神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

この世で一番大切なのは、<神>と<永遠>。

2019年02月11日 | キリスト教


 太陽の寿命はあと約50億年、そして、地球の寿命は17億5千万年くらいではないかと言われているそうです。

 正確には、17億5千万年~32億5千万年の間に、地球は人が住むのに適したハビタブル・ゾーンではなくなり、まずは太陽が膨張したことにより、地球は気温が上がって海が干上がるそうなのですが、なんと言いますか、人類ってそれ以前に滅んでいそうではありますよね(^^;)

 そして、わたしはクリスチャンなので、当然それよりもずーっと以前にイエスさまが地上に再臨されると信じているわけですけれども(笑)、手塚治虫先生の地球の未来を扱った大傑作漫画、『火の鳥』などでは「聖書の廃棄」ということが言われています

 作中に言及はなかったと思いますが、これから先、千年が過ぎ、二千年も過ぎて、科学がさらに進んで他の惑星へ人が移住するのが当たり前というくらいになったとしたら――聖書に書かれていること自体が意味を持たなくなるだろう……手塚先生はそうおっしゃりたかったのかなって思います(あくまでも「作品の設定」としてということですけれども^^;)


 >>また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」

 すると、御座に着いておられる方が言われた。

「見よ。わたしは、すべてを新しくする」

(ヨハネの黙示録、第21章1~5節)


 確か、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』に、この新天新地に関して面白い言及があったように記憶してるんですけど、今手許に本がない(というより、ダンボールのどこに入ってるかわかんない☆)ので、~~みたいに書いてあったよーな……という、わたしの頼りない記憶によりますと。。。

 イエスさまが再び地上へやって来られ、選ばれたキリスト教徒、クリスチャンたちは神さまの用意してくださっている「天国」、「天の御国」へ入ることが出来、その後千年王国の最後に、封じられていたサタンは火と硫黄の池に投げ込まれるわけですが――完全なる天国、イエスさまの統治しておられる御国の現われののち、人々がそこへ入国してからさらに時が経ち……その後、再び一から世界がはじまり(つまり、創世記の時代になる)、旧約時代が過ぎ、キリストがメシアとして地上へやって来られて新約時代となり、最後にまたイエスさまの再臨・携挙があり……ということを実は宇宙や人類はすでに何度も繰り返しているのではないか、という推論をしている箇所があったと思います(^^;)

 このドストエフスキーの想像ももっともなことで、そのくらいわたしたち人間という有限なる存在には、神さまのおっしゃる<永遠>って理解不能だったりしますよね。。。

 また、わたしの持っている聖書には永遠について、次のように記述があります


 †永遠=時間的秩序を超越していることを指すことばで、時間に関する神の無限性を意味する。神は永遠に存在される神であり、神の王国は永遠の王国である。神は永遠の計画によって、永遠の契約を結び、永遠の福音を示された。神のさばきの刑罰も永遠のものである。


 この天地や宇宙を創造された神は、時間のみならず、当然全空間ということについても主権を持って治めておられ――こう考えた場合、おそらくわかるあるひとつのことがあると思います。

 かつてわたしがノンクリスチャンであった頃、とあるノーベル賞を受けた大変賢く頭の良い方が天国についてこのようにおっしゃっているのを聞いたことがあります(といってもまあ、冗談めかして、ということではあるのですけど^^;)。

 つまり、この地球が誕生して以降、死んだ人のすべてが天国にいるのだとしたら、向こうは人口爆発で大変なことになっているだろう、と。記憶あやふや☆ですが、大体の文脈としては、だから天国なんてあるとは思えないのだ……といったことだったと思います。

 わたし、このことをテレビで見た時、まだノンクリスチャンだったので、「確かにそうだよなー☆」的に思った記憶があります。けれど、イエスさまのことを信じてキリスト教徒になった今はわかります。

 この全天全地、宇宙のすべてをお造りになった方は、時間や空間、時空のすべてに主権を持っておられ、<永遠>にして<無限>でもある方なのだから、わたしたちの死後もおそらくそのようなものなのではないだろうか、と……。

 つまり、人間の肉のありようとしては、物理的支配に縛られるわけですけれども、霊、魂、心、精神だけの死後のありようになったとすれば、そのような時間や空間に縛られる考え方は一切しなくなるようになるのではないか、ということです(^^;)。

 もちろん、今生きているわたしたちは血肉の体を持って、無限に小さな脳の中で色々な制約の中、凝り固まった考えに縛られざるをえないので――そのような魂の自由、霊の自由といったものは、ある程度の範囲でしか想像できないと思います。

 ようするに、「もしそんな完全なる自由が手に入ったらどんなに素敵かしら」と憧れ、翻って自分が今の人生で抱える不安や苦しみや悩みのことを思って惨めになり……でも、イエスさまの御名をしっかりと抱きしめるように握ってさえいれば、死後にはそのような世界へ行くことが出来るのだという、魂の平安と希望で喜び輝くことが出来るのです。

 こうした事柄について、「くだらない気休め」と嘲笑う人もいるというのは、わたしもよくわかっています。

 けれども、わたしは<死>ということについては、若い頃から非常に深く考えてきましたので(詩人のエミリー・ディキンスンが死を擬人化し、隣人、友、あるはい恋人として死を扱うのとよく似ています)、そこまで行くと、死は恐怖や不安の対象ではなく――本当にすぐ隣で手を握っている親しい友のようにすら感じられてきます。

 そして、彼(彼女)は骸骨姿で薄汚いローブを身に着け、手に鎌を持っているといった存在ではなく、実は平安と希望に輝くキリストであるのです。


 >>わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、
 彼らを死から贖おう。

 死よ。おまえの棘はどこにあるのか。
 よみよ。おまえの針はどこにあるのか。

(ホセア書、第13章14節)


 >>朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

(コリント人への手紙第一、第15章53~54節)


 わたしがイエスさまのことを信じておらず、ノンクリスチャンであった頃、死というものは暗闇、暗黒、無に包まれて終わっていました。けれども、イエスさまはそのような死にも打ち勝った方であり、この方のことを信じてさえいたなら、死を根源とする人の恐怖や不安は平安と希望にすっかり変わってしまうのです。

 この生命のすべての源なる神を信じる以外に、この地上に大切なことはないと思います。

 目に見えない神さまよりも、家族や恋人や友人のほうが大切だ……という場合でも、やはり死後にこのすべての人と出会えるためにも、同じ天国にいる必要がある、ということになるのではないでしょうか。。。


 >>ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙、第11章33~36節)


 この<永遠>から<永遠>へと至る神さまのことを信じましょう。

 ただ、わたしたちは脆弱な今の血肉の体の中にあるうちは、苦しみや悩みや不安や試練があり……いずれこうしたことも結局は小さなこととして過ぎ去るにしても、心弱く囚われてしまうものです。

 けれども、イエスさまはそのようなわたしたちの小さな悩みや苦しみや人生上の困難にも目を止めてくださり、そのような小さな砂粒程度のわたしたちの悩みから、宇宙の果てがどうなっているかという大きなことに至るまで、本当にすべてをご存じであられる方なのですから、この方にすべてをお委ねし、聖霊さまを通して助けていただきましょう。


 >>あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

(詩篇、第8編3~6節)


 脆弱な被造物であるわたしたちも、神さまのことを信じて祈るなら、宇宙の果ての果てまでもを見通す方が、同じ眼差しでもって目に留めてくださるということ――これこそ、イエスさまを信じるクリスチャンすべての人生の望みであり、特権であると言っていいのではないでしょうか。

 それではまた~!!





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