神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

朝が来る。

2018年08月08日 | キリスト教


 >>私の悩みとさすらいの思い出は、
 苦よもぎと苦味だけ。
 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
 私はこれを思い返す。
 それゆえ、私は待ち望む。

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
 主のあわれみは尽きないからだ。
 それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
 主こそ、私の受ける分です」と
 私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。

(エレミヤの哀歌、第3章19~24節)


 ――聖書に関連して、<朝>と聞きますと、主イエスの復活の朝のことをまず真っ先に思い浮かべるのですが、まず、マタイの福音書の第28章を引用させていただきたいと思いますm(_ _)m


 >>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 すると、御使いは女たちに言った。

「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました」

 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

(マタイの)


 また、これとは反対の状況として、

 >>ドマに対する宣告。
 セイルから、私に叫ぶ者がある。
「夜回りよ。今は夜の何時か。
 夜回りよ。今は夜の何時か」
 夜回りは言った。
「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。
 もう一度、来るがよい」

(イザヤ書、第21章11~12節)


 ということがあると思います。

 わたしの持っている聖書の欄外注によると、ドマ=エドムの象徴名、セイル=エドムのこと、とあります。

 また、

 夜回り=預言者のこと。神の時を知っていることからこう言われた。

 今は夜の何時か=朝はいつ来るのかの意。すなわち、苦悩はいつ終わるのか、との質問。

 朝が来、また夜も来る=苦悩からの解放の時は来る。しかし、悔い改めないなら苦悩は続く、の意。


 とあります。

 イザヤ書のこの前後というのは、神の民イスラエルの敵対国への厳しい裁きが並んでいるのと同時に、イスラエル自身もまた神に聞き従えなかったことで裁きの対象となっており――このことはまた同時に現代の色々な国々やわたしたち個人にも当てはめることが出来ると思います。

 現実の自然現象としての朝が来て昼になり、夜が来る……ということの他に、わたしたちは苦悩ということがある時、朝が来ても心の中は真っ暗闇だ、ということがありますよね

 そして、もし真実の神を知らないなら、何度「助けてください」と偶像のところへ行って「今は夜の何時か」と聞いても(=一体いつになったら、何時くらいにこの苦悩は終わるのか)と聞いても、「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい」としか言われないわけです。

 で、この状況ってほんっと~にツライものなんですよね。。。

「この苦しみは、痛みは、悲しみは、一体いつ終わるんですか」と叫び祈っても、また朝が来て夜が来て、何度も何度も何十度も何百回も何千回も何万回も同じように同じことを尋ねているのに――「また来い」としか言われないわけですから

 でも、イエスさまに聖霊さまを通して祈るなら、朝が来ない、ということはないというより、「確かにそのままでは夜明けは来ない。だが、あなたはその代わりにこうせよ」とか、別に言葉をいただくことが出来るというか。


 >>主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。

(詩篇130編)


 詩篇が書かれたのは、イエスさまが受肉される前ですから、この<主の待望>というのは本当に切実なものがあったと思います

 深い淵からということは、死の危険を感じるくらい絶望していたのかもしれませんし、また、現代のクリスチャンがここを読む場合も、そこまでじゃなくても気分が落ち込んでいる、信仰が折れそうになっている……ということがあるかもしれません。

 けれども、この短い詩には希望があると思うんですよね。

 作者は深い淵から主を呼び求めて祈り、夜回りが夜明けを待つのにまさって主を求め――そして、最終的に祈りの中で答えを得たのだと思います。いずれ、待望されたメシアであるイエスさまが来られるのだから……という、そこまでのビジョンを祈りの中で得たわけではなかったかもしれません。

 けれども、捕囚時代の他国へ離散したイスラエルの民がここを読んだ場合、必ずや主はもう一度エルサレムを再建してくださる……主は必ずやそのことをなしてくださるという確信と希望を得ることが出来たのではないでしょうか。

 また、神さまは各信徒の個人的な悩みにも答えてくださる方ですから、いずれ自分の苦しみや痛みや悲しみ、悩み、問題にも解決が与えられる、最善がなされるということも詩人は夜明けとともに、きっと同じように自分の悩みや問題にも朝が来ると、最終的には信じることが出来たのではないかと、そんな気がします。。。

 夜明け前の闇こそ一番深いとよく言いますが、でもその一番深い闇の中に置きざりにされて終わる……ということが、そうした人生を送られる方がいるということがあるということ――わたしも、もしイエスさまに出会ってなかったらそうだったかもしれません。

 けれども、

 >>光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

(ヨハネの福音書、第1章5節)

 >>たとい私が
「おお、やみよ。私をおおえ。
 私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
 あなたにとっては、やみも暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗やみも光も同じことです。

(詩篇、第139編11~12節)


 と聖書にあるとおり、そんな闇の暗い淵からさえも、イエスさまは必ず救ってくださるのです。

 そして、最初のエレミヤの哀歌に戻りますが、神さまに聖霊さまを通してより頼む者は、朝ごとに新しく力を受けることが出来ます。


 >>主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、
 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。
 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

(詩篇、第103編3~5節)


 >>主が家を建てるのでなければ、
 建てる者の働きはむなしい。
 主が町を守るのでなければ、
 守る者の見張りはむなしい。
 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、
 辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
 主はその愛する者には、眠っている間に、
 このように備えてくださる。

(詩篇、第127編1~2節)


 絶望の悩みの中で、「なんであれはああでこうでそうなんでしょう、神さま。わたしは何も悪いことはしてないのに、なんでこんな目に遭ってるんでしょう。ブツブツ。でもこのことをすべて神さまに委ね、感謝し、賛美します」といったように祈りつつ眠りにつくなら――翌日の朝には、神さまから新しく力を与えられ、半ばブツブツ文句を言ったような祈りさえも神さまは聞いておられ、眠っている間にすべてを整えてくださいます。そして、確かに朝には新しく力を得て、まるで若いわしのように天高くのぼっていくことが出来る……個人的には、ずっと長く神さまに祈り、自分なりに出来得る限り神さまに忠実であろうとした結果――こうしたことはすべて本当だというように、歓喜とともにそのように思わされます。。。

 それではまた~!!





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