神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

浅瀬の人生から、深みへ漕ぎだしてゆく人生へ。

2018年09月28日 | キリスト教
【奇跡の漁り】コンラート・ヴィッツ


 >>群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。

 話が終わると、シモンに、

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

 と言われた。

 するとシモンが答えて言った。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」

 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。

 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」

 と言った。

 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。

 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」

 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

(ルカの福音書、第5章1~11節)


 人生における苦しみやつらさや痛み……そんなものはもちろんないほうがいいに決まっているのですが、苦難がないと決して気づけないこと、成長できないことって、自分の人生を振り返っても結構あった気がします(^^;)

 でも、苦難を乗り越えたあと、それが自分の人生の糧になったから、乗り越えたあとはそれが自分にあって良かった――と、思える場合はいいのかなって思うんですよね。

 たとえば、アスリートの方がオリンピックのために努力して、それまで苦難の道を通ったことが心身の糧となり、そうした辛酸を経験しなければ、決して自分はメダルに到達することはなかっただろう……そして、その努力が見事実って念願のメダルを手にした場合などは、目標を達するのと同時に、その前にあった苦難のことなどは記憶の中で薄れてゆくかもしれません。

 でも個人的に、「この苦難はないほうが良かった」というものが、自分の人生の中にはあり、そのお陰で人間性が練られたとか、確かにそういうことはあるにしても、でも「あって良かった」とは思えない人生経験って、誰しもひとつくらいはあるものなのではないでしょうか。

 もちろんわたし、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実践するようになって長いので……そうしたひとつひとつについて、心から感謝し、神さまのことを賛美しているものの――誰でも、ずっと浅瀬で漁をしてきたのに、ある時否応なく深みのほうまで引きずりこまれる……という瞬間があるのではないでしょうか。

 そのままでいたら(苦難を経験しなかったら)、浅瀬と陸の往復で終わっていたかもれない人生……一般にこれを人は幸福と呼ぶと思うのですが、深みで漁をして戻ってこなくては、決して手に入らないものがこの世にはあるのだと思います。

 でも、自分から進んで深みへ漕ぎだしてゆこう……という方は極少数なのではないでしょうか(^^;)

 ペテロのように、「イエスさまがそうおっしゃるなら」という態度で聞き従える方というのは、そう多くないのではないかという気がします。それまで漁をしていて取れなかったし、ガリラヤ湖の漁師の常識としては、浅瀬で漁をするのが普通だったのですから、なおさらだったのではないでしょうか。

 しかも、人生の中には自分の判断で深みに漕ぎだしていったものの、素手で帰ってくる、また、人や何かに強制されて深みへ漕ぎだしていったものの、結局何も取れなくて戻ってくる――ということがあると思います

 ペテロが大漁だったのは結局、>>イエスさま(神さま)がそうおっしゃった時に、すぐその御言葉に聞き従えたからだと思います。

 けれど、でも、人生の深みに漕ぎだしていって(苦難を経験して)>>素手で帰ってくる、>>結局何も取れなくて戻ってくるって、実は結構大切なことだったりもしますよね(^^;)

 わたし、そのことも神さまに感謝していますけれども、人生の深み(苦難)を経験して>>素手で帰ってくる、>>結局何も取れなくて戻ってくる……って、実際本当に相当キツイことです。。。

 ただ唯一良かったと思うのは、思えるのは、そうした経験をしたことで、「より他の人の痛みがわかった」、「苦しみがわかるようになった」という、そうしたことだと思います。

 もちろん、これは目に見えない心の財産ではあるでしょうけれども、個人的には正直、そうした経験をして良かったかといえば、ちょっと難しいところもあるな、という気もしたり(^^;)

 その経験が軽~中程度のものであったとしたら、人生経験としてのちにはプラスになったと言えるでしょうけれども、あんまり重いものになると、神さまに感謝もしますし、そのことで文句を言うこともなかったにしても――「でも、あるよりはないほうが良かった不幸」というのは、正直、この世の中にはあると思います。。。

 そして、唯一、神さまが>>「深みに漕ぎだしなさい」と言った時だけ、深みに漕ぎだすというのは、信仰的に本当にコツ☆がいると思ってまして(^^;)

 たとえば、神さまがそう言っておられるわけではない時に深みに漕ぎだしていってみたりっていうのは危険ですし、本当に神さまの御声に聞き従ってタイミングのあった時に出てゆかないと、大漁(奇跡)を経験することはない――という意味あいにおいて。

 また、>>彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。……とあるように、>>「何もかも捨てて」っていうのも、第二のポイントとしてとても重要ですよね(^^;)

 けれども、「何もかも捨てて、深みに漕ぎだしてゆく」――そして、この場合はこれがもし出来たなら、神さまの守りは100%その人とともにあると言っていいと思います。

 でも、この神さまに対する聞き従いっていうのが出来るかどうかっていうのが、本当に信仰の分かれ道と言いますか、イエスさまのことを信じた段階で、天国へ行けるという保証は永遠に約束されていますし、聖霊さまを受けた段階で折にかなった助けを受けることも出来ます。けれど、信仰的にさらに上をゆく、神さまに忠実に聞き従って地上でも奇跡を経験してゆくためには、究極的にこの態度が要求されるところがあると思うんですよね(^^;)

 そして、それがクリスチャンの方でもノンクリスチャンの方でも……あんまり人生修行を積みすぎて、「浅瀬ではもう漁をしない」、「深みにしか漕ぎだしてゆかない」という人生観で生きている方がいらっしゃると思います。

 その場合、クリスチャンの方でしたら、神さまに絶対の信頼を置いて深みに漕ぎだしてゆくのだと思うのですけれども、ノンクリスチャンの方の場合でしたら、「海を信じる」(ガリラヤ湖は湖ですけどね^^;)、ということなのではないでしょうか。

 それが海じゃなくて山登りでも、自然と一体となり、自我というのがなくなるように感じられる瞬間というのがあると思うのですけれども、なんというのでしょう、東洋系の思想観だと、感覚としてそれがもっとも神と一体になれている、あるいはそれにも近い感覚を人間にもたらす……みたいなところがありますよね

 けれども本当に、深みで漁をしていて神さまへの信頼による守りがあるという感覚は、何にも増してキリスト教に特有のものだと思います。何故かと言いますと、イエスさまの御名にお頼りさえしていればいいのですから、他の難しい人間的手続き等が一切必要ないからです♪

 これからも、この方の御名にのみ頼り、信仰の道を歩んでいきたいと、そのように願っています

 それではまた~!!





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