いえ、べつにこれは哲学的な問いかけとか、そういうことじゃありません(笑)
でも、一体何をもってして「あれは間違いなく存在している」と定義するかといえば……△□町の某所には間違いなく市民会館がある――といったようなことは、衛星写真によって、あるいはその近くに住む人々の証言などによってその存在が確かめられるということになるのではないでしょうか。
人がいつかは死ぬということと、時間の流れだけは誰の上にも平等だとよく言いますが、キリスト教、あるいは他の宗教でも、死後にも我々の意識は存在すると言っています。
日本人の場合特に、そこに生前の善行が天国へ行くか地獄へ行くかを左右する、悪いことをするとお天道さまが見ている……といったように考えるわけですが、その点、キリスト教では「イエス・キリストを主と告白する、イエスさまが神の御子であると告白する」者だけが天国へ行けるということで、一般的にこれは、「そんなの、おかしいじゃーないかー」みたいに受け止められるわけです(^^;)
それで、こうした種類の「存在」の意味として、クリスチャン、キリスト教徒に大切なのは、死後にも存続する意識が天国へ行けるかどうかということなのだと思います。じゃあ、生前の意識のありようは何も問われないかといえばそんなことはなく……人間、自分ではただ「普通に生きている」つもりでも、「ただ普通に生きているだけなのに、何故こんな目に」みたいな不幸や労苦といったものはつきまとうものですよね。
そして、そうした時にイエスさまに祈って助けていただいたりするごとに信仰が強められ――今、この地上は天国でなくても、「もしここがイエスさまが一緒の天国だったら」自分はこうするだろう……といった行動規範に沿って思索し、行動する、あるいはそう出来なくても、出来得る限りそうなれるように努力するわけです。
たぶん、自殺するといったことをかなり深刻に考えたことのある方や、あるいは病気などによって死を間近に感じたことのある方、あるいはもう死を避けることが出来ないとわかっている方の中には――今の意識が死後の意識へ移行する瞬間のことをかなり意識されるのではないでしょうか。
もっともわたしの場合、自殺をかなり深刻に考えていた時には、死後も意識は存続するとは考えませんでしたし、脳なり心臓なりが活動を終えれば、意識は闇に包まれて見えなくなり、何もなくなる……という、その<無>ということ、無に還るということが何より救いでした。
でも、クリスチャンにとってはこうしたイエスさまにある、神さまにある存在こそが一番大切なことなんですよね。
旧約聖書において、神さまはモーセにしばの中にお現れになりました。
>>モーセは神に申し上げた。
「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか」
神はモーセに仰せられた。
「わたしは、『わたしはある』という者である」
また仰せられた。
「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」
(出エジプト記、第3章13~14節)
では、逆にいうと、神さまにあって「おまえはない者だ」、神にあっては「存在しないも同然の者だ」ということになるのは、どういうことなのでしょう?
正直、わたしはイエスさまのことを信じていて、聖霊さまをいただいていて、ただそれだけで天国へ行けるとわかっていますが、かといって、神さまの御前に何か誇れるものがあるかといえば、本当に何もなくて、行いに関することではまったくの<無>ではないかという気がしてなりません。
けれども神さまは、この<無にも等しい者>をあくたから引き上げ(ようするに、塵あくたのあくたですね^^;)、天国でイエスさまへの信仰を守り通したがゆえに、その者の頭には冠が輝くであろう……とおっしゃってくださるわけです。
>>しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
(コリント人への手神第一、第1章27~28節)
これはあくまで、わたし個人の考えですが、神さまにとって「存在する者」、「在る者」というのは、祈る者、神さまやイエスさまのことをいつでも考えようとする傾向にある者、のような気がします。
もちろん、日曜礼拝を守ったり、献金したりとか、他にも、信仰を行動で示す方法はいくつもあって、そちらも当然守るべきことなのですが、わたしたち信仰者のほうでも「今、神さまはわたしとともにあってくださっている」と、聖霊さまを通して実感できるのは、自分のほうでもイエスさまや神さまのことを思考している時であり、その結果として日曜礼拝を守ったりといったその他の行動が起こされて、さらに信仰が強められていく――といったように、そうした循環があるように感じます。
もちろん、わたしが神さまやイエスさまのことを考えていなくても、神さまやイエスさまはいつでも、そこいらじゅうにいます。それを人間のほうで意識するかどうかというのは、その方の意識の問題であり、それでも一度そのことに<気づく>ことが出来ると……「地上もまた、本物の天国ほどではなくても、別の意味では天国だ。何故ならここにも神さまはいらっしゃるから」というふうに考え方が変えられていくのではないでしょうか。
もちろん、「では何故こういうことがあるのか」とか「起きるのか」といった地上的悲劇というのは、人間がこの世に誕生して以降、数え切れないほど存在しています。わたし自身もそうした問題は自分の人生にありますけれども、「何故」と神さまに問う前に「信じる」ことが出来るというのは、ただ、神さまの側の恵みと思います。
そして、一度「信じる」ことが出来ると、すべての謎や疑問は、意識が聖霊さまを通して神さま、イエスさまとひとつになるような感覚の前には――つまり、死後はそのようになる、これだけ素晴らしい「意識の変容」以上のことがあるという理解を通し、ただ「イエスこそ主」と魂が告白するようになるという、キリスト教における信仰告白というのは、そのようなことなのではないでしょうか。
それではまた~!!
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