神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

罪人を招くために。

2014年11月03日 | キリスト教
【聖マタイの召命】カラヴァッジョ


 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。

「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」

 イエスはこれを聞いて言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」

(マタイの福音書、第9章9~13節)


 アルパヨの子レビ(マタイ)の信仰も、とても立派だなあ、と自分としては思います。

 シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネも、すぐに神さま、イエスさまのあとに従ったという点ですごいと思うのですが、マタイ(レビ)もまたイエスさまが呼ばれた瞬間に従っているんですよね。

 シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネは「網を捨て置いて」イエスさまについて行ったのですが、漁師である彼らよりもある意味マタイ(レビ)のほうがイエスさまに従いにくかったのではないか……といったように、自分としては感じます(^^;)

 わたしも聖書に関してまだまだ不勉強なので、当時のイスラエル・エルサレム周辺の文化や習慣がどのようなものだったか、謎のベールに包まれている部分が多いのですが、マタイの福音書の注釈を読んでみると、


 ※収税人=ローマ政府のために税を取り立てる人、不正徴収や背任行為のかどで非難されていた。(簡単に言うとすれば、不正徴収や横領をしたりしてたということですね^^;)


 とあることから、現代でいう、一種の役人、あるいはサラリーマンにも近い役職にマタイ(レビ)はあったのではないかと想像します。

 つまり、もし今でいうとしたら、市役所の納税課の役人の方や、あるいは民間企業のサラリーマンの方が、突然仕事をやめてイエスさまが呼ばれたから牧師・伝道者になることにした……何かそんなイメージが自分としてはあるというか(^^;)

 マタイにもおそらく、仕事を通しての人づきあいですとか、家族を養っていかねばならないであるとか、色々な事情があったと思うのです。

 でも、イエスさまが呼ばれて彼が従ったことから思うに、マタイは自分の仕事のことが実はとても嫌になっていたのではないでしょうか。自分の同胞に嫌われる仕事に就いていることもそうだったでしょうし、でもこの仕事を辞めたら次にどうしたらいいのか……といった葛藤を抱えていたのかもしれません。

 こうしたことはあくまでわたしの想像の域を出ないことではありますが、イエスさまはそうしたマタイの心の内を見透かした上で彼のことをお呼びになったのではないかと、そんなふうに思ったりもします。

 ルカの福音書のマタイ召命に関する箇所では、


 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという収税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。

「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」

 そこで、イエスは答えて言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」

(ルカの福音書、第5章27~32節)


 とあることから、マタイはおそらくそれまでにあった世間的人づきあいですらも放棄する覚悟のあったことがわかります。

 何もかも捨てとあることからしてそうですし、自分の家で大ぶるまいをしたと書かれていることからも、彼が収税人として裕福であったことがわかります。そしてマタイの家には、この時だけでなく色々な大勢の人が出入りしていて、食事をふるまったりしていたのでしょう。

 にも関わらず、そうした世俗の人々がどう思うかなど関係なく、イエスさまに聞き従うと決めたマタイって、正直すごいなと思うんですよね。

 この時マタイの心の中では悔い改めの実が結ばれていたのでしょうし、何よりも彼には他のパリサイ人や律法学者たちとは違い、自身に対する罪の自覚があったのだろうと思います。

 そしてこうした世俗的な汚れを振り捨てたいと思いながらも、自身の意志の弱さによるためか、そうも出来ず、がんじがらめに縛られていた罪の綱をイエスさまが解いてくださった……自分的には「マタイの召命」の記事というのは、そんなふうに読める箇所だったりします(^^;)

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」

 ここのイエスさまの御言葉もすごいですよね。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』……これは、ホセア書の第6章6節、「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」から来ていると思うのですが、簡単に言ったとすれば、形式的に信仰を守ることよりも、誠実に真実な心を持って神を礼拝する者をこそ、神は喜ばれるということなのだと思います。

 つまり、神に対する信仰といったものが形骸化しているパリサイ人その他の律法学者たちに対する痛烈な皮肉ですよね。そしてこの世界には、神おひとりの他には正しい方は存在されませんから、人間といったものは皆すべて何かの点で罪を犯している罪人なわけです。イエスさまはそうしたすべての人々を救いに招いておられると思うのですけど、パリサイ人をはじめとする律法学者たちは「救い?わしらにはモーセがおるから、貴様などから救いを受ける必要はない」といったように、自らの意志・判断でイエスさまを拒んでいるということが――何よりの、彼らの罪深さの証明なのだと思います(^^;)

 そしてそれがいかに罪深く、むしろ神に背を向ける行為であるかに彼らは気づいてないわけですが、やがてイエスさまを十字架につけることにより、パリサイ人その他の律法学者たちの罪は極みまで達し……そんな(霊的に)盲目な彼らのことでさえ、イエスさまは「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言われ、赦されるのでした

 では次回は、「新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえ」のあたりからはじめたいと思います♪

 それではまた~!!




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