神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまのブラックジョーク。

2019年02月13日 | キリスト教
【人類の永遠の敵】


 かなり昔のことになりますが、ラジオで大好きなDJさんがこんなお話をされていたことがありました。。。

 アメリカの通販で、「誰でも絶対確実にゴキブリを殺せるセット!!」というのがたったの10$で売られていたそうです。ところが、これが届いてみると板がたったの2枚入っているだけだったのだとか。

 あの、これ、どういうことかおわかりいただけますか?(^^;)

 つまり、中に入っていた取扱説明書みたいのには、次のように書いてあったそうです。


①板Aを床の上に置く。

②板Aの上にゴキブリを乗せる。

③板Bで、板Aに乗せたゴキブリをすり潰す。


 ハイ、もうおわかりですね?これなら本当に、絶対確実にゴキブリさんは死んでしまいます(笑)

 いえ、ようするにこれはアメリカならではのユーモア商品ということで、買った側は「あちゃ~。騙されちゃったよ!」となって、わざわざこれでクレームを言ったり、「金返せよ!」みたいにはならないっていうことなんですよね(^^;)

 ただ、これはアメリカならではの商品ということで、日本で同じものがもし売られていたとしたら、このユーモアが理解されず、クレームの山&「金返せ!!」の嵐になるんじゃないかっていうことだったんですけど(ようするに、国民性の違いというやつでしょうか)。

 で、話はちょっと飛躍するようですが、わたしたちが神さまに求めてる問題解決っていうのも、これと似たところがあるんじゃないかなってなんとなく思いまして(^^;)

 つまり、「あーしてこーすれば君の問題は解決するよ」っていう理論として、板Aと板Bが送られてきても――「だーら、どうやってゴキブリを板Aに乗せるんじゃーいっ!!」という。。。

 いえ、わたしたちが具体的に問題解決の手法として知りたいのって、どうやってこのゴキブリをすり潰すかっていう、その部分ですよね。「だーら、触りたくも見たくもねえゴキブリをどうやって捕まえるのか、そこをオレはあんた(神☆)にやって欲しいんだよーおッおっ!!」っていう。

 でも、自分がクリスチャンになってみると、ノンクリスチャンだった頃一番の悩みだったこの部分について教えられる……というか、ゴキブリのような触りたくも見たくない問題をどうすればいいのか、祈りの中で聖霊さまを通して聞いていくことで、どうすればいいのかがわかっていくというのでしょうか(^^;)

 なんと言いますか、わたしたちが一番求めるのはおそらく、神さまが業をなしてくださって、いつの間にかゴキブリがいなくなっている、翌日何故か部屋の隅で死んでるのを発見する――といったことでしょうけれども、それ以上の方法を主は教えてくださることがあると思います。

 いえ、結局のところ、相手ゴキブリですよ??えーと、「そもそもオマエ、北海道にゴキブリいねえだろッ!!」と言われるとアレなんですが(ドレだよ・笑)、まあ結局それに相応するような害虫は存在するということでお話進めさせていただくと、まあ、世の中にはゴキブリ殺すための色んな殺虫剤があったりもしますし、祈って聞いたところ、神さまはそういうものを使って問題に勝利せよとおっしゃる場合もあれば、「何故そんな、たかがゴキブリを怖がるのだ」と語られる場合もあると思います。

 実際、「家のどこかに今もゴキブリがいるうぅッ!!」と怯えて暮らすよりも、「フッ。まあ確かに奴らは時たま顔をだすが、見かけたら殺せばいいだけのことよッ!!」と強気な気持ちで暮らすのか――という気の持ちようでも、その人が問題と取り組む姿勢っていうのは変わってくるものなのではないでしょうか。。。

 なんと言いますか、わたしがこの記事書くきっかけになったのが実は、ゴキブリが三匹くらい部屋に出てくるという、ひっじょーに嫌な夢を見たからだったりします(^^;)

 いえ、実は三匹ともぺしゃんこ☆になってるんですけど、それでもまだ息があって元気に動き回れているというところで目が覚め……なんというか、目が覚めたあとにこう思ったわけです。「そっか。わたしが今抱えてる問題は同じように解決しないんだな」と。実は嫌がらせ的行為を受けている人がいるのですが、わたしが夢から覚めたあと思ったのが実は、「ゴキブリが三匹とも完全に死んでいてくれたら良かったのに」ということでした。。。

 でも、よく考えてみると、神さまはどんな人にも悔い改める機会を与えてくださっているわけですし、わたしもかつては(あるいは今も??)こんなゴキブリのように神の御前に価値のない存在だったのに、それをイエスさまは救ってくださったのだから――神さまの愛というのは実はそのくらいに深いものなのだと、今週(2/10)のパウロ秋元牧師のメッセージをインターネット礼拝で聞いていて思ったという次第です(^^;)

 ええと、確かにわたしたちは神さまの愛を受けるに価いしない存在であるとはいえ、流石にわたしも自分が神さまの御前に中身の内臓が飛びだして自転車に轢かれたようなゴキブリのように無価値(笑)とまでは思ったことはありませんでした

 でも、人は誰しも誰かに憎しみの心や、あるいは憎しみというほど強い感情ではなくても、相手を邪魔に感じたり、「あんな人、いなければいいのに」と思ったりすることがあると思います。そして、そういう時に、相手のことをゴキブリのような存在として感じていることがあり、それであればこそ、「あんな奴どうなろうとどうでもいい☆」といった形でのいじめということが起きてきたりもするのでしょう。

 けれども、神さまはこのゴキブリ同士の骨肉の争いとでも表現すべき醜い争いにさえも勝利しておられ、「あなたたちは和合して暮らしなさい」とおっしゃっておられるわけです。また、イエスさまが十字架におかかりになったのは、父なる神とわたしたち罪深い人間とが和解へ至るためであり、すべての人がこの「型」に習い、イエス・キリストを模範として生きるようにという、そのためでもあったのですから……。


 >>そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神のない人たちでした。

 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

(エペソ人への手紙、第2章12~18節)


 もちろん、今日から突然「ゴキブリを愛そう!!」とか言われても、かなりのとこ無理があるわけですが(笑)、比喩として考える分には――「いや、俺あいつのこと嫌いだけど、流石にゴキブリとまでは思ってないよ」といった場合、まだ何かこう希望が残っていると言えるのではないでしょうか。。。

 それではまた~!!





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