【荒野のイエス・キリスト】(イワン・クラムスコイ)
それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」
イエスは、彼をしかって、「黙れ。この人が出て行け」と言われた。
すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。
「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ」
こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
シモンとその仲間は、イエスを追って来て、
彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。
イエスは彼らに言われた。
「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」
こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
(マタイの福音書、第1章21~39節)
――引用文のほうが長くなりましたが(汗)、イエスさまが悪魔の誘惑、悪魔の試みを受けられてのち、まず行われたのが「悪霊の追い出し」、「病人の癒し」、「福音宣教」ということでした。
たぶん、多くの教会では、新約聖書や旧約聖書を順に読んでいき、そこから牧師さんがお説教されるということが多いと思うんですけど、この「悪霊の追い出し」という箇所に来ると、時々歯切れが悪くなる……ということがあるかもしれません(^^;)
特に、礼拝に初めて来られた方がいた場合など、悪霊がどうこうだの、悪魔(サタン)がどうこうだの言ってしまって、「おかしな人☆」とか「カルト宗教??」みたいに思われたくないという、人間的な考えがつい働いてしまうというか
わたしが救われた先の教会では結構この、「悪霊・サタン」といったようなことは、普通に当たり前のように話されていたことだったので(ほとんど日常会話的な・笑)、「あ~、わかるわかる。確かにそういうのはある」という感じで、割合ナチュラルに受け容れることが出来たんですよね(^^;)
個人的に、聖書のこの箇所で大切なのは、何もこうしたこと(悪霊の追い出し)は、イエスさまの時代にだけあったことではなく、今もまったく同様のことがあるということだったでしょうか。
つまり、そうした悪霊やサタンといったような存在に縛られて苦しんでいる方が今も間違いなく確かにいるし、そうした存在が出ていった時に癒される人も間違いなくいらっしゃるということなんですよね。
もちろん、こうしたことをあんまりストレートに書いてしまうと、「だからキリスト教はおかしいんだ☆」と思われてしまうと思うので、その部分を恐れるあまり、この種のことは大きな声で語らないようにする……ということが時にあるかと思います(^^;)
でも結構、勇気を出してこのことを言ってみると、わたしがそうだったみたいに、割合自然に「なんかそういう存在がいるというのはわかる」と受け容れる方っていうのは多くいらっしゃるんですよね。
そして次に「病人の癒し」ということですけど、このこともまた、イエスさまの時代にだけあったこと……と理解するのではなく、今の時代も「イエスさまの御名に頼るならば」、同じように癒しは起きると信じて祈ることがとても大切だと思います。
と同時にイエスさまは、悪霊の追い出しや癒しを行うのと平行して、「神さまの福音を宣べ伝える」ことも行っていて、おそらく人々はイエスさまのこの有難いお話以上に――イエスさまの神の子としての<業>そのものを見て、彼の言うことを信じたのだろうなという気がしたり。。。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
(ヨハネの福音書、第14章11~14節)
イエスさまのおっしゃったこの御言葉の原理を適用すると、病いの床にある人のために祈るということは、とても大切だということがわかります。
なんていうか、「一応祈ることには祈るけど、でも結局治すのは医者だ」といったようなことではなく、また気休めとして祈るのでもなく、イエスさまが行ったような偉大な業があらわれることを信じて癒しの祈りをすることが大切、というか。
奇跡というものは、信じた人間にしか起こりえないものですから。
昔、女優のメグ・ライアンさんのインタビューを読んだことがあって、それは「シティ・オブ・エンジェル」という映画に関してのインタビューだったんですけど、彼女はその中で外科医を演じていたので、参考としてお医者さんの何人かにこう聞いてみたそうです。
「神さまを信じていますか?」と。すると、ほとんどの方(確か全員^^;)が「ノー」と答えたそうなのですが、次に「奇跡はあると思いますか?」と聞くと、「イエス!!」とすべてのお医者さんがお答えになったそうです。
神はなくとも奇跡は起きる……これが最先端の科学的医療の真髄(?)なのかもしれませんが、でも個人的には間違いなく奇跡の起こった背景に、その患者さんのために患者さんの家族が祈っていたであるとか、そうした祈りの作用というのはあると思うんですよね。
悪霊の追い出しに、病人の癒し、そして福音宣教、イエスさまは御自分の時が満ちた三十歳という時に、こうした数々の奇跡を行っていかれました。病人の癒しというと、なんらかの肉体的な疾患を連想してしまいがちですが、イエスさまは人々を霊的な縛りからも解放することで――精神的な病いにかかっておられる方をも癒していかれたのだと思います。
そしてこの霊的な縛りというのは今日でも当然あって、そうした事柄から解放されるように祈っていく……ということも大切なんですよね。ある個人の方に対しても、自分自身に対しても、あるいは日本という国全体についても、これは言えることだと思います。
では、次回はマルコの福音書より、らい病人の方の癒しについてからはじめたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。
人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。
「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」
イエスは、彼をしかって、「黙れ。この人が出て行け」と言われた。
すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。
「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ」
こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。
イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
シモンとその仲間は、イエスを追って来て、
彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。
イエスは彼らに言われた。
「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」
こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
(マタイの福音書、第1章21~39節)
――引用文のほうが長くなりましたが(汗)、イエスさまが悪魔の誘惑、悪魔の試みを受けられてのち、まず行われたのが「悪霊の追い出し」、「病人の癒し」、「福音宣教」ということでした。
たぶん、多くの教会では、新約聖書や旧約聖書を順に読んでいき、そこから牧師さんがお説教されるということが多いと思うんですけど、この「悪霊の追い出し」という箇所に来ると、時々歯切れが悪くなる……ということがあるかもしれません(^^;)
特に、礼拝に初めて来られた方がいた場合など、悪霊がどうこうだの、悪魔(サタン)がどうこうだの言ってしまって、「おかしな人☆」とか「カルト宗教??」みたいに思われたくないという、人間的な考えがつい働いてしまうというか
わたしが救われた先の教会では結構この、「悪霊・サタン」といったようなことは、普通に当たり前のように話されていたことだったので(ほとんど日常会話的な・笑)、「あ~、わかるわかる。確かにそういうのはある」という感じで、割合ナチュラルに受け容れることが出来たんですよね(^^;)
個人的に、聖書のこの箇所で大切なのは、何もこうしたこと(悪霊の追い出し)は、イエスさまの時代にだけあったことではなく、今もまったく同様のことがあるということだったでしょうか。
つまり、そうした悪霊やサタンといったような存在に縛られて苦しんでいる方が今も間違いなく確かにいるし、そうした存在が出ていった時に癒される人も間違いなくいらっしゃるということなんですよね。
もちろん、こうしたことをあんまりストレートに書いてしまうと、「だからキリスト教はおかしいんだ☆」と思われてしまうと思うので、その部分を恐れるあまり、この種のことは大きな声で語らないようにする……ということが時にあるかと思います(^^;)
でも結構、勇気を出してこのことを言ってみると、わたしがそうだったみたいに、割合自然に「なんかそういう存在がいるというのはわかる」と受け容れる方っていうのは多くいらっしゃるんですよね。
そして次に「病人の癒し」ということですけど、このこともまた、イエスさまの時代にだけあったこと……と理解するのではなく、今の時代も「イエスさまの御名に頼るならば」、同じように癒しは起きると信じて祈ることがとても大切だと思います。
と同時にイエスさまは、悪霊の追い出しや癒しを行うのと平行して、「神さまの福音を宣べ伝える」ことも行っていて、おそらく人々はイエスさまのこの有難いお話以上に――イエスさまの神の子としての<業>そのものを見て、彼の言うことを信じたのだろうなという気がしたり。。。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
(ヨハネの福音書、第14章11~14節)
イエスさまのおっしゃったこの御言葉の原理を適用すると、病いの床にある人のために祈るということは、とても大切だということがわかります。
なんていうか、「一応祈ることには祈るけど、でも結局治すのは医者だ」といったようなことではなく、また気休めとして祈るのでもなく、イエスさまが行ったような偉大な業があらわれることを信じて癒しの祈りをすることが大切、というか。
奇跡というものは、信じた人間にしか起こりえないものですから。
昔、女優のメグ・ライアンさんのインタビューを読んだことがあって、それは「シティ・オブ・エンジェル」という映画に関してのインタビューだったんですけど、彼女はその中で外科医を演じていたので、参考としてお医者さんの何人かにこう聞いてみたそうです。
「神さまを信じていますか?」と。すると、ほとんどの方(確か全員^^;)が「ノー」と答えたそうなのですが、次に「奇跡はあると思いますか?」と聞くと、「イエス!!」とすべてのお医者さんがお答えになったそうです。
神はなくとも奇跡は起きる……これが最先端の科学的医療の真髄(?)なのかもしれませんが、でも個人的には間違いなく奇跡の起こった背景に、その患者さんのために患者さんの家族が祈っていたであるとか、そうした祈りの作用というのはあると思うんですよね。
悪霊の追い出しに、病人の癒し、そして福音宣教、イエスさまは御自分の時が満ちた三十歳という時に、こうした数々の奇跡を行っていかれました。病人の癒しというと、なんらかの肉体的な疾患を連想してしまいがちですが、イエスさまは人々を霊的な縛りからも解放することで――精神的な病いにかかっておられる方をも癒していかれたのだと思います。
そしてこの霊的な縛りというのは今日でも当然あって、そうした事柄から解放されるように祈っていく……ということも大切なんですよね。ある個人の方に対しても、自分自身に対しても、あるいは日本という国全体についても、これは言えることだと思います。
では、次回はマルコの福音書より、らい病人の方の癒しについてからはじめたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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