですから、実は神さまの御前にはすべてが「Never worry」というか、実際には何も心配する必要も、人間的に不安になったりすることもないんですよね。神さまは「わたしにあなたの愛をください。神さまの永遠のいのちをお与えください」と願う者には、いくらでも気前よくそれを与えてくださる方なのですから。
>>バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
(マタイの福音書、第11章12節)
>>神のことば生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(へブル人への手紙、第4章12~16)
どうか、すべての人が、天国を激しく求め、また大胆に神さまの恵みの御座に近づく者として変えられてゆきますように!またわたしも、そのような信仰の者として聖霊の火を絶やすことなく、心の燃えた者となることができるよう、イエス・キリストの御名によって願います。
それではまた~!!
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