【使徒ぺテロとアンデレの召命】ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ
(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
(マルコの福音書、第1章14~20節)
――今日、果たして、道で誰かに声をかけられ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたところで、誰かついて行く人があるものでしょうか(^^;)
「大丈夫か、このおっさんww」とでも思って、頭の上でくるくる人差し指を回されるのがオチ☆というか、今はまあそんなことをする人もあまりいないですよね、みたいな感じ(笑)
でも、シモンとシモンの兄弟アンデレ、それにゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(シモン&アンデレ)
すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(ヤコブ&ヨハネ)
「イエスさまに直接呼ばれたとしたら、そりゃーついていくべさ!」(わたしは北海道人☆)という気もするんですけど、自分が今持っている得意な職業を捨ててまで……というのは、実際はとても難しいことのような気がします(^^;)
仮に漁の景気が悪くて貧乏で、他に失うものが何もなかったとしても、いかにイエスさまが特別な方であるように見えたとしても、すぐに網を捨ててついて行くかどうかと問われると、自分的には「う゛~ん」という気がするんですよね。
わたし自身は今のところ、「神さまに100%献身しよう!」とは思えていない不信仰者なので尚更なんですけど(汗)、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネって何気に凄いなって思います。
基本的に彼らというのは、学問のあまりなかった人たち……だったらしいのですが、こと信仰に関しては「そんなの関係ねえ!」(古いよ☆)という感じですよね。
むしろ逆に頭が良すぎて理屈っぽいがゆえに、なんと神に従えない者の多いことよ……という部分があって、神さまの<選び>というのは本当に平等だなという気がします。
シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネがあまりにあっさり単純にイエスさまについて行ってるので、この箇所は案外さらっと読んでしまいがちですけど、ここから他の章に進んでいくと、「財産がありすぎて神さまについて来なかった人」や「父親の葬りのために、ちょっと待ってください」と言う人など、すぐには神さまに聞き従えない人たちが出て来て、自分自身、とても身につまされる思いがします(^^;)
もちろん、お祈りの中などで「神さまにこう語られた気がするから、すぐにでもこの良きことをしよう!」と思ったりすることは信仰者なら誰でもあると思うんですけど……そういう時に一歩立ち止まって、「本当にそうだろうか、間違いないだろうか」と確認することは大切だと思うんですよね。でも、「これは間違いなく神さまから来ている!」と思うことの中には結構、自分にとっては嫌な道である場合があります。そういう時に、神さまから、聖霊さまから「すぐに聞き従いなさい」という促しが来ても、聞き従えない場合というのが結構あるというか
わたし個人の失敗談としては、そうした自分の側の吟味のミスで聞き従えなかったこと、また聞き従えなかったことで祝福を逃したことはとても多いです。では、一体何にわたしは聞き従っていたのかというと、その多くは「自分の合理的な考え」に従っていることがとても多いということなんです。
たとえば、慈善事業をしているNPOやNGOなどに寄付をするのはとても良いことなわけですけど、「どこに寄付をするか」、「いくら寄付すべきか」、「継続して寄付し続けるべきか」といったことは、自分の裁量で決めていいはずだと多くの方は思うと思います。でもやっぱり、こうした時でも<祈りの中で神さまに聞く>というのは大切なことのような気がします。
いえ、今は数え切れないくらいたくさん寄付を必要としているところがあるため、そのすべてに寄付できない以上はやっぱり、祈ることは重要だなと思うんですよね。もしかしたら、お金という目に見える寄付よりも、祈りそのもののほうが大切だという場合すらあると思います。そして、わたしも結構失敗しやすいのが、「人間的に考えてもいいことだから、神さまも祝福してくださるだろう」ということで行動を起こし、その後、「あれ、もしかしたらちょっとずれてたかも……」ということがあったり(^^;)
もちろん、人間が善なる動機でなそうとしたことは、神さまは大抵の場合祝福してくださるとは思います。
でもわたしの場合、結構、祈っているようで、神さまに聞いてないとか、きちんと確認が取れるまで祈りこまずに見切り発車であるとか、そういうことが割合あったりするんですよね
また、神さまの語られたことが、「自分がこうしたい」ということよりも厳しい道だったり面倒な道だったりすると、「聞かなかったことにする☆」ということにより、最善の祝福を逃すということもわたしの場合多いです。そして「自分がこうしたい」と思う道や「人間的に考えて合理的な道」を選んだ結果の刈り取りをする頃になって……「あーあ、あの時神さまにちゃんと聞いてたら良かったな」とあとで後悔するであるとか。。。
こののち、イエスさまの無学といっていい弟子たちは、色々と失敗も犯すわけですけど、その失敗が後世のわたしたちにとっていかに慰めの財産となるか、当時を生きていた十二使徒たちには思いもよらないことだったろうと思います(^^;)
では、次回はイエスさまの悪霊の追い出し、癒し、宣教について、書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
(マルコの福音書、第1章14~20節)
――今日、果たして、道で誰かに声をかけられ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたところで、誰かついて行く人があるものでしょうか(^^;)
「大丈夫か、このおっさんww」とでも思って、頭の上でくるくる人差し指を回されるのがオチ☆というか、今はまあそんなことをする人もあまりいないですよね、みたいな感じ(笑)
でも、シモンとシモンの兄弟アンデレ、それにゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、
すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(シモン&アンデレ)
すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(ヤコブ&ヨハネ)
「イエスさまに直接呼ばれたとしたら、そりゃーついていくべさ!」(わたしは北海道人☆)という気もするんですけど、自分が今持っている得意な職業を捨ててまで……というのは、実際はとても難しいことのような気がします(^^;)
仮に漁の景気が悪くて貧乏で、他に失うものが何もなかったとしても、いかにイエスさまが特別な方であるように見えたとしても、すぐに網を捨ててついて行くかどうかと問われると、自分的には「う゛~ん」という気がするんですよね。
わたし自身は今のところ、「神さまに100%献身しよう!」とは思えていない不信仰者なので尚更なんですけど(汗)、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネって何気に凄いなって思います。
基本的に彼らというのは、学問のあまりなかった人たち……だったらしいのですが、こと信仰に関しては「そんなの関係ねえ!」(古いよ☆)という感じですよね。
むしろ逆に頭が良すぎて理屈っぽいがゆえに、なんと神に従えない者の多いことよ……という部分があって、神さまの<選び>というのは本当に平等だなという気がします。
シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネがあまりにあっさり単純にイエスさまについて行ってるので、この箇所は案外さらっと読んでしまいがちですけど、ここから他の章に進んでいくと、「財産がありすぎて神さまについて来なかった人」や「父親の葬りのために、ちょっと待ってください」と言う人など、すぐには神さまに聞き従えない人たちが出て来て、自分自身、とても身につまされる思いがします(^^;)
もちろん、お祈りの中などで「神さまにこう語られた気がするから、すぐにでもこの良きことをしよう!」と思ったりすることは信仰者なら誰でもあると思うんですけど……そういう時に一歩立ち止まって、「本当にそうだろうか、間違いないだろうか」と確認することは大切だと思うんですよね。でも、「これは間違いなく神さまから来ている!」と思うことの中には結構、自分にとっては嫌な道である場合があります。そういう時に、神さまから、聖霊さまから「すぐに聞き従いなさい」という促しが来ても、聞き従えない場合というのが結構あるというか
わたし個人の失敗談としては、そうした自分の側の吟味のミスで聞き従えなかったこと、また聞き従えなかったことで祝福を逃したことはとても多いです。では、一体何にわたしは聞き従っていたのかというと、その多くは「自分の合理的な考え」に従っていることがとても多いということなんです。
たとえば、慈善事業をしているNPOやNGOなどに寄付をするのはとても良いことなわけですけど、「どこに寄付をするか」、「いくら寄付すべきか」、「継続して寄付し続けるべきか」といったことは、自分の裁量で決めていいはずだと多くの方は思うと思います。でもやっぱり、こうした時でも<祈りの中で神さまに聞く>というのは大切なことのような気がします。
いえ、今は数え切れないくらいたくさん寄付を必要としているところがあるため、そのすべてに寄付できない以上はやっぱり、祈ることは重要だなと思うんですよね。もしかしたら、お金という目に見える寄付よりも、祈りそのもののほうが大切だという場合すらあると思います。そして、わたしも結構失敗しやすいのが、「人間的に考えてもいいことだから、神さまも祝福してくださるだろう」ということで行動を起こし、その後、「あれ、もしかしたらちょっとずれてたかも……」ということがあったり(^^;)
もちろん、人間が善なる動機でなそうとしたことは、神さまは大抵の場合祝福してくださるとは思います。
でもわたしの場合、結構、祈っているようで、神さまに聞いてないとか、きちんと確認が取れるまで祈りこまずに見切り発車であるとか、そういうことが割合あったりするんですよね
また、神さまの語られたことが、「自分がこうしたい」ということよりも厳しい道だったり面倒な道だったりすると、「聞かなかったことにする☆」ということにより、最善の祝福を逃すということもわたしの場合多いです。そして「自分がこうしたい」と思う道や「人間的に考えて合理的な道」を選んだ結果の刈り取りをする頃になって……「あーあ、あの時神さまにちゃんと聞いてたら良かったな」とあとで後悔するであるとか。。。
こののち、イエスさまの無学といっていい弟子たちは、色々と失敗も犯すわけですけど、その失敗が後世のわたしたちにとっていかに慰めの財産となるか、当時を生きていた十二使徒たちには思いもよらないことだったろうと思います(^^;)
では、次回はイエスさまの悪霊の追い出し、癒し、宣教について、書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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