神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天の御国。

2018年04月09日 | キリスト教
【天国】モーリス・ドニ


 >>天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。

 そこで、彼はその人たちに言った。

『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから』

 彼らは出ていった。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。

『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか』

 彼らは言った。

『だれも雇ってくれないからです』

 彼は言った。

『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』

 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。

『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい』

 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。

『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです』

 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。

『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか』

 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」

(マタイの福音書、第20章第1~16節)


 わたしの持っている聖書の欄外注には、※一日一デナリ=当時の労務者の標準的日給。とありますから、とりあえずわかりやすく現在の北海道の最低賃金=810円×8=6,480円くらいということにしておきたいと思います(^^;)

 ぶどう園の主人(神・イエスさま)は、朝早くに労務者たちと一日一デナリの約束ができると、次に九時ごろ、別の人たちを雇いました。この労務者たちには、一デナリではなく、『相当のもの』という約束をしています。また、次に十二時と三時に雇った労務者たちにも同じようにしました。

 そして最後――五時に雇った人たちには、特に賃金支払いの約束はせず、ただぶどう園へ行くようにと言いました。けれども、ぶどう園の主人は最後、すべての人に一デナリ(6,480円)の支払いをしたのです。

 これ、現代で言うとしたら、どういうことになるでしょうか(^^;)

 また、このたとえ話がいつの時代に語られたものであったとしても、おそらく大抵の方が、朝から日照りに苦しみながら働いた労務者の言い分が正当であり、彼らが文句を言うのも当然のことだと思うのではないでしょうか。

 聖書のこの箇所も、日曜礼拝で牧師さんが色々な解釈でお話してくださると思うのですが、わたし的にはここの聖書箇所は<天国>のたとえと解釈するとわかりやすいのかなってこの間聖書を読んでいて思ったというか。。。

 >>「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」……というあの有名なイエスさまのお答えのように、この一デナリ銀貨はおそらく、表にはいばらの冠をかぶったイエスさまの像が、裏にはイエス・キリストと銘が刻まれているのではないでしょうか。

 つまり、朝早くに神さまを信じて仕えた人も、九時や十二時や三時や五時に神さまを信じて忠実に働いた人も――いただいた恵みは同じでした。

 これはあくまでたとえ話ですが、簡単にいえばこのイエスさまの刻まれた銀貨を持っているということが、彼こそがただひとり神さまの御子であると告白するのと同じ役割を果たし、フリーパスで天国への門をくぐれるということなのです。

 そしてこう考えてくると、神さまはどの人にも不当な扱いはしていない……ということがわかってくるのではないでしょうか。けれど、「あとの者が先になり、先の者があとになる」とのイエスさまのお言葉通り、先の者にはあとから来た者に対し、仕事を教えてあげたりといった職務が当然あると思うのです(ここに、自分を信じようとしないパリサイ人に対する、イエスさまの痛烈な皮肉があるのは言うまでもありません^^;)。

 つまり、そうした通常の仕事に加えた、あとからやって来た者をどう扱うかといった責任が「先の者」、つまりは朝早くから働いていた者にはあり、でもおそらくわたしが想像するには――朝早くから働いていた者の態度(パリサイ人の態度)というのは、おそらくは傲慢なものであったり、「そんなこともわからんのか!」とか「このへっぴり腰め!」といったような、神さまの目から見てとても褒められたものではなかったのではないでしょうか。

 それであればこそ、神さまは先の人たちに「わたしはあなたがたに何も不当なことはしていない」とおっしゃったのではないでしょうか。つまり、もしこの朝早く働いていた人が、とても融和的な態度で、親切に優しくあとから来た人たちに色々教えたりして、食事時にもお弁当を気前よく分けてあげるといったような態度だったとしたら……イエスさまはきっと、朝早くから働いていた人に「最初の約束は一デナリでしたが、あなたがたは本当に良い働き人だから、ボーナスとして十ミナあげましょう」といったようにおっしゃったのではないでしょうか(ルカの福音書にある、神さまから1ミナ与えられた人がその1ミナさえも奪われてしまったのも、同じ理由のような気がします)。(※1ミナ=100デナリ)

 つまり、朝早くから働いた人も、九時から働きはじめた人も、十二時に働きはじめた人も、三時、あるいは五時から働きはじめた人も――神さまの目から見た場合、条件はみんな一緒だったのです。あとからやって来た人に親切に仕事を教えてあげたり、少ない食事の中から相手に分け与えてあげたりとか、神さまが評価されるのは常に、その人の「信じる態度」や「信仰そのもの」であり、さらにまた、神さまが「わたしはあなたがたに不当なことは何もしていない」とおっしゃったということは……一見人間の目には不公平に見えながら、この神さまの態度というのは実は間違いなく正しいものなのです。

 そしてまた、わたしたちクリスチャンには、九世紀頃イエスさまのことを信じた人も、十二世紀頃イエスさまを信じた方も、あるいは十五世紀、十七世紀頃にもたくさんのキリスト教徒、クリスチャンがいました。けれども、どの時代に神さまのことを信じた人にも、神さまが問われることはまったく同じなのではないでしょうか。

 おそらく、ノンクリスチャンの方にとっては「最後の審判」といったキリスト教の思想は気に入らないものではないかという気がするのですが(笑)、けれど、この方がのちの日に裁きの座に立たれる時――1デナリすらも捧げるものがないという者でないよう、小さなことにも神さまに忠実に、信仰の道を歩んでいけたらと願います

 それではまた~!!



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