神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

マーフィの成功法則。~その2~

2021年11月22日 | キリスト教

 この「マーフィの法則」って、実は結構有名なものだったんですね(^^;)

 自分でもウィキで調べてみたところ……すごく面白そうだったので、そのうち著作を買って読んでみようと思いました(ちなみに、このこととわたしの信仰心とは関係ありません。ただ、一般的知識としてちょっと読んでみよう、くらいなことなので)。

 それで、今回は「その2」ということで、本の中でキリスト教に関わりのあることも多少書かれていたので、その中でわたしが印象に残ったことについて、少し引用させていただきたいと思いましたm(_ _)m


 >>保険業にたずさわっていたハリー・デキャンプという人物の話である。

 ハリーはかなりの出世を果たしたが、ある日、膀胱ガンの宣告を受けた。「あとどのくらい……」という質問に医者は黙るだけであった。

 余命いくばくもないハリー。しかし、ハリーは生命の偉大な治癒力を信じ、ありったけの想像力を発揮して、自分が回復するドラマチックなシーンをイメージすることにした。一日百回、二百回、三百回とイメージングを繰り返した。ガン細胞を完全に打ち破る戦闘シーンを思い浮かべた。するとどうであろう。半年後の健康診断ではガン細胞は消滅していたのである。

 イメージングすることによって潜在意識の力を借りれば、精神的なプレッシャーや慢性病だけでなく、ガンまでも克服してしまうこともあるのだ。

(『マーフィの成功法則』謝世輝さん著/三笠書房より)


 この部分は、祈り方として普段クリスチャンの方が祈る場合でも大体のところ同じように祈りますよね

 もちろん、これはだから「最終的に癒されたほうのやり方/祈り方」のほうが優れているとか、そうした話ではないのです。たとえば、『人はなぜ治るのか』という有名な本がありますが、どの宗教を信じている人でも、あるいは神など信じてなかったけれど、余命いくばくもないと知り、突然あらゆる民間療法(あやしげなもの含む☆)を試し癒された場合――それは「どういうことなのか」の結論として、医学博士である著者のアンドルー・ワイルさんは、こうおっしゃっています。

 それは、その人自身に備わっている自己治癒力が解放された、ということなのだと。

 ええとですね、ワイル博士は、元は科学的なことしか信じないというくらいの、そうした種類のことに関して物凄い懐疑家だったわけです。ところが、御自身の体のことで同じお医者さんで、その後ホメオパシー医に転向していた友人に相談したところ――治ってしまったわけですよね。その前に西洋医学系の病院で色々検査されたところ、食道痙攣と診断されていた症状が。

 そして、長い問診のあと、「君は硫黄タイプだ」と言われ、その硫黄タイプの人に対して処方されるレメディ(ラクトース(乳糖)で希釈した硫黄の懸濁液を一滴しみこませたもの)を飲んだところ、すっかり治ってしまう。それまで、西洋医学の信徒だったワイル博士は、「これはどういうことだ!?」となり、自分のみならず、こうした民間療法系のもので癒された例がいくつもあるのは何故だろう……ということに疑問を持ち、調べはじめるわけです。

 この「人はなぜ治るのか」は間違いなく名著ですし、読んでいただければ、あやしげな本でないことはおわかりいただけると思います。何より、新井宏二牧師先生が癒しのセミナーの中で言及されていた本でもあります(また、新井先生が何故この本に言及されたのかも、読んでいただければ大体意味のほうはわかります^^;)。

 つまり、前回の1との関連で言いますと、大いなる潜在意識とも言うべき「宇宙の心」に願おうとも、その他のキリスト教、イスラム教、仏教その他の神さまに癒しを願おうと、結論は「自己治癒力が解放されるか否か」が鍵なのか……ということをわたしは言いたいわけではありません。

 わたし自身が癒しを祈って誰かが癒された場合――それは「イエス・キリストの御名によって」いつでも祈っているという意味で、それは間違いなく神さまの、イエスさまの十字架の御業、復活の御力がその根底にあるということです。

 あと他にもう一箇所、本に書かれている例を引用させていただきたいと思いますm(_ _)m


 >>たびたび紹介してきた『成功哲学』の著者であるナポレオン・ヒルの息子の話だ。息子は、医者から一生ろうあ者として過ごさなければならないと宣言されたように、耳がない障害児で生まれた。

 だが、ナポレオン・ヒルは、その著書の中で記している。

「私は医者の言葉を信じなかった。私にはそうする権利があると思ったからである」

「私は息子が聞いたり、話したりする能力をもっているはずだと信じていた。方法さえ見つかれば、息子は正常になることができるはずだと信じていた」

 そのためには何をすべきか。

「耳がなくとも音を頭脳に伝達する方法があるはずだ、という私の燃えるばかりの願望を、信念を、わが息子の心に植えつけることが先決だと考えた」

 なにをばかな!そんな事不可能だ!と感じる読者もいるかもしれない。しかし、ナポレオン・ヒルはただひたすら可能性を信じた。

「私は誰にも打ち明けなかったが、ただ毎日、息子はろうあ者ではないのだ、とそれが信念となるまで自分にいい聞かせ続けたのだ」

 息子に確固たる願望を植えつけること――いつの日にか聞こえることが可能になることを信じさせる――ナポレオン・ヒルと息子は願望の炎を燃やし、信念を育てる共同作業を続けた。

 ついに事態は好転した。あるきっかけが見つかった。

 ナポレオン・ヒルは息子の頭蓋骨のななめ下の方にある、少しとがった骨に唇を当ててしゃべってやると、よく聞こえるようになることを発見した。また、息子が二十歳になったころ、ある補聴器を耳に相当する部分に当てると、ついに音を聞くことが可能になった。そればかりではない、息子は補聴器の改良点やアイディアを補聴器メーカーに提供、収入も約束されることになったのだ。

 ナポレオン・ヒルは述べている。

「まさに『燃えるばかりの願望』こそ不可能を可能にする力なのであり、息子が正常な聴力を得ることができたのも、この願望の力のおかげだった」

 この願望の力、それはいうまでもなく信念そのものである。願い続け、信念が潜在意識と結びつくとき不可能はなくなり、すべては可能になる。回復が困難と思える病気すら退けてしまうのである。

(『マーフィの成功法則』謝世輝さん著/三笠書房より)


 自分的に、大切なのはこうしたことだと思うんですよね

 確か、ナポレオン・ヒルさんはクリスチャンで、子供さんたちもそうした方向で育てた……んじゃなかったかなと思うのですが、このくらい「諦めない」ということが、神さまに祈る場合に絶対必要なのではないでしょうか(いずれ、ナポレオン・ヒルさんの本も読んでみようと思っています)。

「こんな祈り、聞かれるはずがない」とか、あるいは心が何かの強い罪悪感で縛られているような場合……「こんなわたしが祈っても、神さまが聞いてくださるはずがない」とか、そうした隠れた物思いがあって、でも申し訳程度に「無理だろうけど、一応祈っておこう」という場合でも、聞かれることはわたし自身はあると思っています。

 このあたりが、わたし個人の考えと「マーフィの法則」との違いで、マーフィさんはそうした願う力の弱い、宇宙の心に送り込むイメージングの力が弱い場合は、その願いごとが叶う確率は低いとおっしゃっていると思うんですよね。

 でもイエスさまは心の広い方なので、その人に「そうした思い煩いがある」、「そのように自分で自分を縛ることをやめられない」、「イエスさまを信じているのに、なおかつ罪悪感で苦しんでいる」……そうした人々の心の細かいところに至るまで、間違いなく確かに考慮に入れてくださるのです。

 ただ、祈りの中で自分の思い煩いがどのようなものかを申し上げ、「自分でもやめたいと思うがやめられない」、あるいはイエスさまの十字架の血潮の力によってどのような種類の罪をも許されているはずなのに、なおかつ罪悪感で苦しむとすれば、べつのところに問題があるかもしれませんので、牧師さんや他の信頼できるクリスチャンの方に相談するなど、他の対応が必要になってくるとは思います。

 なんにしても、『マーフィーの成功法則』という本を読んで(ちなみに著者はマーフィさんではなく、謝世輝さんです)わたしが一番感銘を受けたのが、このナポレオン・ヒルさんの息子さんのお話だったので、ここのみちょっと引用して記事を書きたいと思ったというか(^^;)

 それではまた~!!



P.S.ここ書き終わってから、ナポレオン・ヒルさんのことを軽くググってみたところ……「かなりのとこ、問題のある人物なのかな?」という気がしてきました(笑)。やっぱり、自己啓発本というのは「結構いいこと書いてあるな~」なんて思っても、マユにツバして読むくらいがちょうどいいのかもしれませんね(^^;)






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